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第5章 埋まらない溝 / 第10話
図書室で本に囲まれ、地べたに座る。多少はしたないかもしれないけれど、これが私の自然体だ。リュシアンやオーレリアの目に触れなければそれで良い。リュシアンと対面を果たしてから今日で三日――進展はない。
もう私は振り落とされてしまったのだろうか。逃げ帰りたくはないのに、自信のなさが覗く。
「なにか連絡くれても良いのに」
ボソッと呟いてみるものの、それを拾い上げてくれる者もいない。
次の本に取り掛かろうと、隣に積み上げていた深緑の背表紙に手を伸ばす。
「エレナ」
聞き覚えのある声が耳に届く。嘘だと思いながらも、ゆっくりと顔を上げた。柔らかな表情を湛えたリュシアンと目が合う。
「どうしてこのようなところに?」
慌てて立ち上がったため、ヒールのバランスを崩してしまった。転びそうになった私の腕をリュシアンが咄嗟に掴む。
「で、殿下」
「あっ、申し訳ありません。軽々しく女性に触れてはいけないと分かってはいるのですが、つい」
リュシアンは微笑みを崩さず、そっと手を離す。
「エレナ、明日にでも二人でお茶をしませんか?」
「えっ?」
先ほどは杞憂だったのだろうか。深紅の薔薇が咲いたかのように胸が温かくなる。
「勿論、喜んで」
「良かった」
リュシアンは更ににこっと笑い、胸に手を当てた。
「それを伝えに、わざわざ来てくださったのですか?」
「ええ。部屋に行ったらエレナがいなかったものですから、侍女に聞いて」
妃候補にそこまでする王太子が他国にいるだろうか。驚いてしまい、それ以上の言葉が出てこない。
「では明日の十四時に、裏庭の薔薇庭園で」
爽やかな笑みを残して去っていくリュシアンを呆然と見ていた。物音一つしない図書室で、夢でも見ているかのようだ。
「わ、私ったら……次の本を読まなきゃなのに」
再び地べたに座り、膝の上に本を広げる。赤くなった頬を隠す必要もない。私にだけ向けられた笑顔を思い出しながら、一人悶えるのだった。
* * *
その時は静かに、確実にやってきた。顔合わせでは着られなかった、父に買ってもらった深紅のドレスを纏い、暖色の化粧を施す。おまけにヒールも深紅だ。このドレスは、いわば私の闘志の表れなのだ。破り捨てられていなくて良かった。
セリスの後に続き、薔薇庭園を目指す。庭には初めて足を踏み入れる。上手くリュシアンと花を立てられるだろうか。心配ではあるけれど、一対一では誰かを頼る訳にもいかない。自信を持つんだ、私、と自身を鼓舞する。
そして、裏庭にリュシアンの姿はあった。紺の衣装に白い薔薇を一本携え、微笑みを湛えてこちらの様子を窺っている。自然と走り出していた。
「リュシアン殿下、お待たせして申し訳ございません」
「私が好きで早く来ていただけですから。急がなくて大丈夫ですよ」
それでも、急ぎたいのだ。うっすらと芽生え始めた恋心に、自分でも驚いてしまう。
「今日も可憐で美しい」
リュシアンの元へ辿り着くと、彼は持っていた白薔薇を私の銀髪に挿した。
「良く似合っていますよ」
にこりと笑うリュシアンに、胸がときめいてしまう。こんなの、誰でも言える褒め言葉なのに。
「リュシアン殿下はお世辞がお上手ですね」
「そんなことはありませんよ」
変わらない笑顔を見ているだけでは今の言葉が世辞なのか、本音なのかすら分からない。視線を落とし、はにかむしかなかった。
「薔薇はご覧になりましたか?」
「いえ、実はまだなのです」
「一緒に見て回りませんか?」
「はい」
リュシアンは一つ一つ薔薇の品種を覚えているらしく、私にその名を説明してくれた。それは良いのだけれど、一度で覚えられる自信はない。幸いにも品種の記されたプレートが掲げられているので、後で復習も出来るだろう。
リュシアンは深紅の薔薇の手前で足を止める。
「この薔薇はオリヴィア」
「まるで人名のようですのね」
「そのまま人名を表していることもありますよ。ですが、この薔薇はエレナと改名しても良いほどに貴女に似ている」
そうだろうか。こんなにも高貴で気高く、情熱的な薔薇に似ているだなんて。
「殿下、それは言い過ぎでは」
「いや、これは第一印象で、の話です」
「第一印象?」
「ええ」
小首を傾げると、リュシアンはその隣に咲く薄紫の薔薇に手を伸ばす。
「貴女の心はスイートムーン。こちらによく似ています」
繊細で可憐な薔薇――意外な選択に、薔薇をしげしげと覗き込んだ。リュシアンの瞳には、私はこのように映っていたのだろうか。
「あ、いけませんね。そろそろ座りましょう。足は疲れていませんか?」
「これくらいなら平気です」
私が「ふふっ」と笑うと、リュシアンも小さな声を上げて笑った。
香り立つ色とりどりの薔薇を眺めながら、ガーデンチェアに腰を下ろす。すぐさまセリスがお茶を用意してくれた。この赤い液体は紅茶ではないだろう。フルーティーな香りがする。
「上質なローズヒップティーですよ。どうぞ召し上がってください」
「ありがとうございます」
ローズヒップティーなんて上品なものは嗜んだことがない。色に騙されて甘いのかと思いきや、酸味が舌を刺激する。慣れていないことがバレてしまわないように、平然と角砂糖を一つ落とした。スプーンでかき混ぜると、白はほぐれて消えていく。
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