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Act.1:Point & Horizon(点と面が交わる街) / 第1話
じりじりと肌を灼くコンクリートの熱気が、陽炎となって立ち上っている。
見上げる視界を埋め尽くすのは、幾何学的にそびえ立つ無機質なビル群。
遮るもののない炎天下、屋外特設ステージの前に膨れ上がった群衆は、まるで巨大な熱帯の生き物のようだった。飛び交う雑多な私語と熱気が混ざり合い、会場全体にねっとりとした騒然さが渦巻いている。
(……落ち着け。訓練通りに、面で捉えるんだ)
警護課に配属されてまだ日の浅い、二十四歳の新人——瀧沢薫は、緊張で渇ききった喉を小さく鳴らした。
支給されたばかりの夏用スーツは、すでに汗で背中に張り付いている。だが、額ににじむ汗を拭うことさえ、周囲への隙になりかねない。
鋭い視線を向けば不審者に警戒される。
だから視線は優しく、しかし視野は広く。先輩から叩き込まれた「群衆のスキャン」を必死に実行するが、容赦ない熱気と人混みの圧迫感に意識が眩みそうになる。
その耳奥に、カナル型イヤホンを通じて低く鋭い声が突き刺さった。
『瀧沢。現状報告を』
インカムから流れる班長の硬質な声に、心臓が跳ねる。彼女は耳元の髪を直すフリをして、手のひらで口元を隠しながら、極小の声でマイクに吹き込んだ。
「——こちら瀧沢。現在、不審動向なし」
短く、感情を排した報告。
今日は『国際グリーンカーボン・サミット』の屋外イベントだ。間もなく、この国の環境政策のトップである野上環境大臣が登壇する。
大臣クラスの警護に割かれるリソースは限られている。今日、現場の警護を任されているのは、瀧沢が所属するこの「第二班」のみ。
外周に割く人員に余裕などなく、瀧沢は新人ながら、壇上の大臣を守る防波堤として、ステージの最前列に近い最重要ポジションに配置されていた。
『マルタイが間もなく到着する。各自、警戒を怠るな』
「了解」
インカムの向こうで通信が切れる。
(もし何かあったら、私の体で止める……そのための、このスーツだ)
防弾高強度繊維が含まれた重い布地を肌に感じながら、彼女は再び、穏やかさを装った冷徹な視線で群衆を凝視した。
拍手をする手の形、衣服の不自然な膨らみ、周囲と視線を合わせようとしない顔……あらゆる違和感を脳内のフィルターにかけていく。その横顔には、新人ゆえの生真面目さと、張り詰めた危うさが同居していた。
突如、重厚なファンファーレがスピーカーから鳴り響き、空間の空気が一変した。
大音量の演奏に続いて、司会の声が、騒がしい会場の空気を切り裂くように木霊する。
『——皆様、大変お待たせいたしました。本日は、国際グリーンカーボン・サミットの開催にあたり、野上環境大臣よりご挨拶をいただきます』
割れんばかりの拍手と歓声のなか、瀧沢たち第二班のSPにガッチリと固められた野上環境大臣がステージに姿を現した。
テレビで見慣れた、自信に満ちた柔和な笑み。彼は集まった聴衆へ向けて、親しみやすさを演出するように軽く右手を掲げ、歓声に応えている。
大臣がマイクの前に立ち、拡声された声が会場に響き渡る。その堂々たるスピーチに群衆がじっと耳を傾ける中、警護官たちの緊張感はむしろ最高潮に達していた。
誰もがステージの大臣に視線を奪われているこの瞬間こそが、最も危険な空白を生むからだ。
周囲のベテランSPたちの、一見すると平穏だが寸分の隙もない立ち振る舞い。それに遅れまいと、瀧沢もまた張り詰めた糸のような意識で、人間の海を凝視し続けていた。
その時、ステージのすぐ近くを見張っていた瀧沢の視線が、ある一点でピタリと止まった。
最前列から少し離れた左前方。じりじりと照りつける太陽の下で、フードを深く被った黒いパーカーの男が立っている。
その季節外れの服装だけでも十分に異質だったが、彼女の目を釘付けにしたのは、男の右手に握られた「それ」だった。
(……この晴れた日に、傘?)
