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第13話 / 全14話
彼と暮らしていた頃、朝はいつもパンの焼ける匂いで始まった。
まだ陽も昇りきらないうちに私が起きて、安い小麦粉をこねて、少しだけ残しておいた干し果実を刻んで混ぜる。竈の火は気まぐれで、焦げる日もあれば膨らまない日もあったけれど、彼はどんな失敗作でも「うまい」と笑って食べた。
「リナのパンは、不思議と元気が出る」
そう言って、欠けた皿の上の黒い焼き目まで嬉しそうにちぎっていく。私はそれを見るのが好きだった。
あの頃の彼は、ただの旅人だった。
剣の腕は少し立つけれど、妙に礼儀正しくて、字が綺麗で、庶民のくせに食器の持ち方がやけに上品な、変な男。名前はエド。大雨の日に倒れていた彼を、私が小さな借家へ運び込んだのが始まりだった。
「恩返しはする」
「じゃあ薪割りして」
「そんな扱いなのか」
「うち、貧しいから」
そんなやり取りをしながら、私たちは一緒に暮らした。
洗濯物を干して、畑の手伝いに行って、夕方には市場の売れ残りを安く買って帰る。冬は毛布を半分こして、夏は窓を開けて寝た。誰かに祝福された関係じゃなかったけれど、静かで、確かで、ちゃんと幸福だった。
だから、王都から騎士が来た日、世界が間違っていると思った。
古びた家の前に膝をつき、彼らは頭を垂れた。
「第一王位継承者殿下。ようやくお見つけいたしました」
私は意味が分からず、薪籠を抱えたまま立ち尽くした。
エド??いや、エドワルドは、長い沈黙のあとでゆっくり目を閉じた。
その顔を見た瞬間、全部悟ってしまった。
彼は驚いていなかった。
知っていたのだ。ずっと、何かを隠していたのだ。
それでも彼は、出立の前夜、私を抱きしめて言った。
「戻ってくる」
「……王子なんでしょう」
「それでもだ」
「そんなの、違う世界の人じゃない」
震える声でそう言うと、彼は私の髪に口づけた。
「俺がいたい世界は、君のいる場所だ」
その言葉を、私は信じた。
信じたから、王都へ来てくれと言われた時も、まだ少し夢を見ていた。
現実は、夢よりよほど整っていて、残酷だった。
王都の宮殿は広く、冷たく、美しかった。私は一介の庶民として、端の離宮に住まわせてもらった。侍女は私に丁寧だったけれど、その丁寧さは硝子みたいに薄く、触れれば手が切れそうだった。
そしてすぐに知らされた。
エドワルド殿下は、隣国の大公女クラウディアと婚姻を結ぶ。内乱を防ぎ、穀倉地帯の利権を安定させ、王位継承を盤石にするための、完璧な政略結婚。
私はその話を聞いた夜、吐いた。
それでも彼は来た。深夜、人払いした離宮の部屋にひとりでやって来て、私の肩を抱いた。
「すまない」
「謝るなら、しないで」
「しなければ国が割れる」
「分かってる」
分かっていた。
分かっていることと、耐えられることは別だった。
「君を手放す気はない」
彼は私の頬を撫でた。
「側室として来てほしい。君を宮殿の外へ追いやったりしない。愛しているのは君だ」
愛しているのは君。
その言葉だけで泣けるほど、私は彼が好きだった。だから、頷いてしまった。
愚かだったと思う。
でも、あの時の私には、それしか選べなかった。
婚礼の日、私は回廊の陰から二人を見た。
クラウディア妃は噂通りの人だった。気品があり、背筋が伸び、宝石よりも目を引く女。エドワルドの隣に立った時の均衡が、あまりにも美しかった。彼女は一歩下がるでもなく、しゃしゃり出るでもなく、王になる男の隣に最もふさわしい位置で微笑んでいた。
彼もまた、完璧だった。
誓約の文言を噛まずに読み上げ、彼女の手を取る所作に一分の乱れもない。民衆へ向ける笑みは穏やかで、隣の妃を見る目には確かな信頼があった。
あまりに似合っていた。
私が知っている彼は、朝寝坊して髪をはねさせたまま水を飲み、パン屑を口元につけて笑う男だった。
でも玉座の前にいる彼は、最初からそこにいるべき人間にしか見えなかった。
住むべき世界が違ったのだ。
私たちは。
それからの日々、彼はたしかに私のもとへ来た。夜の離宮でだけ、彼は昔の声に戻る。疲れたと額を押さえ、私の淹れた薄い茶を飲み、「ここだけは息ができる」と苦く笑う。
「君だけなんだ」
「そういうこと、言わないで」
「本当だ。愛しているのは君だよ」
彼の指先は優しかった。
