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第1話 / 全1話
あの日、あの人と見たあの場所へ。
緑の絨毯に緑の壁が広がっていた。十年前、一夏を過ごした家は自然に還ろうとしている。仕方のないことではあるが、寂しさを感じて空を見上げた。
穢れのない純白の入道雲は大きく空を彩っており、この村は何一つ変わっていないことを教えてくれる。
十年前のあの日も、雲に手が届きそうな空をしていた。
祖母の家は実家とは真逆の山深い村にある。十歳の夏休み、母が入院するため私はここで過ごしたのだ。
友達と予定を詰め込む気でいた私は落胆した。公園も飲食店もショッピングモールもコンビニもない。視力が良くなりそうな景色ばかりが無限に広がるこの場所で、休みの全てを潰さなければならないなんて世の中はあまりにも理不尽ではないか。
あとでわかったことだが、母は癌が見つかり手術をしていた。当時は私に心配をかけまいと、軽い病気を装ってお気楽そうに振る舞っていたのだ。私はすっかり騙されており、呑気に手を振る母を恨めしく思っていた。
とはいえ、いざ過ごしてみると優しい祖母との生活は気が楽であり、見慣れない自然に触れるのは良い刺激となった。ターコイズの鮮やかな鳥に、蝶のような黒い蜻蛉、夢中になって追いかけるも、彼らは視界から消えてしまう。
消えしまったのは、生き物だけではない。遠くに見えていた祖母の家がない。田んぼや電柱も鬱蒼とした緑の群れに置き換えられていた。
突然足場を奪われた感覚に陥る。そこにいるのに私の現在地は消失していた。サービスカウンターに行けば大人が対応してくれるはずだが、こんな山奥にそのようなものはない。思わず、祖母の言葉を思い出した。
『山には鬼が棲んどるけね、行ったらいけんよ』
山に入るつもりなんてなかったのに、知らぬ間に山に入っている。鬼の存在に関しては半信半疑であった。しかし、昼間なのに薄暗い木々の生い茂った空間には、どこから鬼が出てきてもおかしくない気味悪さがある。
ガサっと草むらから音がした。
それだけで涙が溢れ出す。狸が駆けるだけでも大泣きするほど私は恐怖に支配されていた。
再び草むらが揺れる。今度は、何かが近づく足音を聞く猶予があった。私は咄嗟に木の裏に隠れる。
「あら、泣いている子がいたように思えたのだけど気のせいかしら」
柔らかい声に甘い香りが辺り一面を囲った。私はそれに釣られて少しだけ顔を出してみる。
赤みがかった長い髪の色白な女性が首を傾げていた。そして、深い緋色の瞳に目を奪われる。というより、引き寄せられてしまったのだろうか。私の身体は木から離れ、彼女の前に向かっていた。
「ふふ、やっぱり、迷子さんだったのね」
「……お姉さんはこの村の人?」
「ええ。私はマユリ。君は自分の名前、言える?」
「うん、薫だよ」
マユリ、と名乗ったその女性はどの村人よりも若く見えた。髪も染めていて、カラコンもしている。この村の住人とは思えない都会的な雰囲気を感じた。
「いい名前ね。その名の通り素敵な香りがするわ」
「えっ、そ、そうかな」
思わず、自分の袖口を鼻にあててみたが、ほんのり汗の匂いがするだけだった。その中にうっすら祖母の家の匂いも混ざっていた気がする。
「香りは自分じゃわからないものね。さあ、一緒に村まで行きましょ」
「ありがとう、マユリさん」
大人の存在というのは本当に大きなものだった。不気味な山での遭難は、マユリさんのおかげで一気に楽しい散歩へと変わる。
マユリさんはこの村で生まれ育ったらしい。祖母からも聞いたことのない昔の話をたくさんしてくれた。そうだ、この人なら知っているのかもしれない。私はおそるおそる疑問を口にした。
「この山に鬼がいるって本当?」
「へぇ、よく知っているわね。子どもを食べる恐ろしい鬼がいるのよ」
「ええっ、マユリさんは鬼を見たことがあるの?」
「昔、湖でね。私は子どもじゃないから襲われなかったけれど」
「そっか、よかった。マユリさんが無事で」
「あはは、心配してくれているのね。私は大丈夫よ」
そのとき、グルルル……と、唸り声が響いた。私は咄嗟にマユリさんの腕にしがみつく。すると、彼女は大きく笑った。
「怯えることはないわ。だって薫のお腹の叫びだもの」
「あっ」
すっかり忘れていたが、言われてみれば空腹感が強い。恥ずかしさに俯く私を置いて、マユリさんは草むらを漁っていた。
「あった、あった。これ、食べてみて。木苺の仲間よ」
差し出された白い手には、黄色の果実が乗っている。苺というよりは、葡萄の一房を丸く圧縮したような見た目で、小さな粒々が集まって一つの実を成していた。その辺に生えているものを食べて良いのか、私が躊躇っているとマユリさんは謎の果実を一つ摘んで口に含んだ。
私も意を決して一口。やはり苺の味はしない。だが、ぷちっとした食感に控えめな甘みは素朴な味がした。
「すごく美味しいってわけじゃないのに、もっと食べたくなる」
「正直ね。ちゃんと甘い種類もあるけれど、旬が終わっているのよ」
それから私は三個ほど摘んで先に進んだ。野生の果物を食べるという未知の経験は、心を躍らせた。
どれほど歩き続けただろうか。木々の間から差していた光が、明るい白から焼けるような橙色に変わっていた。長く伸びた影が私たちの後をつけてくる。
やがて、森は焼け落ちたかのように暗く染まってしまった。私はついに耐えきれず、不安を溢した。
「村ってこんなに遠かったかな」
「ああ、ごめんなさい。村には向かっていないのよ」
──ではどこに?
