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第14話 / 全14話
直上から振り下ろされたヴァルターの手とともに、視界のすべてを塞ぎ込むような狂暴な圧力が押し寄せてきた。
至近距離──わずか数十センチのゼロ距離から解放された局所高磁場。
空気を力任せに圧縮し、物理的な質量すら与えられた不可視の鉄槌が、身動き一つ取れない俺の頭上へと一直線に落とされていく。
メリ……ッ、メリメリメリッ……!
まだ直撃すらしていないというのに、放たれる余波の圧力だけで、俺の頭蓋骨が内側から嫌な鳴りを上げた。
首の骨が重圧に耐えかねて悲鳴を上げ、全身の傷口から血が勢いよく吹き出す。
(ああ……ダメだ……動かねえ……)
身体の末端から指先、果ては眼球の動き一つに至るまで、俺の意思を完全に拒絶していた。
体内の冷気リソースは底をつき、一滴の冷気すら生み出すことができない。それどころか、限界を超えた『極冷超伝導』を行使した代償として、全身の筋肉はズタズタに引きちぎられ、神経は焼き切れ、肉体そのものが完全に崩壊を起こしていた。
冷気が尽き、足場を失い、完全に丸裸にされた無防備な肉体。
そこに、絶対王者が全異能を注ぎ込んだ致命的な一撃が、逃げ場もなく叩きつけられようとしている。
頭上の巨大モニターから、闇配信の観客たちが上げる絶叫や嘲笑が聞こえてくるような気がした。
アリーナ全体を包む数万人の怒号と歓声も、どこか遠い世界の出来事のように鼓膜を滑り落ちていく。
(死ぬ、のか……俺は……)
死へのカウントダウンが、脳内で静かに刻まれる。
一瞬、脳裏を掠めたのは、あの日の記憶だった。
港の巨大冷凍施設に閉じ込められ、暗闇と氷点下三十五度の極寒の中で、ただ震えて命が潰えていくのを待つしかなかった惨めな時間。
誰にも気づかれず、貧乏なフリーターのまま、野良犬のように凍え死んでいく恐怖。
あの時、俺は死ぬのが怖くてたまらなかった。
情けなく歯をガチガチと鳴らし、分厚い鉄扉を拳が血まみれになるまで叩き続け、ただ誰かの助けを求めて泣き叫んでいた。
そして、奇跡的に異能を手に入れ、闇配信で成り上がり、タワーマンションの高級な部屋を手に入れ、回らない江戸前寿司を喰らい、勝ち組としての栄光を掴み取った。
手に入れた莫大な富。贅沢な暮らし。
失うものができてしまったからこそ、なおさら死ぬのが恐ろしかった。ヴァルターとの戦いが決まってからの三日間、俺はずっと己の無力さと死の影に怯え続けていたはずだった。
だが──。
いま、迫り来る圧倒的な破壊を前にして、俺の胸の中にあったのは、あの地獄のような恐怖ではなかった。
「……ふっ」
血で濡れた口唇から、掠れた吐息のような笑いが漏れた。
不思議なほど、心の中は静まり返っていた。
恐れも、焦りも、未練すらも、いまの俺の胸を揺らすことはない。
なぜなら、俺はすべてを出し切ったからだ。
射程たった一メートルという致命的な欠陥を抱えた異能。
遠距離から無慈悲に空間を圧縮してくる、文字通りの怪物。
誰もが「詰み」だと嘲笑し、絶対王者の前には手も足も出ずに惨殺されると踏んでいた絶対的な絶望。
それを、俺は持ちうる限りの知恵と、身体を破壊するほどの狂気で破ってみせた。
物理法則すらも捻じ曲げ、絶対零度の超伝導で王者の防壁を叩き割り、その喉元まで──あと一歩で息の根を止めるという極限の間合いまで、泥臭いフリーターのこの足で踏み込んでみせたのだ。
出し惜しみなんて、一ミリたりともしなかった。
体内の冷気も、肉体の寿命も、魂の底にある闘志の欠片すらも、すべてを目の前の化け物を引きずり下ろすために燃やし尽くした。
(やれるだけのことは……全部やった……)
自分でも驚くほど、素直にその言葉が胸に落ちてきた。
成り上がりの栄光を失うのは惜しい。タワマンの夜景も、うまい酒も、まだまだ味わい足りない。
けれど──あの冷たくだだっ広い冷凍庫で、ただ怯えて命を乞うだけだった惨めなフリーターの俺は、もうどこにも存在しない。
俺は戦った。
命を賭けて、己の全てを叩きつけて、絶対王者と対等に殺し合ったのだ。
「……悔いは、ねえよ……」
喉の奥で呟いた言葉は、観客の歓声にかき消されて誰にも届かない。
だが、それで十分だった。
迫り来る高磁場の圧力が、俺の鼻先を削り取らんばかりの至近距離まで到達する。
空気そのものが全方向に弾け飛び、衝撃波の熱風が血に濡れた前髪を激しく吹き散らした。
今度こそ、本当の終わりだ。
俺は最後の力を振り絞り、静かに、重いまぶたを閉じた。
視界から王者の姿が消え、暗闇が広がる。
首を刈り取る死の衝撃が、己の肉体を微塵切りに打ち砕くその瞬間を──俺は全力を出し切った男の静かな満足感とともに、じっと待った。
一秒。
二秒。
三秒。
どれだけ待っても、死の牙が俺の肉体を噛み砕く感覚は訪れなかった。
頭上を押し潰していたあの不快な重圧が、嘘のように霧散している。
肌を刺していた殺気も、鼓膜を痛めつける空気の歪みも消え去り、そこにはただ、冷え切ったアリーナの不気味な静寂だけが残されていた。
(……なんだ……? なにが起きてやがる……?)