抱きしめられるたび、体は喜んだ。心は少しずつ死んでいった。
昼の彼を知ってしまったからだ。
公務の場で、彼はクラウディア妃と完璧な夫婦を演じた。
演じる、最初はそう思っていた。
宴の席で彼女が一歩進めば、彼は自然に歩幅を合わせる。地方貴族との会談では、彼女の一言を拾って場を整える。彼が疲れた顔をしている時、彼女は絶妙なタイミングで話題を変え、水を勧め、沈黙を埋める。
それは訓練した芝居ではなかった。
何度も並んで立ち、同じものを見て、国を背負う重さを分け合ううちに生まれる、生活よりもっと硬くて深い結びつきだった。
一度、冬の謁見のあとで見てしまったことがある。
クラウディア妃の手袋の紐がほどけて、彼がごく自然に膝を折った。侍従を呼ぶでもなく、自分の手で結び直したのだ。周囲に見せつけるためでもなく、ただ当然のように。
「ありがとう、殿下」
「手が冷えているな。次からは厚手のものを使え」
そのやり取りが、あまりにも馴染んでいた。
私は柱の陰で、爪が食い込むほど手を握りしめた。
あれは演技じゃない。少なくとも、演技だけではあそこまで滑らかにはならない。
夜、彼が来た時、私は笑えなかった。
「どうした」
「……今日、妃殿下といらっしゃるところを見たの」
「公務だ」
「分かってる」
分かってる。
その言葉ばかり上手くなる。
「君に向ける気持ちとは違う」
「でも、あなたは彼女と生きていくのね」
彼は黙った。否定しない。
国王になる男が、正妃と共に国を運営していくのは当たり前だ。愛がどうであれ、日々を隣で積み重ねるのは彼女だ。
「私は、何なの」
「君は??」
「あなたの逃げ場所?」
言ってから、自分で傷ついた。
彼も傷ついた顔をした。けれどそれ以上に疲れていた。
「そんなふうに言うな」
「じゃあ、どう言えばいいの」
彼は私の手を取った。温かい、好きな手だった。
「君が必要だ」
「でも、あなたが民衆に見せる顔は彼女のものよ」
彼は答えなかった。
その沈黙こそが、答えだった。
愛しているのは君だ、と彼は今でも言う。
たぶん嘘ではない。少なくとも、言っている瞬間は本気なのだろう。
でも彼が公の場で見せる眼差しは、少しずつ変わっていった。最初は義務だった気遣いが、信頼になり、信頼が安堵になり、安堵がいつしか情へ変わっていくのが分かった。
彼はクラウディア妃と話す時、もう無理をしていない。
彼女の意見に耳を傾け、彼女の冗談に本当に笑い、彼女が体調を崩せば公務の合間に見舞う。
私はそれを知るたび、静かに削れていった。
好きだから分かってしまう。
彼の心がどこを向いているか。
私に向ける熱がゼロではなくても、彼の人生そのものはもう私を中心にしていないことを。
最初から、いっしょになるべきではなかったんだ。
庶民の家で、同じパンを分け合ったこと自体が、間違いだった。
でもあの朝の匂いを知ってしまった。
あの人が、私の焼いた失敗作をうまいと笑った顔を知ってしまった。
だから離れられない。
離れたほうが彼のためだと分かっても、彼の邪魔だと自覚しても、なお好きだった。
春の園遊会の日、私は遠くから玉座前の二人を見ていた。
王太子と王太子妃。並び立つだけで祝福になるような姿だった。
クラウディア妃が彼に何か囁き、彼がふっと笑う。
その笑みは、もう演技には見えなかった。
私はそこでようやく悟った。
彼は「愛しているのは君だ」と言いながら、公の場で彼女を選び続け、そのたびに本当に彼女と夫婦になっていったのだと。
血統の壁は、最初からそこにあった。
越えられないから壁なのではない。越えようとした自分の愚かさを、毎日きちんと見せつけてくるから壁なのだ。
私はそっとその場を離れた。
誰にも呼び止められなかった。
それでよかった。
私は最初から、物語の外に置かれるべき女だったのだから。
それでも胸の奥では、どうしようもなく彼の名が疼き続ける。
好きだった。
今でも好きだ。
好きだからこそ、彼の気持ちがもう私だけに向いていないことが、分かってしまう。
夕暮れの回廊を一人で歩きながら、私は思う。
あの欠けた皿も、焦げたパンも、半分こした毛布も、きっともうこの宮殿のどこにも似合わない。
似合わないものを抱えたまま、私は今日も、王と妃のいる世界の端で息をしている。
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