膨らんでいた疑念と恐怖が瞳からぽたぽたと落ちる。滲んだはずの視界が開けて、久しぶりに空が見えた。目元を拭うと、鮮明に映し出される星々が足元にまで広がっていた。
ここが湖だと理解したとき、私の脳裏に鬼の気配がよぎる。マユリさんは確か湖で鬼を見たと言っていた。では、なぜそんな危険な場所に私を連れてきた?
まさか、マユリさんは……
再び滲んだ瞳が映す彼女は、穏やかに笑っていた。
「あんな話をしたせいで怖がらせてしまったわね。安心して、今は鬼なんていないわ」
「だったら、どうして村に帰してくれないの?」
「見せたいものがあったからよ」
マユリさんの指先が、燃えるように輝いた。そこから無数の星が落ちて、空と湖の境界へ吸い込まれていく。
「マユリさん、魔法使いみたい」
「ふふ、素敵でしょう。びっくりさせたくて黙っていたの」
ずっと、ここで見ていたい。そう思える光景だった。私の元へ落ちてくるのではないかと思うほど、近くまで星が降ってくる。
「そろそろ帰らないとお家の人を心配させてしまうわね」
「うん。帰るのがもったいないけれど行かなきゃ」
名残惜しさを残して、私たちは湖をあとにした。
やはりマユリさんは魔法使いだったのではないかと思うほど、あっという間に山の出口へ辿り着いた。
「マユリさん、今日は本当にありがとう」
「こちらこそ。楽しかったわ」
「じゃあ」
「ちょっと待って」
祖母の家へ向かおうとする私をマユリさんが引き留めた。
「薫、私は君を案内した。その対価をもらわなくちゃいけないわ」
「えっ」
私はその声に凍りつく。確かにあの山で助けられ、一日貴重な体験をさせてもらった。無料、というのはあまりにも虫が良すぎる話だ。
「で、でも、お金持ってないよ」
「子どもからお金をもらおうなんて思っていないわよ。なんでもいいの、薫の気持ちが大切なのよ」
そうか。マユリさんはどこまでも大人だった。自分の利益というよりは、子どもの私への教育的な観点で対価を要求してきたのだろう。
私も彼女へお世話になった気持ちを返したい。そう思って自分の身体を見回した。せっかくなら大切なものを渡したい。
ちょうどぴったりのものが左腕にあった。
「これあげる。おばあちゃんがくれた御守り。きっとマユリさんのことも守ってくれるよ」
星があしらわれたビーズのブレスレットだ。祖母の手づくりで気に入っていたが、マユリさんに渡すのなら惜しくはない。
「まあ、綺麗ね。本当にいいの?」
「うん。大事にしてね」
「宝物にするわね。ありがとう」
マユリさんは、もう入ってはダメよ、と言い残すと、静かに山へ消えていく。その後ろ姿を見送って、私は祖母の家へと戻った。
帰るなり、とんでもないお説教を食らってしまう。それもそうだ。私が夜遅くまで戻ってこないので、祖母は血眼で探し回っていたらしい。よく見ると、祖母の目は赤くなっている。
鬼に食われたかと思ったと目に涙を浮かべて言っていた。
それから数年が経ち、祖母の葬儀で村を訪れたとき、もう一度マユリさんに会いたいと思った。しかし、彼女の姿はどこにも見えなかった。マユリさんは、山神のような存在だったのではないか。幼い私はそう感じていた。
どうしてもあの日のことを調べたいと母に伝えたところ猛反対された。
筺山村。あの日以来、母はこの名を呼ぶことすら避けていたように思う。その理由を聞かねば、私とて大人しく退くわけにはいかない。私が問いただすと、母はようやく重い口を開いた。
「私の友だちが鬼の犠牲になったのよ。ちょうど薫が迷子になった歳くらいにね」
「……何があったの?」
「虫を捕まえるために、親の言いつけを破って山に入った大和くんは、帰ってこなかった」
「あのときと状況が似てる」
「そう。あなたは無事だったけれど、大和くんはその翌日遺体で発見されたわ。血を抜かれたように白くなった顔が忘れられない」
心に刻まれた永い傷は、母の瞳に涙を浮かべた。
