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第2話 / 全14話
事故のあと、いちばん堪えたのは痛みじゃなかった。
天井の白さでも、脚が動かないことでもない。
ベッドの脇で泣いている彼女の声だった。
「ごめん、カズキ。私が、ちゃんと前を見てたら……」
その言葉を聞くたびに、自分の足が二度だめになる気がした。骨や神経じゃなく、もっと別のところが潰れていく。庇ったのは自分の勝手だった。けれど、その勝手が彼女の一生に貼りついてしまうのだと思うと、吐き気がした。
もちろん、きれいな気持ちだけじゃない。
顔を見たくなかった。あの日の音も、路面の熱も、視界の端で揺れた彼女の袖も、全部まとめて思い出すからだ。思い出した先にあるのは、動かない脚だった。
だから、追い払った。
「……もう来るな」
彼女が息を呑む音がした。
「お前の顔を見ると、思い出す」
嘘ではなかった。ただ、それが全部でもなかった。
それ以上ここにいさせたら、彼女はきっと何年も、何十年も、あの日の続きだけを生きる。そんな気がした。自分のせいで壊れた人生を、自分のそばで償わせるのは耐えられなかった。
二度と来るな、と言ったとき、彼女は泣きながら頷いた。
あれでよかったのだと、その時は思った。
退院してからは、よく覚えていない。
リハビリをさぼって、苛立って、母親に当たり散らして、夜になると眠れなかった。車椅子の高さに慣れないまま、部屋の中で物にぶつかってばかりいた。
彼女がまだ自分のことを調べているらしい、と人づてに聞いたのはその頃だった。後遺症のこと、介助のこと、部屋の作り。ノートまでつけているらしい、と。
やめてくれ、と思った。
感謝でも安心でもない。ただ、自分が「世話をされる側の人間」になったことを、遠くから何度も突きつけられているみたいで、惨めだった。
同時に、その話を聞くたび少しだけ救われてもいた。
まだ忘れられていない。
そう思ってしまう自分が、いちばんみっともなかった。
サナに会ったのは、その暗い時期の終わりかけだった。
病院の売店で、落とした小銭を拾おうとして手こずっていたら、「遅い」と言ってしゃがみ込み、当然みたいに全部集めて寄越した。
「ありがとう」と言ったら、彼女は肩をすくめた。
「礼より先に、リハビリさぼるのやめたら」
初対面のくせに、ずいぶんな言い草だった。
可哀想ですね、とは言わなかった。気を遣う顔もしなかった。ただ、ひねくれて不機嫌で面倒な男を見る目をしていた。
その雑さに、救われた。
サナは助けるときも、特別なことみたいにしなかった。車椅子のブレーキを確認して、届かない棚のものを取って、調子が悪い日は黙って隣にいた。でも、それでこちらを善人扱いもしなければ、被害者扱いもしない。怠ければ怒るし、意地を張れば呆れる。そういう日々の中で、自分が少しずつ「事故そのもの」ではなくなっていくのが分かった。
ある夜、サナが不意に言った。
「彼女、まだ待ってるみたいだよ」
何のことか分かってしまった。
分かってしまったから、返事が遅れた。
「……そう」
「ずっと、あなたのこと調べてるって」
責める口調ではなかった。噂話をするみたいでもない。ただ静かに、窓を開けるみたいに言った。
そのときようやく気づいた。
自分があの日の怒りや恨みを持ち続けている限り、彼女は「加害者」という席から降りられないのだと。自分を傷つけた相手として、自分の人生の外側に立ち尽くしたままになる。
それを望んでいたわけじゃない。
少なくとも、最初は。
春の日、公園で彼女を見つけたとき、先に気づいたのはサナだった。
「あの人?」
頷くと、サナは何も言わず、膝の毛布を整えた。裾が車輪に巻き込まれないように直す、いつもの手つきだった。少し冷えていた指先を、彼女が包む。これも、いつものことだった。
彼女の足音が近づいてきた。
「……カズキ」
名前を呼ばれて振り向く。
何年ぶりなのに、顔はすぐ分かった。少しやせて、けれど思ったより普通の顔をしていた。もっと壊れていてくれたらいいのにと、昔なら思ったかもしれない。今はもう、そうでもなかった。
「ああ……久しぶり」
隣でサナが一歩引く気配がした。でも離れはしない。その距離に、いまの自分の生活がそのまま出ていた。
彼女は何か言おうとして、うまく言葉にならないみたいだった。
謝罪か、言い訳か、それとも別の何かか。もう、どれでもよかった。
「君が、いろいろ調べてくれてたって聞いた」
彼女の肩が揺れた。
「私は、ただ……あなたに、何かできることが」
「ないよ」
できるだけやわらかく言った。突き放すためではなく、終わらせるために。
彼女は目を伏せた。
その顔を見て、昔の自分なら少しは溜飲が下がったのかもしれない。けれど実際には、ただひどく疲れた気持ちになった。
「最初は、すごく恨んだ」
それは本当だった。
彼女が笑えば腹が立つと思ったし、不幸になればいいと願ったこともある。自分だけが置いていかれたみたいで、耐えられなかった。
「でも、今は違う」
サナの手が肩に触れる。
それだけで、続きを言えた。
「歩けなくても、ちゃんと笑える日が来るって分かったから」
彼女の顔から、何かが静かに消えていくのが見えた。希望か、役目か、執着か。どれか一つではなく、たぶん全部だった。
「だから、もういいんだ」
喉の奥が少しだけ痛んだ。
それでも言った。
「自分を責めなくていい。俺は、君を許してる」
彼女はすぐには返事をしなかった。
ようやく、「……そう」とだけ言って、ぎこちなく笑った。
「よかった。幸せそうで」
「ありがとう」
その言葉に、彼女が少しだけ顔を歪めた。
「……お幸せに」
そう言って背を向ける。逃げるようにも見えたし、ようやく歩き出したようにも見えた。どちらでもよかった。もう、自分が決めることじゃない。
後ろ姿が人の流れに紛れていくまで見送って、カズキは息を吐いた。笑い声みたいに聞こえたかもしれない。実際には、胸の奥に長く溜まっていたものが、やっと外へ出た音だった。
「ひどい人ね」
サナが苦笑する。
「そうかも」
膝の毛布を握る。春なのに、少しだけ冷えた。
彼女はもう来ないだろう。
彼女の人生には、ようやく自分のいない空席ができる。その席に何が置かれるのか、自分は知らない。知らなくていい。
それでも、これでよかったのだと思う。
恨みの形で繋いでいた最後の糸を、自分で切ったのだから。
サナが毛布の端を直す。
カズキはその手を見てから、もう一度だけ、彼女が去っていった道の方へ目をやった。
春の光の中には、もう誰の影も残っていなかった。
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この作品は第1話『赦しの毒、あるいは空席の献身』のカズキ視点の補完物語です。
もし、未読でしたら。ぜひご一読いただければと思います。
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