疑問が胸を掠める。
死を受け入れたはずの意識が、ゆっくりと現実へと引き戻されていく。
俺は血と汗で固まった重やまぶたを、最後の力を振り絞って薄く開けた。
かすむ視界の先。
至近距離で立ち尽くしていたのは、右手を俺の顔面へと突き出した姿勢のまま、ピクリとも動かなくなっているヴァルターの姿だった。
奴の顔面から、みるみるうちに血の気が引いていく。
耳まで吊り上がっていた狂気的な勝利の笑みが、一瞬にして歪んだ。
「カッ……ガハッ……!?」
次の瞬間、ヴァルターの口から大量の鮮血が噴き出した。
それだけではない。目や耳、鼻からも、細い血の筋が同時に溢れ出し、王者の白磁のような肌を赤く染め上げていく。
「な……に、が……っ」
喉を潰されたような掠れ声で、ヴァルターが絶望の呻きを漏らす。
奴の肉体もまた、とっくに限界を迎えていたのだ。
俺が叩きつけた『極冷超伝導』による空間力場の破壊──その衝撃と物理的な反作用は、防壁を展開していたヴァルター自身の全身体内にも容赦なく叩き込まれていた。
それを隠し、王者のプライドを守るために無理やり異能を絞り出し、俺にとどめを刺そうと過剰な高磁場を練り上げたことで、奴の血管や内臓は内側から悲鳴を上げて崩壊したのだ。
ガクガクと、絶対王者の両膝が激しく震え出す。
「この……私が……泥濡れの……虫ケラに……っ!」
ヴァルターの瞳に、激しい驚愕と、己の身体が言うことをきかない恐怖、そして屈辱の色が交錯する。
粘つく血を撒き散らしながら、男はついに耐えかねたように、その場にどさりと両膝をついた。
カチコチに凍りついたコンクリートの床に、王者の膝が打ちつけられる不穏な音が響く。
「がっ……は……っ!」
突っ張っていた手が折れ、ヴァルターは俺の目の前で、無惨に這いつくばるようにして床へ崩れ落ちた。
「……は……はは……」
その光景を目にした瞬間、俺の緊張の糸も完全に途切れた。
立っているだけの力は、もう残っていなかった。
膝の力が抜け、俺の身体もまた前のめりに崩れ落ちる。
ドシンッ、と激しい音を立てて、俺は氷盤の上に顔面から叩きつけられた。
全身を襲う激痛。だが、それを感じる神経すら麻痺しかけている。
指一本動かない。首を叩きつけられた角度のまま固定され、持ち上げることすらできない。
目の前、わずか数十センチの場所に、血の海の中で浅い呼吸を繰り返すヴァルターの横顔があった。
王者もまた、指先ひとつ動かすことすらできず、ピクリとも動かないまま床に顔を擦り付けていた。
互いに全力を出し切り、互いに相手を殺すためにリソースを喰らい尽くし、二人して動くことすら叶わない完全不能の肉塊と化していた。
(ハハッ……惨めなもんだな、王者様よぉ……)
声には出せない。心の中で、俺は力無く嘲笑った。
完璧で、高貴で、絶対的だった王者の防壁を叩き割り、自分と同じ泥まみれの地に引きずり下ろしてやったのだ。
その時──。
カンカンカンカンカンカンッッッ!!!