「大和くんは悲しい事故だったって思うようにしてた。私だって生まれ育った村を嫌いになりたくなかった。でも、薫のことがあってからやっぱり鬼がいるんじゃないかって。これ以上、危ないことに手を出してほしくないのよ」
「母さんの気持ちはわかった。辛い話をさせてごめん。村を調べるのはやめるよ」
母に心配をかけたくはない。しかし、母の話を聞いてなおさら筺山村を調べたい、いや調べなければならないと思った。
私は母に内緒で調査を開始した。
まず、村で起きた事件について。母の言う大和くんの事件以降で、子どもの不審死が一件起きていた。祖母の葬儀の後なので割と最近だ。やはり、山中に迷い込んだ子どもが死亡している。
──その遺体は青白く変色していたそうだ。
大学生になった私は、夏休みを利用して筺山村に滞在することにした。一番話を聞きたかった祖母はこの世にいない。村役場の図書室に籠り、郷土史を読み耽る。
祖母が生まれるより前の時代から、鬼の伝承があった。子どもの血を抜くという記述もある。村人たちは、子どもを守るため、御呪いとして香を詰めた念珠を持たせたそうだ。
これ以上の情報は得られず、私は宿へ向かった。宿屋のご主人に話を聞いてみる。なんとなく、顔に見覚えがあるような気がしたのだ。
「なんだ、あんた椎葉さんとこのお孫さんかね。大きなったねえ。鬼の話かあ……」
「祖母もブレスレットを作ってくれていました。あれはやはりそういったものなのでしょうか」
「あんなん気休めみたいなもんよ。みんな腕につけとらすけど死人がでとる。あんたは特別運が良かったんか、神にでも守られたんやろね」
「そうでしたか……」
「まさか、あの山に入ろうなんて思うとらんやろね」
「はい、そのつもりですよ。確かめたいことがあるので」
ご主人の顔色が一気に変わる。朗らかだった柔らかい顔に鋭い皺が寄った。
「せっかく助かった命を無駄にしたらいけん。悪いこたあいわん。ばあちゃんの家見たら帰んな」
あまりの圧に頷くしかできなかった。しかし、ご主人の話はパズルのピースを埋めてくれた。残りはあと一ピース。それは、あの人からもらうしかないのだ。
翌朝、宿を出た私は祖母の家を訪れた。友達と遊ぶつもりだった夏休みを、再びここで過ごしている。
草を掻き分け、玄関を見つけた。中は意外と当時のままだった。キッチンに立っていた祖母の姿を思い浮かべる。今はその場所にネズミが立っていた。
何か祖母が残したものはないか。埃か砂か区別のつかないものを払いながら、部屋中の引き出しを開けてみる。判読不能な日記のような書物、朽ちた櫛、どれも等しく役目を終えたものばかり。その中でも、色褪せたビーズが私の目を引いた。一粒をポケットに入れる。
家を出て、リュックの中身を確認した。水分と軽食、ライターにオイル、ナイフ、コンパス、懐中電灯にモバイルバッテリー、虫除けスプレーと催涙スプレー、登山用の杖、そしてピンクのバイオBB弾だ。
何と対峙するかわからないので、身を守れそうなものを詰め込んでいる。
狙われるのは子どものみ。それ以外で鬼に遭遇した者はマユリさんだけである。その事実から考えられることは二つ。
まずは、普段鬼は自然に溶け込む姿をしている可能性が高い。花や虫、動物、もしくは川、など。
もう一つは、マユリさんが人ならざる者であるということ。それが神なのか、鬼なのか、それとも全く別のものか……
空を見上げて、あの日と同じ雲を見る。今の私が追うのは美しい生き物ではなく真実だ。
子どもの頃は何も考えずに藪へ突っ込んでいたのだろう。今はなるべく足場の良い場所を選ぼうとするため、山への入り口を見つけるのに苦労した。
やっと入れそうな木々の隙間を見つけると、杖を使って道を開いた。日の光を遮断した黒い森が大口を開けている。
山に入った途端、無数の虻に出迎えられた。スプレーのおかげか刺されることはないにしても、耳元で鳴る羽音は止む気配がない。
