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第1話 / 全1話
その町には、時計がなかった。正確には、時計を持っている人はいた。腕時計も、目覚まし時計も、古い柱時計もあった。けれど町のどこを探しても、「正しい時刻」を知らせる時計だけがなかった。
駅にもなければ、学校にもない。役場にもない。駅前の大きな時計塔でさえ、文字盤の代わりに白い陶器の花が埋め込まれている。
しかし町の人々は、時間を時刻ではなく、匂いで知った。朝は、パン屋から流れてくる焦げた小麦の匂い。昼は、川辺の草が陽に温められた匂い。夕方は、魚屋の氷と海の匂い。そして夜は、町のどこかで必ず焚かれる薪の煙の匂い。
そしてとある青年は、その町で生まれた。名前は『薫』。母がつけてくれたものだ。
「いい名前でしょう」
幼いころ、母はそう言っていた。
「匂いって、目には見えないでしょう。でも、なくなったあとも、しばらく残るのよ。人の記憶も、少し似ているからね」
薫には、その意味がよくわからなかった。しかしその意味がわからないまま、母は、薫が10歳の冬に亡くなった。
それから8年。薫は、町の郵便局で働いていた。この町では、手紙を出す人は少ない。それでも郵便局はなくならなかった。なぜなら、この町には1つだけ、誰にも配達できない手紙を預かる仕事があったからだ。
宛先のない手紙。差出人のない手紙。住所が途中で消えている手紙。そして――「亡くなった人へ」と書かれた手紙。そういう手紙が、毎年少しずつ郵便局に届いた。
誰が出しているのかは、誰も知らない。薫の仕事は、それらを1番奥の棚にしまうことだった。配達はしない。破棄もしない。ただ、預かる。この町では、それでいいことになっていた。
ある秋の日。薫は一通の手紙を見つけた。白い封筒だった。切手は貼られていない。宛名だけが書かれていた。
――薫へ。
それだけだった。薫はしばらく、その文字を見つめていた。なぜか見覚えのある字だった。けれど、誰の字だったのか思い出せない。封筒を裏返すも、差出人の名前はなかった。そして薫は局長に尋ねる。
「これ、いつ届いたんですか」
「さあな」
局長は新聞から顔を上げなかった。
「今朝、郵便受けに入っていたよ」
「誰が持ってきたかは?」
「知らん」
「局長も?」
「うん」
そこで局長は、ようやく薫を見た。
「開けてみたらいいさ」
「えっ、いいんですか?」
「宛名が君なら、君の手紙だろう」
薫は封を切った。中には、1枚の紙。そこには、たった一行だけ書かれていた。
――明日の夜、海が町を忘れる。
薫は眉をひそめた。――海が町を忘れる? 意味がわからない。いたずらだろうと思った。だが、その夜。町の海岸に行ってみると、海の匂いがしなかったのだ。
波はあった。月も映っていた。沖には漁船の灯りも見える。それなのに、海の匂いだけが消えていた。薫は砂浜に立ち、潮風を吸い込んだ。
何もない。いつもなら鼻の奥に残る、塩と魚と湿った岩の匂いがない。だがその代わりに、かすかな花の匂いがした。どこかで嗅いだことのある、白い花の匂い。
「薫?」
すると、背後から声がした。振り返るとそこには、幼なじみの澄が立っていた。
「何してるの?」
「えっと、海を見てる」
「海を?」
「うん。でも、匂いがしないんだ」
澄も海を見た。そして、何度か鼻を動かす。
「……本当だ」
2人は黙った。そして波が寄せては返す。その音だけが、やけに大きかった。
「そういえば、その手に持っている紙は?」
澄が言った。
「ああ、この手紙に『明日の夜、海が町を忘れる』――とか書いてあったんだよ」
「つまり、今夜じゃないってこと?」
「恐らく」
「じゃあ、明日の夜に何か起きるのかな」
その呟きに、薫は答えなかった。ただ、手紙の一行を思い出していた。
――海が町を忘れる。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
翌朝。海は見えなくなった。正確には、海がある場所だけ、白い霧に覆われていた。それを見て、町の人々は騒いだ。漁師たちは港へ走り、役場の職員は原因を調べ、学校は休みになった。
しかし、誰一人として海そのものを疑おうとはしなかった。海はそこにある。ただ見えないだけ。そう思っていた。
だが、薫だけが違った。海は見えないのではない。町の人々から、「海がある」という記憶が少しずつ抜け落ちている――。
そう気づいたのは昼過ぎだった。この日、郵便局に来た老人が言った。
「いやあ、今日は霧がすごいですな」
「海のことですか?」
そう薫が尋ねると、老人は首をかしげた。
「海?」
「港の向こうにある、あれです」
「港……?」
老人は困った顔をした。そして、しばらく考えてから笑った。
「そんなもの、あったかね」
薫は思わず息をのんだ。老人が帰った後、受付の裏で町の地図を広げる。そこには確かに海が描かれていた。だが、地図を見ているうちに、その青い線がひどく不自然なものに思えてきた。
海なんて、本当にあっただろうか。自分は海で遊んだことがあったか。魚を食べたことは? 潮の匂いを知っていたか?
