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Act.1:Point & Horizon(点と面が交わる街) / 第7話
東京・霞が関、警視庁本庁舎。
夕刻を過ぎた室内には、およそ一般的なオフィスとはかけ離れた重苦しさが満ちていた。
独特の張り詰めた空気の中、第二班の面々はデスクを囲み、木曜日に控えた田村議員の講演会および立食パーティーの警護計画について、緊迫した最終確認を進めている。
だが、その輪の中に身を置きながらも、瀧沢薫の心はそこに存在していなかった。
手元の計画書を見つめる彼女の眉間には、押し殺そうとしてもどうしても隠しきれない苛立ちと焦燥が、深い皺となって刻まれている。
原因は、今日起きたばかりの『国際グリーンカーボン・サミット』における野上環境大臣襲撃事件にあった。
突如として大臣に襲いかかった、殺意を剥き出しにした暴漢。それに応戦し、訓練通りに肉体の盾を作ろうとした自分たちSPの防御陣形を、あざ笑うかのような速度で突き破ってきた「あの男」。
人々を救い、最悪の惨劇を未然に防いだという意味では、男の行動は賞賛されるべきものなのかもしれない。しかし、お世辞にも法を護る側の人間、あるいは正義のヒーローとは呼べない佇まいだった。
何より、去り際にその男から浴びせられた屈辱的な言葉が、今も瀧沢の耳の奥にこびりつき、彼女の心を激しくかき乱していた。
『——見通しが甘えんだよ。点じゃねえ、面で見ろ』
自分の不甲斐なさを完璧に見抜かれていた。囮の長傘に目を奪われ、本命の死角からの接近を許してしまったのは、紛れもない事実だった。
「——おい、瀧沢。聞いてるのか。集中しろ」
鼓膜を叩く鋭い声に、瀧沢はハッと我に返った。
視線を上げると、第二班の班長が厳しい眼差しで自分を射すくめていた。周囲の先輩SPたちからも、無言の圧迫感が視線となって注がれる。
「……っ、申し訳ありません」
瀧沢は小さく息を呑み、即座に頭を下げた。
喉の奥がカラカラに乾いていた。
やがて、重苦しいミーティングが終わり、解散の合図とともに先輩たちがそれぞれの作業へと移っていく。静まり返った執務室の片隅で、自席に残った瀧沢は、やはり「あの男」の存在に囚われたままだった。
SPという職務は、生半可な覚悟で就けるものではない。やっとの思いで掴み取った、この黒いバッジ。それが彼女の誇りだった。
しかし、瀧沢にはもう一つ、警察内部で常に付きまとう「呪い」があった。
現・警視総監の姪という血筋。その事実が知れ渡った瞬間から、周囲の目は一変した。どれだけ過酷な訓練でトップの成績を収めても、陰では常に心ない色眼鏡で見られてきたのだ。
だからこそ、瀧沢は誰よりも早く署に来て、誰よりも遅くまで自主訓練を重ねた。実力だけでこの精鋭揃いの第二班のポジションを勝ち取ってみせた。
あの金髪の男が放った一言は、その血の滲むような努力も、積み上げてきたプライドも、根底から容赦なくへし折るものだった。あの冷ややかな声が、深い残響となって、今も瀧沢の耳の奥で忌々しく鳴り響いている。
自分が「点」でしか犯人を追えていなかったこと。囮にまんまと引っかかったこと。すべてが事実だからこそ、悔しくてたまらない。瀧沢は机の下で、爪が手のひらに食い込むほどに拳を強く、強く握りしめた。
「よぉ、今日はお手柄だったな、瀧沢」
不意に、頭上からそんな声が降ってきた。
張り詰めていた緊張が、その親しみやすい響きによってわずかに弛緩する。
「早川さん……」
視線を上げると、五歳年上の先輩SPである早川が立っていた。自販機で買ってきたのであろう缶コーヒーを両手に収め、瀧沢を見下ろして苦笑いを浮かべている。
早川は武道高段者の揃う警護課の中でも一際体格が良く、仕立ての良い夏用スーツの上からでも、鍛え上げられた分厚い胸板がはっきりと分かった。衣服の下に着用している防弾高強度繊維のベストのせいで、少し窮屈そうに見えるのも、SP特有のシルエットだ。
「ほら、お疲れさん。頭使いすぎると糖分が欲しくなるだろ」
「……ありがとうございます」
手渡された缶の冷たさが、悔しさで火照った瀧沢の手のひらに心地よく染み渡る。瀧沢が缶のプルタブに指をかけ、力を込めて引き上げる。
静まり返った執務室に、プシュリ、と小気味よい開缶音が響き、香ばしい珈琲の香りがふわりと広がった。
「……私は、何もしていません。長官を、大臣を守ったのは、別の……」
瀧沢が俯きながら消え入るような声で呟くと、早川は自分の缶を傾けながら、励ますように肩をすくめた。
「まあまま、そう言うな。第一波の囮が持っていたあの長傘に着目できただけでも、お前が優秀な証拠だよ。下見の段階じゃ、本庁のベテランの誰もあの場所のリスクを指摘できなかったんだからな」
早川は缶コーヒーをゴクリと飲み干すと、軽快に笑った。
「もっと自信持てよ。俺なんか、初めて実戦の現場に投入された初日なんて、緊張しすぎて朝からゲロが止まらなかったんだからな。配置についた瞬間、マルタイの背中しか見えなくなって、周囲の状況なんて完全にホワイトアウトしてた。それに比べりゃ、お前は立派に『牙』を見抜いて、インカムを回したさ」
早川の言葉に嘘はない。その優しさは、張り詰めていた瀧沢の心に素直にありがたかった。
けれど、その温かい言葉を受け止めてもなお、瀧沢の胸の奥に燻る黒い澱は消えてくれなかった。むしろ、優秀だと褒められれば褒められるほど、あの男に一瞬で裏をかかれ、子供扱いされた事実が浮き彫りになっていく。
(あの男は……一体、何者だったの?)
