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第一章 / 第10話
青藍の検査結果の紙を握りしめて、鶸の声が少し細くなった。
「セイラン、おとなになっちゃうの?」
「いや、まだだろ」
「でも、下がってるって、そういうことでしょ」
「そういうこともある、って話」
「やだ」
「ヒワ」
「やだ。セイラン、まだおとなになるなよ」
鶸が青藍の腕を掴んだ。
青藍は小さくため息をのみこんで、それから鶸の頭に手を置いた。
「でも、いつかそういう時も来るだろ?」
「来なくていい」
「俺が決められることじゃない」
「決めてよ」
「無理だな」
「やだ」
鶸の声が少し震えた。明るい色の目が赤くなっていた。泣くほどではないが、泣くひとつ手前にいるような。
青藍は、鶸の頭を軽く撫でた。
「大丈夫だって。お前はたぶん、しばらく平気だろ」
「ボクの話してない」
「うーん」
「してないよ。セイランの話」
「俺の話なら、まだ要面談もついてない」
「でも、適性下がった」
「ちょっとだけだ」
「ちょっとでもやだ」
鶸は青藍の腕を引っ張った。
青藍は鶸に引っ張られながら、困ったように笑っていた。それでも、笑顔の側を鶸に見せようとしていた。
深緋はそれを、テーブルの向かい側から見ていた。
何も言えなかった。口を開いたら、何か違うことを言ってしまいそうだった。
*
夜になって、鶸はわりと普通に夕食を食べていた。
食堂に入る前から「炊き込みご飯だ!」と叫び、いつも通りおかわりもして、肉のトマト煮込みに入ったにんじんは、また青藍に押しつけた。
「お前は好き嫌いがなー」
「だってにんじんだから」
「理由になってない」
鶸はそれを見て笑っていた。さっきまで泣きそうになっていた顔は、もういつも通りになってきた。
深緋は、ご飯は半分くらい食べたが残した。青藍はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
部屋に戻る廊下で、鶸は青藍の少し後ろを歩いていた。廊下の窓から夜の光が細く入っている。部屋に戻って、青藍が扉を閉めた。
その音がした途端だった。
「……やっぱやだな」
鶸が、小さく言った。
深緋は振り返った。鶸はその場に立ったまま、青藍の袖を掴んでいた。
「ヒワ?」
「やだ……」
さっきよりずっと子どもっぽい声だった。
青藍は苦笑している。
「だから、まだ決まったわけじゃないから」
「でも数値下がってたんだろ……」
鶸の声がだんだんかすれていく。
「だってセイランだぞ!」
「わかったから」
「わかってない!」
「……わかってるよ」
青藍が静かに言った。そして少ししゃがんで、鶸の頭を撫でた。
鶸はメソメソし始めた。声を殺そうとしているのに、うまくできていなかった。青藍は慣れた手つきで鶸の背中を軽く叩いていた。
深緋は少し離れたところから、それを見ていた。
「ほら、ベッド行け」
「やだ……」
「歩けるだろ」
「歩けない……」
「歩いてるだろ、もう」
青藍は鶸の背中を押しながら、部屋の奥のベッドまで連れていった。鶸は途中で一回立ち止まったが、また押されて、のろのろ歩いた。
「子どもかよ」
「子どもだもん……」
青藍が少しだけ笑った。
「知ってる」
そのままベッドに潜り込んだ鶸の毛布を、青藍が直してやると、鶸は目を擦りながら丸くなった。
「セイラン」
「ん」
「おとなになるなよ……」
「はいはい」
「返事てきとー……」
「寝ろ」
青藍はぶっきらぼうに返す。
鶸は何かぶつぶつ言っていたが、途中から聞こえなくなった。寝息に変わっていく。
部屋が静かになった。
青藍はため息をついて机へ戻った。結果の紙を開いて少し眺めてから閉じ、封筒にしまって引き出しへ入れた。
深緋は自分のベッドに座って窓の外を眺めていた。青藍に聞こえないように、ゆっくり静かに深呼吸をした。鶸の「おとなになるなよ」という言葉が、何度も何度も頭の中で回っている。
そっと横になる。布団に包まって。膝を抱えるみたいに、小さく丸くなる。
「コキア」
青藍の声がした。
深緋は答えなかった。
「コキア」
「……なに」
「飯、残してたろ」
「ちょっとお腹いっぱいだったし」
「そうか」
触れられないガラスのような沈黙が流れた。
机の椅子がきしむ音がした。青藍の気配が、ベッドの近くまで来る。
「コキア」
「うん」
「……大丈夫だから」
青藍の優しい声に、深緋は布団に顔を半分押し付けた。
「うん」
布団の中で小さく返事をした。声が震えたのに気付かれただろうか。
それ以上は言わなかった。言えなかった。青藍も、もう何も言わなかった。
布団の上からぽんぽんと叩かれて、また椅子が軋む音がした。
窓の外で風が出ていた。ガラスが小さくカタカタ鳴った。
部屋の照明は、いつも通り均一に光っていた。換気もよく効いていた。湿り気はなかった。机の上に、検診結果の封筒だけが見えていた。
深緋は目を閉じた。眠くはなかった。ただ、目を閉じていたかった。
鶸の寝息が、静かに聞こえていた。
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