地図アプリと国土地理院の地図を持ってきたが、両方ともすでに道なき道を進んでいた。進むたびにBB弾を撒いていく。
ある程度進んだところでスマホは圏外になったのでコンパスに切り替える。まっすぐ北西に進んでいけば小さな池があるはず。ここに行けばマユリさんに会える気がした。
記憶の中では広い湖であったが、該当する場所は地図に存在しない。子どもの記憶なので、きっと池でも大きく見えたのだろう。
ようやく目的の池に辿り着いた頃には、日が傾きかけていた。大きな白い山百合が咲き誇り、風情がある。しかし、ここではないと記憶が告げていた。これ以上深入りするのは危険なので、今日の探索はここまでにして引き返すことにする。
撒いてきたBB弾を目印に出口へ向かう。完全に日が落ちるまでに山を抜けておきたい。目印通りに歩くだけなので、帰りは少し気が楽だった。
元々薄暗い森に本物の闇が迫る。山に入り、池を見つけるまでの時間を考えると、そろそろ出口に着く頃だ。だが、一向に黒い道が続くばかり。光を当てると、BB弾が照らされるので間違ってはいないはずだった。蝉の声はいつしか聞こえなくなっていた。
足の疲労がじわじわ滲む焦りを加速させる。道の奥へ向けた懐中電灯に違和感を覚えた。何かが反射している。急足で前に進むと、目の前に広がるのは絶望だった。
私は池に戻ってしまったのだ。
何が起きたのか理解できず、ただ立ち尽くす。目印通りに歩いたのになぜ。
数分立ち止まって、少しだけ正気を取り戻した私は周囲を照らしてみた。この池には見覚えがあった。それは、先ほど見たからではない。
これは、あの日見た湖だ。
湖に落ちないよう気をつけながら、さらに周囲を照らして回る。すると、真横から視線を感じた。反射的に懐中電灯を向ける。
──大きく開いた真紅の口が私を見下ろしていた。
悲鳴を呑み込んで、後ろに飛び退る。片足が水に浸かってしまったが気にしている場合ではない。
よく見ると、それは巨大な山百合だった。白い花弁にまだらな赤い斑点と赤い筋。まるで鮮血を吸い上げたようだ。
私はゆっくりと光を下に向ける。茎には、ボロボロの紐が巻き付いていた。そこには角が一つ欠けた星のようなものと、ところどころに茶けた石が付着している。ポケットから取り出したビーズよりも、その石が酷く愛おしい。
わかっていながら、心のどこかで外れていてほしいとも思っていた。現実は残酷で、無慈悲だ。
物言わぬ花が返事をくれるわけがない。それでも、虚しい期待を胸に私は声をかけた。
「どうして、あのとき逃がしてくれたんですか」
風はないのに山百合がそよいだ。
懐かしい甘い香りが身体に沁み渡る。
「薫だけが、私を一人の存在として認めてくれたから」
その声は、私の身体を包み込む。見えるはずのないマユリさんが耳元に現れたようだった。
「対価として自分の大切なものを差し出したのは君だけ。あとは皆、逃げ出すか投げやりなものばかりだったわ」
この言葉を最後に声が聞こえることはなかった。マユリさんの本心を聞いてしまったことで、私の心は揺れた。私自身は、彼女に恨みなどない。それどころか、私は──
これは私にしかできないことだ。私の手で彼女を裁く。それが私の選択。
オイルを山百合にかけて、ライターを灯した。ただ花を焼くだけなのに、あの美しい赤髪が燃えるように見えた。あの日、彼女の指先が輝いたように、花弁の先が煌々と燃え盛る。
全ての星が落ちるまで、私は彼女を見送った。
「さようなら、マユリさん」
後書き
お読みくださり、ありがとうございました。
ペルセウス座流星群や山百合、夏の美しい光景をダークに盛り込みました。田舎の空気感が好きです。
この話はいかがでしたか?
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