警察のデータベースには存在しないはずの、あの圧倒的な強さ。SPが共有している無線網とは明らかに規格の違う、見たこともない洗練されたデザインのインカム。そして、すべてを見透かしたような、あの傲慢で冷徹な瞳。
早川との会話の裏で、瀧沢の脳内にはあの金髪の男の残像が何度も、何度も反芻されていた。
民間人とは思えない。かといって、自分たちと同じように法を遵守する「表の人間」でもない。
夜の気配が混ざり始め、霞が関のビル群の窓にポツポツと明かりが灯っていく。それを見つめながら、瀧沢はぬるくなり始めた缶コーヒーを静かに煽った。
「……早川さん」
「ん? どうした」
瀧沢は小さく躊躇した後、ずっと胸の奥で燻っていた疑問を、思い切って口にすることにした。
「今日の現場にいた……その、大臣を襲った暴漢を無力化したあの男は、何者かご存知ですか? 終わった後、公安の人間がすぐに現場を封鎖して、あの男に関するログを一切残さないように動いていたと聞きました」
「ああ、あいつか……」
早川は缶を揺らし、中の残り少ない液体を小さく音を立てさせながら、少し声を潜めた。執務室の他のメンバーに聞こえないよう、注意深く周囲を伺う。
「俺も詳しくは知らねえけどな。何やら公安のかなり上のお偉いさん方と、ずいぶん仲良しらしいぜ。超法規的措置ってやつか、とにかく俺たち表の警察じゃ動かせないような、国際利権や宗教絡みの汚い案件を裏で処理してるっていう噂の、タチの悪い連中さ」
「あんなにガラの悪い奴がですか?」
瀧沢は隠しようともせず、端正な眉をひそめて嫌悪感を露わにした。あの傍若無人な態度、そして自分を「お人形」呼ばわりした傲慢さ。そんな男が国家の裏側で飼われ、重用されているなど、生真面目な瀧沢の正義感からは到底受け入れがたい事実だった。
「まぁ、あんなにガラは悪いが腕は確かだ。それは、お前も間近で見て分かっただろ」
早川は諭すように苦笑する。
「俺たちSPは法律を守り、マルタイを守るのが仕事だ。だが、世の中には法律やルールに縛られて手が届かない領域ってのがある。あいつらは、そういう俺たちじゃどうしても対処しきれない部分を、平然とやってのける。……ま、俺たちとは住む世界が違う奴らだよ」
「あいつら……? あんなのが、他にもまだいるんですか?」
「さあな。だけど、一人であの規模の暴動やテロの計画を事前に察知して、抑え込めるわけがない。バックに強力な情報網を持つ組織か、あるいは特殊なチームか……。まぁ、公安が囲い込んでる裏の部隊ってところだろうな」
鋭い目つきで不満と不信感を隠さない瀧沢を見て、早川は「まあ、そう尖るなよ」と優しく彼女の肩を叩いた。
「いいじゃねえか。俺たちは優秀なSPだが、どこまでいっても一介の『人間』だ。組織のルールの中でしか動けない。……人間が逆立ちしても出来ねえ汚い仕事や、法を外れた化け物退治は、その化け物にやってもらう方がお互いのためさ」
早川はそれだけ言うと、残っていたコーヒーを一気に飲み干した。金属の乾いた音が執務室に小さく響く。
「それより木曜の任務だがな、お前は俺とコンビを組んで外周から会場全体の警戒を担当することに決まった。頼むぜ、期待の新人」
去っていく早川の、少し猫背気味だが頼もしい背中を、瀧沢は静かに見送った。
手元に残った缶コーヒーは、もうすっかり温くなっている。ほのかに残る珈琲の苦い残り香を感じながら、瀧沢は静かに目を閉じた。
(……次こそ。次の現場こそ、私がすべてを守り抜いてみせる)
胸の中で静かに、しかし激しく燃え上がる誓いとともに、瀧沢は木曜日の任務に向け、固く、固く拳を握りしめていた。その横顔には、新人の危うさと、それを凌駕するほどの強い執念が宿っていた。
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