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第1話 / 全1話
雨。
壁に打つ音が夜に響く。
黒。
夜の印象と言えばそればかり。
月も星も浮かばずに。
重く沈む。
息も出来ないほど。
そんな世界に覆われた狭い家の、さらに内側の窮屈な一室に敷かれた古びた布団。
その上に薫は横たわっていた。
線香の香りが彼女が本当に死んだのだという事実を、未だ定かならない現実の中に漂わせている。
あるいはその匂いが辛うじて実感を伴わせているのかもしれない。
空気より重く、涙よりは軽い。
煙の灰色。
薫の人生を私はよく知らない。
おそらくは誰も知らないのだろう。
好きなものも、嫌いなものも。
どのように生きて、どうして死んだのかも。
二十数年も生きたのに彼女の通夜に集まった者は私を含めてさえ十人も届かない。
涙の落ちない目と欠伸を嚙み殺したような表情を浮かべる男性。
死を理解出来ない故に愚図る名も知らない子供とこれ幸いと注意をして連れ出してしまう女性。
数えきれないほどに繰り返してきた故か、まるで録音されているかのように一定のリズムを崩さないお経。
全てが終わり風のように部屋を去った参列者。
私はその最後の一人だった。
少しだけなら私は薫のことを知っている。
得意な科目は国語で特に古文が好き。
反対に苦手な科目はそれ以外の全て。
友達らしい友達はおらず、登下校はいつも一人きりで好意的に話しかけてくる同級生が居ても無視をする。
だからいつも独りぼっち。
クラスの端っこでぼんやりと空ばかり見つめている。
それが私が知っている薫の認識だった。
これも何年も前の記憶だけれど。
私が他の人と違ったのは薫とは幼馴染であった事だけだ。
だからこそ、私は幼い頃の薫のことなら普通の人より知っていた。
好きな食べ物はオムライスで、嫌いな食べ物はキノコ類全般。
体育が好きな活発な子供で、大人しい子相手でもむしろ自分から絡みに行くほど。
クラスの中心にいるような子供だった。
それが変わってしまったのが高校生の夏休みの日に家族旅行の帰り道で事故に遭い両親を亡くしてからだ。
薫自身も数日は目が覚めなかったと聞いたけれど、目覚めてからは人が変わったように誰とも話さなくなった。
心配してやってきた人々を追い返し、それどころか来訪者を嫌って自宅にも戻らず電話も繋がらない。徹底的に人と会うのを避け続け、遂に周りの大人達もそっとしておくべきだと言って会いに来なくなって、やがて薫のことは忘れてしまった
私も含めて。
最後に顔を見てから三年ほど経ったある日。
薫が死んだと聞いても特に感じることも思う事もない。
少しだけ驚いたけれど、本当にその程度しか感じなかった。
驚くほどに薫の家には何もなかった。
死ぬ日を予期していたかのように。
家の中は引っ越しした直後のように何もなく、毎日掃除でもしていたのかどの部屋にもほとんど埃も落ちていない。
持ち物は本当に僅かで自分の部屋に敷かれた布団と一人分の食器くらい。
それ以外にはたった一つ。
枕元に置かれた一枚の手紙。
『生まれ変わって夫婦になりましょう』
誰に宛てたか誰も分からない。
薫には彼氏はもちろん、友達も知り合いすらいない。
自分から全て切り離してしまったから。
相手は誰か分からない。
もちろん、私だって。
薫は今。
その手紙を胸に抱えて静かにねむっている。
「薫」
私は今、ようやく薫に声をかけた。
本当に少しだけだけど。
薫のことを知っていたから。
他の人よりは。
「誰に。宛てたの?」
薫はこんなことをしない。
そう。
無意味なことは。
薫の性格が変わったのは独りきりになってからだ。
薫が他の人を避けるようになったのも独りきりになってからだ。
なら、独りきりになった薫は何のために、誰のために、こんな手紙を書いたのだろうか?
薫は答えない。
死人だから。
代わりに。
音。
気配。
背後から一定の間隔。
雨に溶け込み、交じり、夢と現さえも曖昧なままに私を通り過ぎる。
男。
着物に袴。
腰には刀。
侍だった。
少なくとも私はそう見えた。
彼は屈みこみ薫の顔をじっと見つめたまま。
「線香」
振り返らないままに私へ言った。
固まる私へ繰り返す。
「頼む。俺の手は汚れているから」
声。
震えていた。
肩も。
身体も。
あるいは魂が。
切なる声を受けて私は無言で線香を灯すと彼はこちらを向かないままに軽く一礼をする。
線香。
空気より重く、涙より軽い。
夢とも現とも分からない瞬間を漂う最中。
彼はぽつりと呟いた。
「末代まで祟ると誓った」
底冷えするような声。
凍ったように固まる私の前で彼は続ける。
「父を殺し、母を辱め、弟や妹を甚振り殺しつくした者を決して許さぬと誓った」
火が時間を削る。
少しずつ、それでいて着実に。
「奪ったのだから奪い返す。己が鬼になろうとも構わぬと。手を汚し続けた。今や、誰も覚えていない時代となっても」
彼は息を吸い、僅かに止め、 肩を震わせながら、全てを吐き出す。
「それでも。赦してくれた」
吐き出される言葉は涙声となり、彼はさめざめと泣き続ける。
雨音を消し去るように声を絞り出しながら。
「鬼になる前に。地獄へ行く前に。赦すと言い、母のように抱きしめてくれた」
線香が消えた。
それだけの時間が経ったのだろう。
「優しい娘だった」
その言葉を最後に彼は消えた。
止まっていたとさえ思うほど白々しく、多くの音が不意に私の耳を打つ。
夢を見ていたのではと思った。
縮まった薫との距離がそれが誤まりであることを伝えていた。
私は薫の顔を見つめた。
薫は眠っているように穏やかな表情。
どこか、微笑みを浮かべているようにさえ見える。
きっと、薫は数えきれないほどこの表情を彼に向けていたのだろうと思った。
反対に、薫は数えきれないほど怒りの表情を彼に向けた事もあったのだろうとも思った。
しかし、その結末は――。
一瞬、心に浮かんだ考えを私は口に出すことはなかった。
無言のまま立ち上がり、今、ようやく私は先に出て行った者達と同じくこの小さく窮屈な空間を抜ける。
薫とあの侍の関係を私は知らない。
私はただ、薫の人生の最期を垣間見ただけだから。
薫とあの侍の関係を誰も知らない。
そして、多分。
それで良いのだろうと思った。
線香の微かな残り香が部屋を出ても静かにかおっていた。
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