静まり返っていたアリーナに、静寂を切り裂くようにして激しい金属音が打ち鳴らされた。
試合終了を告げる、連打されるゴングの音だ。
直後、思考が追いついていない実況のアナウンスが、裏返った悲鳴のような声でスピーカーから炸裂した。
『タ……タイムアップ──ッ!? いや、違う! 両者完全に倒絶! 戦闘不能状態ですッ!!』
アリーナの四方から、レフェリーたちが一斉にリングへと駆け込んでくる足音が聞こえる。
横たわる俺とヴァルターの容体を青ざめた顔で確認した主審が、両手を激しく交差させ、震える声でマイクに向かって叫んだ。
『判定……双方とも続行不能! 本試合は……公式ファイト史上初となる、「引き分け(ドロー)」──ッッ!!』
ドロー。
その二文字が、アリーナ全体に恐ろしいほどの残響を残して響き渡った。
無敗の絶対王者ヴァルター・クライス。
その男の完璧な連勝記録が、今、目の前で泥臭く倒れた一人のフリーターの手によって、完全に打ち砕かれた瞬間だった。
『引き分け』。
主審が下したその非情な宣告がマイクを通して全館に響き渡った瞬間、アリーナを満たしていた張り詰めた静寂が、一気の熱狂と狂乱の爆風となって弾け飛んだ。
「うおおおおおおおッッ!? 嘘だろおい!!」
「引き分け!? あの絶対王者のヴァルターが引き分けだと!?」
「勝ち筋なしって言われてた成り上がりフリーターが、王者の連勝記録を止めたぞォォォッ!!」
怒号、悲鳴、そして地鳴りのような大歓声が混ざり合い、アリーナの天井を揺らす。
頭上の巨大モニターには、処理能力を超えて破綻しかけている闇配信のコメントが、画面を完全に覆い尽くすほどの弾幕となって高速で流れていた。
『ドローー!?!? マジで言ってるのか!?』
『ヴァルターの連勝ストップwwwww』
『ケイジ本当にやりやがった!! 化け物かよ!!』
『至近距離で相打ちか!? 歴史が変わった瞬間見たわ!!』
『成り上がり伝説、マジで開幕しちまったぞ……!!』
興奮で総立ちとなった観客たちの叫び声が嵐のように吹き荒れる中、リング上には白衣を着た大量の医療班と警備員たちが怒涛の勢いでなだれ込んできた。
「息はあるか!? 急げ、点滴を用意しろ!」
「担架だ! 二人ともすぐ救護室へ運べ!」
けたたましい指示が飛び交い、俺の視界は交錯する足と医療機器の影で目まぐるしく塞がれていく。
血まみれの身体を力任せにストレッチャーへと固定され、持ち上げられる激痛に、俺は喉の奥で小さく呻いた。
その時だ。
隣の担架へと固定され、同じように運ばれていくヴァルターの姿が、かすむ視界の端に入った。
首骨を固定され、全身から血を流して横たわる絶対王者。
だが、その男の瞳だけは、死んでなどいなかった。
血で真っ赤に染まった瞳孔が、恐ろしいほどの殺意と怨念を宿して、まっ直ぐに俺を射抜いていた。
完璧だったプライドを泥に塗られ、無敗の歴史を一人のフリーターに泥臭く潰された屈辱。
「ケイジ……。次は必ず、貴様を完膚なきまでに叩き潰して殺す」
「……へっ。上等だぜ、ヴァルターさんよぉ……」
俺は血で汚れた口元を、わずかに吊り上げた。
首を動かすことすらできず、ヴァルターの視線を受け止めたまま、俺の乗せられた担架がアリーナの通路へと運び出されていく。
全身を焼くような激痛と、空っぽになった体内の不快感。
けれど、胸の奥底で燃え上がる炎は、戦う前よりも遥かに大きく、激しく渦巻いていた。
俺は生き残った。
あの極寒の冷凍施設で絶望に震えていた惨めな男は、ついに絶対王者の喉元にまでその牙を届かせ、生き延びてみせたのだ。
手に入れた富も、タワーマンションの贅沢も、回らない高級寿司も、誰にも渡さない。
それどころか──俺はさらに上へ行ってやる。あの化け物を完全に引きずり下ろし、この闇の世界の頂点へと成り上がってみせる。
アリーナから溢れ出す狂乱の大歓声を背に受けながら、俺は静かに瞼を閉じ、次なる戦いへの渇望を強く噛み締めた。
(第一部 完)
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