薫は急に怖くなった。記憶というものは、思っていたよりもずっと頼りない。自分が確かに知っていると思っていたものが、ほんの少しずつ消えていく――。
そしてその日の夕方。郵便局の棚から、1冊の古い台帳を見つけた。その表紙には、『忘却郵便 記録簿』と書かれていた。そっと中をめくってみると、そこには、過去に届いた手紙の記録が残っていた。
10年前。
――母へ。
差出人、薫。
その内容に、思わず薫の手が止まった。そしてさらにページをめくる。
15年前。
――父へ。
差出人、薫の母。
20年前。
――町へ。
差出人、不明。
そして最後のページ。そこには、今日の日付が書かれていた。
宛先――薫。
差出人――薫の母。
薫は椅子から立ち上がった。
「母さん……?」
するとその記録の下に、小さな文字があった。――『この町には、昔、灯台があった』と。それを受け、薫は町の古い写真を探した。郵便局の倉庫。役場の資料室。学校の図書室。そして、古い新聞を手当たり次第に。
やがて、ようやく見つけた。写真の中には、海岸に立つ白い灯台が写っていた。その下に、大勢の人がいる。子供たち。漁師。町の役人。郵便局員。そして――薫の母。
その写真の裏には、母の字でこう書かれていた。――『この町は、海を忘れることで生き延びた』と。薫は写真を持ったまま、町の外れにある丘へ向かった。
丘の上には、古い石碑がある。子供のころから何度も見ていた。ただの石碑だと思っていた。そこにはこう刻まれていた。
『ここより先、忘れてはならない』
薫は石碑の裏を回った。草むらの中を進むと、そこには小さな扉がある。鍵はかかっていなかった。そして中に入ると、地下へ続く階段があった。薫はその階段を降りる。暗い。けれど、奥から風が吹いている。
そして――海の匂いがした。薫は走った。地下道の先には、大きな空洞がある。そこには海があった。地上の海とは違う。真っ黒な水が、音もなく広がっている。
その中央に、1本の柱が立っていた。柱には、無数の名前が刻まれている。その一番上に、『この町で忘れられたもの』とあった。
薫はふと名前を読んでみる。魚。船。灯台。嵐。火事。そして――人。何百もの名前。何百もの記憶。その中に、母の名前があった。
「どうして……」
薫は呟いた。
「どうして母さんまで忘れられたの?」
その瞬間、暗い海の向こうから声がした。
「忘れたんじゃないよ」
薫は振り返った。誰もいない。しかし、その声は続いた。
「忘れさせたの。町を守るために」
それを聞いて薫は理解する。昔、この町は大きな津波に襲われたのだ。それにより、多くの人が亡くなった。灯台は倒れ、海岸は消え、町の半分が流された。
その夜、町の人々は海を恐れた。恐れすぎて、二度と海を見ることができなくなった。そこで誰かがこう願ったという噂がある。
――海なんてなかったことにしてしまえばいい。
その願いを、この地下の海が聞いたのだろうか。海は町から『海の記憶』を奪った。そうすることで、人々は生き延びた。海を見なくなった。海を恐れなくなった。けれど同時に、海と一緒に失った人々のことまで忘れていった。
母は、それを知っていた。だから郵便局に「忘却郵便」を残した。忘れてしまった人たちへ、いつか届くように。
そして10年前。薫が母へ宛てた手紙も、ここへ届いた。母が死んだあと、薫が母のことを忘れないように。
「じゃあ……母さんは?」
薫が問う。
「町を元に戻すために、最後の記憶を差し出した」
すると声が答えた。
「それは、何を?」
「自分自身を」
薫は目を閉じた。母は、自分が忘れられることで町を守った。だから誰も母を覚えていない。いや、正確には、薫だけが覚えている。名前も。声も。手の温かさも。あの言葉も。
――匂いって、目には見えないでしょう。
薫は泣いた。その声がただこの空洞響き渡るほど、地下の海は静かだった。
「……どうすれば戻せるの?」
「忘れたものを、思い出せばいい」
「みんなが?」
「いや、ひとりでいい」
薫は顔を上げた。
「ひとりで?」
「本当に忘れたものは、誰か1人が覚えていれば、完全には消えない。そうだろう?」
その言葉を聞いて、薫は急いで立ち上がり、この場を後にした。
