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第1話 / 全1話
9月24日——
開いた窓から、優しい風が入ってくる。
それは穏やかに、部屋に溜まった消毒液の匂いを洗い流してくれる。
その風に乗って、金木犀の甘い香りを微かに感じた。
明日香はそこに、秋の訪れを感じていた。
電動ベッドを動かし、少しだけ頭を持ち上げる。
しばらく、鼻歌を歌いながら風の入る方向を向いていた。
風が入る度に、明日香の長く柔らかい髪がふわりと浮くのを感じた。
部屋には、風の音とベッドサイドのバイタルモニターの音が小さく響いていた。
ふいに風が止んだ。
窓の方に向かって、明日香は声をかける。
「……誰? そこに、誰かいるの?」
「君、もうすぐ死ぬよ」
静かな声が降ってきた。
明日香はその声の方に顔を向けて言う。
「……知ってる」
「驚かないの?」
「うん。だって、自分でもそう思ってたから」
明日香はそう言って、穏やかに笑った。
「そうじゃなくて…。いや、それもだけど……」
それから、明日香は少し首を傾げて問う。
「あなたは誰?」
「僕? まぁ、君たちの言葉で言うところの死神だね」
「そっか。私をお迎えに来たの?」
「うん。今すぐじゃないけどね。もうすぐ、かな」
「どうしてわかるの?」
「匂いだよ。もうすぐ死ぬ人の匂いが、僕らにはわかるんだ」
明日香は自分の鼻に手首を近づけて嗅いでみる。
けれど、わかるのはパジャマの洗剤の残り香だけだった。
「そうなんだ…。私には、その匂いはわからないけれど」
「人間にはわからない匂いだね」
「ふーん。……あなた、名前はなんていうの?」
「名前なんて、死神にはないよ」
「それだと、他の死神さんがあなたを呼ぶのに困らない?」
「死神同士で話をすることなんて、そう滅多にあることじゃない」
「そう…。でも、私が呼ぶのに困るから、名前をつけてあげる」
「変わったことを言うね。名前をつける人なんて、この数百年で君が初めてだよ」
「ふふ。じゃあ私があなたの名付け親ね」
「……」
「それじゃあ、あなたの名前、薫にしましょう」
「何故?」
「……私に見える世界が、そういう世界だから」
明日香は、少し困った顔をした。
「あなたを見るために、薫にするわ」
「…よく、意味がわからないな」
「私、物心ついた時から病気のせいで目が見えないの」
「そうだったんだ」
「だけど、匂いや香りがね、私に色々なものを見せてくれるのよ」
「例えば?」
「看護師さんが来ると、消毒液のツンとした匂いがするの」
「……」
「そうすると、採血の時間なんだなってわかるの」
「へぇ……」
「少し痛いのは嫌だけど、もう慣れちゃった」
「他には?」
明日香はベッドサイドの棚の上を指さす。
「そこに花瓶があるでしょう? お見舞いに来てくれた人がお花を飾ってくれるの」
そして、そっと花瓶の方に顔を向ける。
「今は、ラベンダーが生けてあるのかしら」
「らべんだー?」
「その人とお話した思い出も、花の香りが思い出させてくれるのよ」
「ふーん……」
「匂いが色々なことを教えてくれるの。でも、さすがにこの部屋の匂いは飽きてきたわ」
「そうなんだ」
「あなたは? どんな匂いや香りが好き?」
「僕は……分からないんだ」
「え?」
「死が近い人の匂いしか、わからない」
「それしかわからないの?」
「そうだよ。死神には必要ないからね」
「そう、なんだ……」
「……そろそろ、他のところへ行かなきゃ。また明日、君の匂いの様子を見に来るね。えーっと……」
「私は、明日香だよ」
「……明日香。…じゃあ、また」
窓辺の気配が消えると、また、ふわりと風が入ってくる。
風と一緒に湿った空気の匂いが入ってくる。
ポツポツと聞こえる音が、次第にサラサラという音に変わっていく。
「……雨」
明日香はしばらく、窓の方を向いてその匂いを感じていた。
◇
9月25日——
薄ぼんやりとした月夜の中を、薫は飛んでいた。
目の前に白く大きな建物が見えてくる。
その壁は月光に照らされて、白く浮かび上がっていた。
月光が、薫の黒い衣装と黒い髪を、より一層浮き立たせていた。
薫は建物の窓に降り立つと、そっと縁に腰を掛ける。
窓ガラスにはまだ少し、雨の水滴が残っていた。
「……薫?」
明日香がこちらを向いてくる。
昨日よりも少しだけ匂いが強くなっていた。
「こんばんは、明日香」
「雨、やっと止んだのね」
