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第1話 / 全14話
あの日のことを思い出すと、最初に蘇るのはブレーキ音じゃない。
焼けたアスファルトの匂いと、私の手の中で光っていたスマホの画面だ。
たった二秒だったと思う。
通知を見ようとして、視線を落とした。その瞬間、袖口が強く引かれた。
何が起きたのか分からないまま、私は歩道側によろけた。鈍い音がして、顔を上げた時には、カズキの体が道路に投げ出されていた。
私を庇ったのだと理解したのは、救急車が来てからだった。
病院の廊下で、私は何度も謝った。言葉にならない声で、泣きながら、ただ彼の名前を呼んだ。
手術が終わって、車椅子に乗せられた彼は、青白い顔で私を見た。
「ごめん、カズキ。私が、ちゃんと前を見てたら……」
縋ろうとした手を、彼は払った。
強くではない。熱いものを避けるみたいに、ごく自然に。
「……もう、来るな」
かすれた声だった。
「お前の顔を見ると、思い出す」
何を、とは言わなかった。
でも、言われなくても分かった。動かなくなった足のことも、その原因が私だったことも、全部そこに入っていた。
「二度と、俺の前に現れないでくれ」
私は、その言葉に頷くしかなかった。
彼の人生を壊した。
それだけじゃない。私を見る目に残っていたはずの、好意だとか信頼だとか、そういう柔らかいものまで、全部ひっくり返してしまったのだと思った。
それから、連絡は取らなかった。
取れなかった、のほうが正しいかもしれない。
何年も、私は彼のことばかり調べていた。脊髄損傷の後遺症、痛みの残り方、車椅子で暮らす部屋のつくり、リハビリの種類、介助の仕方。
誰に頼まれたわけでもない。
ただ、もしもいつか、万に一つでも、彼が私を必要とする日が来たら。その時だけは何でもできるようにしておきたかった。
償いなのか、未練なのか、自分でも分からなかった。
暗い部屋でノートだけが増えていった。付箋を貼り、必要な手順を書き写し、役に立つはずの知識を積み上げた。私の人生にはもうそれくらいしか、形になるものがなかった。
だから、風の噂で彼に恋人がいると聞いた時、最初は意味が分からなかった。
しかも、ただの恋人じゃない。
彼が荒れていた時期を知っていて、通院にも付き添い、リハビリがつらい日に隣で黙っていてくれた人らしい、と。
私は、その話を聞いた夜、机の上のノートを一冊も開けなかった。
役に立つはずだったものが、急に古新聞みたいに思えた。
それでも確かめに行ったのは、まだどこかで、彼が私を恨んでいてくれると思っていたからだ。
恨みでも何でもよかった。私が彼の人生に残した傷が、まだ彼の中に形を持っていてほしかった。
公園で彼を見つけた時、最初に目に入ったのは車椅子ではなかった。
毛布だった。
春なのに、膝に薄い毛布をかけている。隣の女性が、それを少し持ち上げて、裾が車輪に巻き込まれないよう丁寧に直していた。
それからブレーキを確認して、彼の手に触れた。冷えていたのか、両手で包んで、息をかけるみたいにしながらさすっている。
なんでもない動作だった。
だから、きつかった。
私が何年もかけて集めた知識のどこにも載っていない顔で、彼女は彼の世話をしていた。
慣れていて、押しつけがましくなくて、彼もそれを当然みたいに受け入れていた。
そこにはもう、生活があった。
「……カズキ」
声に出した瞬間、後悔した。
でも彼は振り向いた。
一瞬だけ目を見開いて、それから、驚くほど静かな顔になった。
「ああ……久しぶり」
昔みたいに名前を呼ばれなかったことを、私はその時ちゃんと数えた。
隣の女性が私と彼を見比べた。事情を知っている目だった。けれど責める色はない。ただ、彼の横に立つ人間の落ち着きだけがあった。
「彼女から聞いたよ」
彼が言った。
「君が、いろいろ調べてくれてたって」
どうしてそれを、この人が知っているんだろうと思った。
私が夜ごと積み上げていたものを、彼ではなく、彼女が知っている。その順番だけで息が詰まりそうになった。
「私は、ただ……」
謝りたかったのか、役に立ちたかったのか、自分でも分からないまま口を開く。
「あなたに、何かできることが??」
「ないよ」
彼はやわらかく言った。
拒絶というより、もう必要のないものを棚に戻すみたいな口調だった。
「最初は、すごく恨んだ」
私は何も言えなかった。
「君が不幸になればいいって、本気で思ってた。俺だけこうなったのが耐えられなかったから」
彼はそこで一度、隣の女性を見た。
彼女は何も言わず、ただ彼の肩に手を置いた。
「でも、この人に会って、考え方が変わった。歩けなくても、ちゃんと笑える日が来るって分かったから」
その言葉は、残酷なくらい穏やかだった。
「だから、もういいんだ」
もういい。
その一言で、私が何年も抱えてきたものの置き場がなくなった。
「自分を責めなくていい。俺は、君を許してる」
許す。
その言葉を、私はずっと救いだと思っていた。
いつか彼がそう言ってくれたら、少しは報われるのかもしれないと。
でも違った。
許すというのは、私を彼の人生から外へ出す言葉だった。
恨み続ける価値もない。償わせる必要もない。もう、自分の幸福に君の席はいらない??そう静かに言い渡されることだった。
私のノートも、覚悟も、罪悪感も、全部急に宙に浮いた。
彼を支えたかった。
彼に尽くしたかった。
せめて、ずっと恨まれていたかった。
そのどれも、私にはもう与えられない。
「……そう」
喉が乾いて、うまく笑えなかった。
「よかった。幸せそうで」
たぶん、ひどい顔をしていたと思う。
それでも彼は、昔みたいに気まずそうに目を逸らしたりしなかった。ただ静かに頷いた。
「ありがとう」
その礼の言葉が、いちばん堪えた。
「……お幸せに」
それだけ言って、私は背を向けた。
逃げるみたいに歩きながら、後ろで小さな笑い声がした。彼のものか、彼女のものか、もう分からなかった。
振り返らなくても、想像できた。彼女が毛布を直して、彼が少し照れたように笑って、二人だけに分かる続きを話すのだろう。
そこに私はいない。
これから先も、ずっと。
駅へ向かう道で、赤信号に足を止める。
向かいのショーウィンドウに、自分の顔が映っていた。思ったより普通の顔だった。泣いてもいない。ただ、何かの役目を終えたみたいに空っぽだった。
鞄の中には、書き込みだらけのノートが一冊入っている。
もう誰の役にも立たない。けれど捨てる理由もない。
信号が青に変わる。
私はそれを抱えたまま、人の流れに混ざった。
許されたのに、少しも軽くならなかった。
もう彼は私を必要としない。その事実だけが、赦しより長く、ゆっくりと胸の底に沈んでいった。
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