このときの彼の瞳には、暗闇から取り込む僅かな光を、その奥に宿していた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
翌朝。薫は町の中央広場に立った。人々が集まっている。みんな不安そうだった。みんな、海のことを忘れ始めている。港の場所を忘れた人。漁師だったことを忘れた人。海で亡くなった家族を忘れた人。――やがて薫は大きく息を吸い、口を開いた。
「海は、ここにあります」
誰も反応しない。
「そして昔、この町には灯台がありました」
すると誰かが笑った。
「灯台なんて、見たことないぞ」
そして薫は写真を掲げる。
「この人を知っていますか?」
写真には母が写っている。誰も知らない。当然だった。母はもう、町から消えている。それでも薫は話した。母が好きだった花。母が毎朝焼いていたパン。雨の日に読む本。冬になると編んでくれた手袋。
そして、自分の名前を『薫』とつけてくれた理由。
「匂いは目に見えない。でも、なくなったあともしばらく残るって、母さんは言いました」
誰も喋らない。薫の声は震えていた。
「だから、みんなが忘れても、僕は覚えています。この町に海があったことを」
すると1人の老人が、突然、顔を上げた。
「……海」
小さな声だった。
「そうだ……海だ」
その瞬間。町のどこかで、ガラスが鳴った。そして風が吹き、魚屋の店先で、誰かが叫んだ。
「魚の匂いがする!」
それに続くよう、次はパン屋から小麦の香りが流れてくる。そして、潮の匂いが戻ってくる。町の人々は、1人、また1人と、何かを思い出していった。名前。顔。声。失った家族。倒れた灯台。そして、海。
するとやがて、海を覆っていた白い霧が晴れていった。そして沖から波が押し寄せる。町の人々は泣きながら海を見つめている。薫も見ていた。その海は、恐ろしいほど青かった。けれど、もう怖くなかった。
そして、夜になると、町には初めて時計が置かれた。駅前の時計塔。文字盤には、きちんと数字がある。針は正確に動いている。けれど、その時計がなくてもよかった。人々はもう、匂いで時間を知ることを忘れていなかったからだ。
薫は海岸に1人で立っていた。波が足元まで来る。潮の匂い。濡れた砂の匂い。遠くで焚かれる薪の煙。そして――母が好きだった白い花の匂い。
「母さん」
薫は海へ向かって言った。
「覚えてるよ」
返事はなかった。でも、風が吹いた。ほんの少しだけ、花の匂いが強くなる。薫は笑った。町の灯りが、海面に細く伸びている。
昔の灯台はもうない。けれどその夜、海岸にはいくつもの明かりが並んでいた。人々が持ち寄ったランタンだった。
忘れないために。失ったものを、失ったままにしないために。薫はその光景を見つめながら思った。――人は、忘れる。どれだけ大切なものでも。どれだけ愛した人でも。時間が経てば、声を忘れる。顔を忘れる。匂いを忘れる。いつか、自分自身のことさえ忘れてしまうかもしれない。
けれど。だからこそ、誰かが覚えていることに意味がある。記憶とは、過去を閉じ込めておく箱ではない。暗いところへ消えていこうとするものに、もう一度、光を当てるものなのだ。
そしてその夜から、この町には新しい習慣ができた。毎年、海の見える丘に人々が集まり、忘れたくない人の名前を1つずつ読み上げる。
名前を呼ぶ。思い出を話す。笑う。泣く。そして最後に、みんなで海を見る。薫は毎年、1番最後に母の名前を呼んだ。誰も知らなかった名前。かつて町から消えてしまった名前。けれど今では、町中の人が知っている。その名前を呼ぶたびに、薫は少しだけ母の声を思い出す。
そしてある年のことだった。名前を読み上げ終えたあと、薫はふと空を見上げる。風が吹き、白い花の匂いを漂わせていた。薫は笑った。もう、それだけで十分だった。
見えないものは、なくなったわけではない。聞こえない声も、消えたわけではない。思い出せない記憶も、どこかで誰かが覚えている限り、完全には終わらない。
海は今日も町を忘れない。町もまた、海を忘れない。そして、薫は知っている。人が誰かを忘れないということは、その人がいなくなったあとも、その人のいた世界を、ほんの少しだけ明るくしておくことなのだと。
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