「わかるの?」
「うん、匂いでなんとなくわかるよ」
「雨に、匂いなんてあるのかい?」
「そうよ。アスファルトや土を濡らすとね、独特な匂いがするの」
「そうなんだ」
「私ね、雨上がりにお散歩するの結構好きだったんだ」
「どうして?」
「草や花の香りが一段と濃くなる気がするの。私はその香りが好きだったな」
少しだけ、遠くを向くように明日香は話す。
「あとは、車の排気ガスの臭い」
「はいき、ガス……」
「そう。あれって嫌な臭いなんだけど、好きな匂い、かもしれない」
「臭い……」
薫はその匂いの想像がつかなかった。
「嫌なのに、好きなの?」
薫は矛盾した明日香のその言葉に少しだけ戸惑った。
「うん。好き…というか、臭いんだけど、街を歩いているって実感が湧くのよね」
明日香は少しだけ俯く。
「もう、その臭いを嗅ぐことも、歩くことも出来ないけれど……」
「そう、なんだ……」
薫は座ったまま、後ろの景色を見てみる。
濡れたアスファルトに、街灯の光が落ちている。
近くの木々の葉には雨粒が残っていて、光をキラキラと反射させている。
けれど、明日香が話していた景色がどんなものなのか、薫にはまだわからなかった。
薫は腰を上げると、明日香に言った。
「……また、明日も来るね。君の匂いを確かめに」
「うん、またね」
薫は窓から飛び立つと、眼下に広がる街を見下ろした。
そこにあるであろう匂いを想像してみた。
◇
9月26日——
「また来たよ。明日香」
ふわりと、薫は窓辺に腰を掛ける。
「薫。今日は早いのね。看護師さんに見つかっちゃうよ?」
「大丈夫。僕は死期が近い人にしか見えないから」
「そうなんだ」
彼女から、またわずかに強くなった匂いが漂っていた。
「今日はね、中学の友だちが久しぶりにお見舞いに来てくれたの」
明日香は嬉しそうに、花瓶の方を向いて言う。
その花瓶には昨日とは別の花が生けられていた。
「学校、楽しかったな……」
また、明日香は遠いところを向いてポツリと言った。
「朝、登校すると下駄箱の匂いが迎えてくれるの。土と埃の混じったような匂い」
「それで?」
「友達や先生が、おはようって声を掛けてくれるの。それだけで、ワクワクするの」
明日香の白い顔にほんの少し紅みが差す。
「皆が鉛筆を走らせる音や、チョークの匂いも好きだったな……」
「なんで?」
「自分も、皆と一緒に勉強してるって気持ちになれるから、かな」
「……楽しかったんだね」
「うん。……それでね、お昼になると、廊下から給食の匂いがするの」
お腹の辺りを押さえながら、薫の方を向く。
「私ね、給食のカレー大好きだったんだ」
「カレーって、どんな匂いがするの?」
「少し刺激的で…野菜の甘さがあって…美味しい匂い! 薫は、食べたことない?」
「……死神は、食べることもしない。必要ないから」
「そう、なの…? 何も食べたことないの?」
「……うん」
「ごめんなさい……」
「なんで謝るの? 必要ないことだから、気にしないで」
「でも……」
「……続き聞かせて」
「……私の親友はね、いつも桃の香りのシャンプーの匂いがしてた」
明日香の表情がより柔らかくなった。
「後ろから近づかれても、すぐに匂いでわかっちゃった」
「驚いてた?」
「うん」
クスクスと明日香は笑った。
薫はふと、空を見た。
「ごめん、話の途中だけど、そろそろまた他の所へ行かなくちゃ」
「あ、うん。じゃあまだ明日もお話できる?」
「そう、だね。多分」
薫が窓から飛び立つと、明日香の方を振り返った。
もう、彼女はその学校に行くことはない。
そう思ったら、薫の胸が少しだけちくりと痛くなった。
◇
9月27日——
「こんばんは、薫。待ってたのよ?」
ベッドに横になりながら小さく笑う明日香の顔を見て、薫は一瞬言葉が詰まってしまった。
一段と濃くなる匂い。
嗅ぎ慣れているはずの匂いなのに、今夜は何故か少しだけ苦しかった。
「……明日香、こんばんは」
「どうかした?」
「……いや、どうもしないよ」
薫は胸の前で手を握っていた。
「今日はね、どんな話をしようかなって思ったんだけど……」
明日香は少し首を傾げてみる。
「思い出したことがあって」
「思い出したこと?」
「そう。私、入院生活が長いんだけど、一度だけ退院してお家に帰ったことがあるの」
「うん」
「家族全員集まってくれて、その時に食べたお鍋がとっても美味しかったの!」
明日香の細い声に、少しだけ張りが出る。
