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第14話 / 全14話
王都へ戻った日、エドワルドはようやく世界の輪郭を見た気がした。
父王は病み、重臣たちは派閥ごとに腹を探り合い、隣国は穀倉地帯の通商権をちらつかせて揺さぶりをかけてくる。玉座とは、ただ豪奢な椅子ではなく、無数の罅を一人で支える場所なのだと知った。
そして彼は、ほとんど反射のように解法を見つけた。
隣国の大公女クラウディアとの婚姻。
王位継承に正統性を与え、外からの圧力を和らげ、内側の貴族たちにも黙る理由を与える。これ以上ないほど、正しい一手だった。
だが、その正しさがリナを捨てることを意味するのなら、そんな盤上は最初から間違っているとも思った。
王都へ向かう馬車の中で、彼女の焼く焦げたパンの匂いを思い出した。欠けた皿。薪の匂い。半分こした毛布。あの借家での暮らしは、王子として捨ててきたつもりだったものを、もう一度人間として拾い直させてくれた。
国を守るにはクラウディアが必要だ。
だが、自分の魂の救いにはリナが必要だった。
だったら両方守ればいい。
王である自分なら、それができる。
その考えはあまりにも明快で、エドワルド自身、最初は笑いそうになった。なんだ、そんなことか、と。誰かを捨てる必要などないではないか。国には王妃を、心には愛を。どちらも失わずに済む道がある。王権とは、そのためにこそあるのだとさえ思えた。
クラウディアに会ったとき、彼は最初から誠実であろうと決めていた。
「あなたには王妃としての名誉と権限を渡す」
初めて二人きりで話した夜、彼はそう言った。
「そして、政治においては俺の絶対の信頼を約束する。隣に立つ者として、軽んじるつもりはない」
クラウディアは静かに彼を見た。宝石みたいな目だった。
「愛の約束ではないのですね」
「愛は、国境も血統も安定させない」
そう答えると、彼女はわずかに唇を和らげた。
「結構です。私も、お伽噺を聞きに来たわけではありません」
それで十分だった。彼は彼女が理解したと思った。互いに必要なものを受け取り、必要な義務を果たす。感情のもつれを最初から取り除いた、理性的で平和な契約。王と王妃にふさわしい始まりだった。
リナには、別の誠実さを向けた。
離宮を与えたのは、隠すためだけではない。あの冷たくきらびやかな宮殿の中心に彼女を置けば、鋭い視線と悪意ある噂に晒される。泥と火の近くで生きてきた彼女が、あの世界の論理に踏み潰されるのを見たくなかった。
だから守るのだと思った。
汚れた政治の外側に。
自分だけが入れる、静かな場所に。
彼女には、あの村にいた頃の柔らかさを失ってほしくなかった。朝の匂いのする人のままでいてほしかった。自分が外の嵐を引き受ければ、彼女はずっと、変わらぬ救いのままでいられる。
それの何が悪いのか、彼には本当に分からなかった。
婚礼は完璧だった。
クラウディアは一歩の乱れもなく並び立ち、彼もまた、王になる男として一分の隙もなく誓いを述べた。民衆は歓声を上げ、重臣たちは安堵し、国境沿いの報せは目に見えて落ち着いた。
やはり正しかったのだ、と彼は思った。
しかも、終わりではなかった。始まりだった。
クラウディアは有能だった。地方領主の癖を覚えるのが早く、数字にも強く、彼が言葉を選びかねた場面では、ごく自然に一言を添えて流れを整えた。彼女の提案で備蓄の配分を見直したとき、冬の暴動寸前だった地域が持ち直した。古い儀礼に縛られた老臣たちも、彼女がいればなぜか最後には頷いた。
隣に立つ相手として、これ以上ないほど頼もしかった。
園遊会でも、謁見でも、彼はしばしば奇妙な快感を覚えた。自分が考え、選び、並べたものが、きれいに噛み合って回っていく感覚だ。王妃は役目を果たし、国は安定し、民は祝福し、自分は王として正しく立っている。
そのうえ夜になれば、離宮へ行けばいい。
扉を閉めた途端、彼女の淹れる薄い茶の匂いがした。リナの手は、昔と同じ温度だった。額に口づければ、ようやく一日の緊張が溶ける。
「ここだけは息ができる」
そう漏らしたとき、彼女は少し悲しそうに笑った。
「そういうこと、言わないで」
意味が分からなかった。
責めているわけではない。事実を言っただけだ。国の重みを背負う昼があり、心をほどく夜がある。それで何が不足なのだろう、と彼は思った。
リナが時折見せる暗い顔を、彼はうまく読めなかった。離宮に不満があるのだろうか。侍女が足りないのか、贈った布地の趣味が悪かったのか。彼女は環境の変化に慣れていないだけだと考えた。もっと気を配ればいい。花を増やし、庭を整え、菓子を届けさせよう。時間が解決することもある。
春の園遊会の日、クラウディアが客の名を取り違えそうになった彼に、ごく小さな声で正しい呼称を囁いた。彼が礼の代わりに目を向けると、彼女は少しだけ肩をすくめた。そのやり取りは、もはや合図に近かった。
夜、離宮でリナが言った。
「今日、妃殿下といらっしゃるところを見たの」
その声に、彼はわずかに疲れを覚えた。責められているとは思わない。だが、どうして彼女は同じ場所を見ないのだろうと不思議だった。
「公務だ」
「分かってる」
「君に向ける気持ちとは違う」
それは本心だった。クラウディアへの信頼と、リナへの愛は別の場所にある。競合しないものだ。役割の違いでしかない。
だがリナは、彼が当然だと思っている整理を受け入れられないらしかった。
「でも、あなたは彼女と生きていくのね」
その問いには、一瞬だけ言葉が詰まった。
生きる。たしかに、王としての日々を共に運ぶのはクラウディアだ。だがだから何だというのだろう。夜に帰る場所が消えるわけではない。心が移るわけでもない。
「君が必要だ」
そう言ったとき、彼は真実しか口にしていなかった。
必要だった。愛していた。捨てる気などなかった。
それでも彼女は少しずつ笑わなくなった。
彼には、その理由が最後まで掴みきれなかった。
国は安定し、クラウディアも王妃として不足なく、リナも守られている。誰かを寒さに放り出したわけでも、飢えさせたわけでもない。むしろ彼は、すべてを拾い上げたつもりでいた。
その夜も政務を終え、彼は離宮へ向かった。
リナを抱き寄せると、彼女の体は小さく強張っていた。
「愛しているのは君だ」
一日の終わりにそれを告げることは、彼にとって嘘ではなく、確認だった。王としての務めを果たし、国を正しい位置に置き、そのうえでなお失わなかったものの名を呼ぶ。そうして初めて、一日が完成する。
リナの髪に顔を埋めながら、彼は静かに満ち足りていた。
昔、あの村で食べた焦げたパンも、今この宮殿の静かな夜も、全部ひとつの線で繋がっているのだと思った。国も守れた。王妃にも礼を失していない。愛する女も手放していない。
これ以上なく盤石だった。
彼は満足のまま目を閉じた。
腕の中で、リナが少しも安らいでいないことには、最後まで気づかないまま。
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この作品は第7話『王の帰還と血統の壁』のエドワルド視点の補完物語です。
もし、未読でしたら。ぜひご一読いただければと思います。
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