雲一つない炎天下。誰もが日陰を探すような猛暑の中で、男は場違いなほど頑丈そうな、黒い長傘を杖のようについて佇んでいる。
その瞬間、彼女の背筋に、氷水を流し込まれたような戦慄が走った。
銃器や刃物を偽装する、あるいは仕込み銃の類か——先輩から教わった最悪の想定が、脳裏を過る。男の指先は、不自然なほど固く傘の柄を握りしめていた。
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。
見違いかもしれないという恐怖を、プロとしての義務感がねじ伏せた。
彼女は震える右手を耳元へと伸ばし、後れ毛を整えるフリで口元を覆ってインカムのスイッチを押した。動悸で声が裏返らないよう、腹の底に力を込めて囁く。
「——こちら瀧沢。十時方向、黒いパーカーの男。不審物所持の可能性あり。片手に、黒い長傘」
極限の緊張の中、彼女の声がインカムの通信網を走った。
『了解。周囲は自然に包囲の形を作れ。刺激するな』
班長の低く冷静な指示が耳に届く。視界の端で、群衆に紛れていた数人の管轄の私服警官が、それと分からぬ足取りで長傘の男との距離を詰め始めていた。
男はフードの奥の顔を伏せ、くちゃくちゃと不快な音を立ててガムを噛み続けている。その異常な落ち着きが、かえって現場の緊迫感を限界まで跳ね上げていた。
瀧沢の全神経が男の「右手の傘」に集中し、いつでも飛びかかれるよう五体を強張らせる。
しかし、その緊迫は、最悪の形で裏切られた。
「——っ!?」
長傘の男を凝視していた瀧沢の、完全に死角となっていた右背後——至近距離の群衆の隙間から、一条の「黒い影」が爆発的な速度で飛び出した。
本命は長傘の男ではない。あれは瀧沢たちの視線を誘導するための、ただの『囮』だったのだ。
「大臣ッ!!」
誰かの叫び声と同時に、会場がハッと息を飲む。
ステージ上の野上環境大臣の顔が、一瞬にして驚愕と恐怖に染まった。一拍遅れて、周囲の聴衆から鼓膜を突き刺すような悲鳴が沸き起こる。
突進する影の右手で、ギラリと凶悪な陽光を反射したのは、一本の鋭利なナイフだった。
標的は、目と鼻の先にいる大臣の喉元だ。
「マルタイを護れ!!」
訓練されたベテランSPたちが、一切の躊躇なく大臣の前に飛び出し、己の肉体を重ね合わせて強固な防壁を作り上げる。
だが、至近距離から肉薄する暴漢のトップスピードは、SPたちの防御陣形が完成するよりも僅かに早かった。
防壁の隙間、最前線にいたSPの一人に向けて、狂気を孕んだ刃が容赦なく振り下ろされる。
(間に合わない——!)
瀧沢の視界が絶望に染まり、時間がスローモーションのように引き延ばされた、その刹那。
空気を爆裂させるような踏み込みの音とともに、沸き立つ喧騒を割って、一人の男がその泥沼の戦場へと割り込んだ。
残像すら残る速度。男は、暴漢が振り下ろしたナイフの軌道上へ、正確無比に己の片手を滑り込ませる。
パシィィン、と肉と肉が激突する硬質な音が響いた。
男は、暴漢がナイフを握るその手首を、まるで鉄の万力のような力で、完璧に、寸分の狂いもなく片手で掴み取っていた。
ピタリと止まる刃。あまりの衝撃に、暴漢の動きが完全に凍りつく。
騒然とする世界の中心で、その男は、信じられないほど退屈そうに、あるいは底冷えするような凄みを帯びた声で呟いた。
「……このクソ暑い中、ご苦労さん。奇襲のつもりなんだろうが、俺の目は誤魔化せねえぞ」
「ク、クソ……ッ!」
手首を掴まれたまま身動きの取れない暴漢が、顔を真っ赤に染めて歯を食いしばる。男の拘束を力任せに振りほどこうと足掻き、ヤケクソ気味に鋭い前蹴りを繰り出した。
常人ならまともに喰らって吹き飛ぶような一撃。しかし、男は眉一つ動かさない。
「おっと」
まるでダンスのステップでも踏むかのように、男は上半身をわずかに翻して、その蹴りをひらりかわした。
質量を感じさせない、滑らかで圧倒的な身体能力。暴漢の体勢が大きく崩れたその刹那、男の軸足がコンクリートを爆音で蹴った。
空中で描かれたのは、見惚れるほどに鮮やかで容赦のない、一閃の回し蹴り。
ガツッ、と肉と骨が衝突する鈍い音が響く。男の硬質な踵が、暴漢の無防備なうなじを完璧に捉えていた。
「が、は……っ」
短い喘ぎ声を漏らし、ナイフを持っていた男は糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
ピクリとも動かない。
完全に一撃でのノックアウトだった。
周囲のSPたちが、性能に優れたプロたちが、そして瀧沢が、あまりの早業に声も出せず呆然と立ち尽くす。
そんな喧騒の中心で、男はふう、と小さく息を吐いた。そして、耳元に手をやる。
彼女たちの支給品とは明らかに違う、見たこともない洗練されたデザインの、近未来的な仕様のインカム。男はそのマイクに向かって、緊張感の欠片もないトーンで小さく呟いた。
「——こちら『桂馬』。不審者を無力化。……室長、今の見てただろ? このクソ暑い中、体張ってやったんだ。俺のインセンティブ、きっちり上げろよ」
男が気怠そうに話しているのを、瀧沢はただ凝視していた。すると、ふとその強い視線に気付いた男が、瀧沢へと視線を合わせた。
「……おい、ねーちゃん。見通しが甘えんだよ。点じゃねえ、面で見ろ。警護の基本だろ」
「な……っ!! わ、わかってるわよ、そんなこと!!」
「エリートが聞いて呆れるぜ。じゃあな、お人形SP」
男はそう言い捨てると、あきれるほど軽薄な足取りで、まだパニックの冷めやらぬ人混みへと背を向けた。
遠ざかるその背中を、瀧沢はただ、激しい鼓動とともに見つめることしかできない。
照りつける陽光のなか、男の耳元で怪しく明滅するインカムの青い光だけが、彼女の網膜に焼き付いていた。
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