「へぇ、そうなんだ。それはどんな匂いがするの?」
「お出汁のいい香りがして…ネギや白菜や鶏肉とかも入ってて、ポン酢の香りが爽やかでね」
明日香は嬉しそうに話す。
「皆で食べたお鍋、本当に温かくて、美味しくて…」
薫はそんな明日香の表情を、どこか嬉しそうに見ていた。
「可笑しいのよ? お父さんったら嬉しくて感極まって泣いちゃって」
「他の人はどうしてたの?」
「つられて皆で、笑ってた……」
楽しそうに話をしていた明日香の表情が、ふと寂しそうに曇った。
「…どうしたの?」
「……また、皆で、ご飯を食べたいな……」
言ってから、明日香は首を振った。
「ううん、そうじゃなくて、もう一度…あの時に戻りたい……」
薫は、その言葉に不思議な響きを覚えた。
死神は基本的に一人で行動する。
この数百年、他の死神と会ったことなど、指で数えるほどしかない。
自分はこの長い年月を一人で過ごしていることに、なんの疑問も抱いていなかった。
ましてや、他の死神と何かを分かち合うことなどもなかった。
薫は、窓の縁から降りて、病室の床に足をつけた。
「……明日香、悲しい?」
「……うん、少しだけね」
「また、会いに来るよ」
そう言って薫は、窓に手をかけて、ふわっと空へ飛び立った。
薫は、明日香の言葉を思い返していた。
誰かと一緒にいる時間。
何百年と独りで生きてきた薫には、それがどんなものなのか、まだよくわからなかった。
ただ、薫は思った。
——また、会いにいくよ。
◇
9月28日——
「……薫。今日も、会えたね」
目の前に横たわる彼女は、そう言って弱々しく笑った。
言葉が、出なかった。
薫はその顔を見て、自分も笑うしかなかった。
「昨日は、家族の話をしてくれたね」
「うん。それでね、もう一人会いたい人がいるの……」
「それは、誰?」
「亡くなった、おばあちゃん」
「亡くなった……」
「私がまだ小さい頃の話だけど、今でも覚えてる」
明日香は天井の方を向いたまま話しだした。
「人が、沢山集まってたわ。静かなお部屋に、お線香の煙、お花の香り……」
「……うん」
「あんなに、温かくて大好きだったおばあちゃんが、とても…冷たかった」
死神にとって、死は身近な話だ。
なのに、何故か明日香の語る死は、どこか遠い話のようで、それでいて受け入れがたいものでもあった。
「お別れしてから、おばあちゃんが大事にしてたひざ掛けをもらったの」
「……うん」
「温かい匂いがしたの。そうしたら、色んなこと思い出した」
懐かしそうにする明日香の表情が、柔らかくなった。
「小さな私を寝かしつけるために、温かい手が頭を撫でてくれたこと。私がお母さんに怒られても、優しくなだめてくれたこと」
薫は自分の掌に視線を落としていた。
「最初は、ひざ掛けに顔を近づけると、おばあちゃんがそこにいるみたいだった。……だけど少しずつ、おばあちゃんが、また遠くなっていった」
薫の手にも少し力が入っていた。
「そうやって…少しずつその匂いが無くなっていくの。それが、たまらなく辛かった……」
明日香の目が微かに揺らいでいた。
「匂いって消えちゃうのよね……。だから、私、覚えておきたいの」
「明日香にとって、匂いは大事なもの、なんだね」
「そう、ね」
薫は目の前の彼女を見て思った。
自分には死の匂い以外、感じることは出来ない。
匂いとして記憶できない自分には、明日香の何が残るだろうか。
そう思ったら、身体の中が冷えるような心地だった。
今まで、何百、何千と死を見届けていたのに、薫にとって初めての感覚だった。
薫は、いつの間にか明日香の枕元に立っていた。
明日香は、変わらず天井の方を向いていた。
「明日香、明日も聞かせて。君の話を…君の声を、覚えておきたいから」
◇
9月29日——
薫はいつものように、病室の窓辺に腰を掛ける。
月の光が室内を照らしていた。
ふわりとそのまま室内に降り立ち、薫は明日香の枕元に立った。
明日香の小さな呼吸が聞こえる。
どうやら寝ているようだ。
薫は少し胸を撫で下ろした。
小さな声を漏らして、明日香が目を開けた。
「こんばんは、明日香」
「薫? …ごめん、寝てたみたい」
「少し、疲れた?」
「ううん、大丈夫」
「今日は、どんな話?」
「今、夢を見てたの……小さな自分が誰かに抱かれてる夢……」
「…不思議な夢だね」
「そういえば、私ね、自分が初めて覚えてる匂いがあって……」
「明日香の一番古い匂いの記憶?」
「なんか、くすぐったくて、安心するような。まるで、陽だまりのような匂い……」
「その匂いを考えると、自分が温かい何かに包まれてたことや、その時に聞こえた優しい歌声を思い出すの」
「それは、どんな匂いなの?」
「…わからない。甘いような、柔らかいような、いい匂い。…とってもとっても大切な匂いだった気がする」
「へぇ…いいな」
自然と、薫は笑っていた。
明日香の話を聞く時間が心地よかった。
その時、薫は妙な違和感を覚えた。
明日香から感じる濃厚な匂いとは別に、微かな匂いを感じた。
部屋を見回しても、他には誰もいない。
はっとして、自分の胸の前の両手を見つめる。
その微かな匂いは、薫自身から漂っていた。
両手が、震えた。
「……どうしたの? 薫、黙っちゃって」
慌てて薫は振り返った。
「ううん…何でもないよ」
「薫。明日も…来てくれるんだよね?」
「……うん」
「じゃあ、また明日」
「……また、明日」
薫はゆっくりと後ずさってから、窓を飛び出した。
月の光に照らされながら、薫は空を飛んでいた。
やはり、嗅ぎ慣れた死の匂いが、自分自身から漂っている。
薫にとって、明日は当たり前に来ていた。
誰かを見送って、また次の誰かのところへ行く。
そうやって、数百年過ごしてきた。
なのに、どうして、今なんだ……。
奥歯をぎゅっと噛み締める。
明日。これから先。
薫は両手を握りしめた。
取りこぼさないように掴もうとした。
なのに、それらが指の間からするすると抜けていく。
もう、当たり前のように明日を待つことは出来なかった。
せめて、あともう少し、時間が欲しい。
薫の頬を、冷たいものが一筋伝った。
数百年生きてきた死神が、この時初めて涙を零した。
◇
9月30日——
開いた窓から、優しい風が入ってくる。
その風の中に、金木犀の甘い香りが、まだ微かに残っている。
ふいに風が止んだ。
窓の方に向かって、明日香は声をかける。
「薫…今日も、会えて良かった……」
明日香は窓の方を向いて、息を整えながら話しかけた。
そこに誰がいるか、明日香は分かっていた。
「僕も、会えて良かった……」
声が、すぐ近くから聞こえる。
明日香は小さく笑った。
「…今まで、たくさんお話したね」
「うん、明日香の好きな匂いの話、いっぱい聞いた」
「私の好きなもの覚えてる?」
「覚えてるよ…。雨上がりの街の匂い、学校での思い出、家族と過ごした時間……」
「うん……」
「君のお祖母さんが、君を凄く大切にしてくれたこと」
「うん……」
「陽だまりのように、君を包んでくれた匂いのこと」
「うん……。私、もっと薫とお話したかったな」
「まだ、きっとできるよ……」
「そう、かな……」
「明日香には、まだ知らない匂いってある? どんな匂いを知りたい?」
明日香は首を少しだけ傾げて考えてみる。
「そうね…私、海に行ったことがないから、潮風の香りとか。外国に行って、その土地の空気を嗅いでみるとか」
小さな声を振り絞るように、明日香は答えた。
「うん、いいね。すごく…すごく楽しそうだ」
「でも、もっと誰も知らない香りを感じてみたいかも……」
明日香の声が次第に掠れていく。
「それは……どんなもの? 教えて」
「どんな香りだろう…。でも、幸せな気持ちになる香り……」
薄れゆく意識の中で、今までに嗅いだことのない、初めての香りが明日香の鼻をくすぐった。
「明日香…僕、一緒に見つけたい…その香り……」
「薫…。今、薫から不思議な香りがするの」
「本当に? どんな…?」
「……わかんない。でも、私この香り、好きよ?」
「……」
「これ、薫なのね……」
部屋に、また優しい風が入ってくる。
「……薫?」
静まり返った部屋に明日香の声だけが、小さく落ちた。
◇
10月1日——
鳥のさえずりが聞こえる。
ゆっくりと意識が戻っていくのを明日香は感じていた。
「朝……?」
少しだけ手をずらしてみる。
シーツの感触。パジャマの肌触り。
まだ、自分はベッドの上にいるようだ。
手を何度か握ってみる。
辺りの気配を探るように、頭を動かしていく。
すると、微かに不思議な香りを感じた。
もう、わずかにしか感じ取れないほど、薄い香りだった。
明日香は、ゆっくりと息を吸った。
その香りを忘れないように。
頬に触れる朝の陽ざしは、温かかった。
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