読み込み中...
読み込み中...
第10話 / 全29話
「――触れるなッ!!」 「その娘は捧げものだ!!」
悲鳴とも怒号ともつかぬ声を上げ飛び出してきたのは、痩せこけた体躯の村人たちだった。手には錆びた鍬や鎌、急ごしらえの竹槍。みすぼらしい姿のどこにそんな力が残っているのか、彼らの目は血走り、口元からは泡が飛んでいる。
「なんだよテメェら。隠れて震えてた癖に、随分と威勢がいいじゃねぇか」
「下りろ! そこから下りろ! 平天大聖様の生贄だぞ!」
「へいてん……はて?」
悟空が首を傾げる。その隙を突き、一人の男が鎌を振り上げ、祭壇へ殺到した。狙いは悟空ではない。縛られた娘を守るためですらない。ただ、儀式を邪魔する異物を排除しようとする、盲目的な殺意。
「邪魔だッ!」
男が叫ぶ。だが、その刃が悟空に届くことはなかった。
「――あぁ、五月蠅ぇ」
ゴッ。鈍い音が響き、男の体が紙屑のように宙を舞った。悟空が、指先だけで男の額を弾いたのだ。たったそれだけで、男は数メートル吹き飛び、土壁に激突して動かなくなる。
「ひっ……!?」
村人たちの足が止まる。悟空は、耳の裏から取り出した金色の楊枝を、一瞬で長大な棒、如意金箍棒へと巨大化させると、それを石突きの音も高く地面に突き立てた。
轟音と共に地面が揺れ、土煙が舞う。
「俺様の師匠様が『下ろせ』って言ってんだよ。……邪魔するなら、この村ごと更地にしてやってもいいんだぜ?」
悟空の瞳孔が、爬虫類のように縦に裂け、金色の光を帯びる。そこにあるのは、圧倒的な強者だけが持つ、無邪気で純粋な「捕食者」の気配だった。
「ちょうど退屈してたんだ。久しぶりに、生き血の味も悪くねぇ」
村人たちが恐怖に凍りつく。鎌を取り落とす音が、静寂の中でやけに大きく響いた。虐殺が始まる。誰もがそう確信した瞬間――
「猿!」
凛とした、しかし絶対的な言葉が響いた。次の瞬間。
「ぎゃんっ!?」
悟空が悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。頭にはめられた金の輪が、目に見えぬ力でギリギリと締め上げられているのだ。
「い、ってぇ……! まてまて!」
「待つのはお前だ。猿」
玄奘は馬から降り、苦痛にのた打ち回る従者を一瞥もせず、村人たちの前へと歩み出た。その姿は、あまりに異様だった。最強の妖怪を、指先一つで飼い慣らす美しい法師。彼女が纏う冷徹な空気は、暴力とは別の種類の恐怖を村人たちに与えた。
「あなた方、なぜこのような真似を?」
玄奘が静かに問うと、年配の男がおずおずと進み出た。
「た、旅のお方には悪いが……これは村の定めじゃ。この娘を平天大聖様に捧げねば、村は皆殺しにされてしまう!」
玄奘の表情が能面のように凍りついた。
(平天大聖!聞き違いではなかった)
彼女は、地面に這いつくばる悟空へと視線を落とす。
「猿! 聞き覚えは?」
悟空は頭を押さえながら、脂汗を浮かべた顔でニヤリと笑った。
「あー……あったな、そんなふざけた名前。俺の昔の兄弟分だ。牛の妖怪でな。見栄っ張りの牛魔王が、そう名乗ってやがった。……へっ、あいつまだ、そんなくだらねぇ虚勢張ってんのかよ」
牛魔王!牛魔王!彼女の胸の奥で、ある記憶が、焼けるように疼く。だが、彼女はそれを微塵も表に出さず、深く息を吐き出した。
「……わかりました。私たちが、その妖怪を退治しましょう」
「なっ……!?」
驚いたのは村人だけではない。悟空も目を丸くした。
「おいおい、本気か?報酬次第だぞ?その痩せた娘ひとりじゃ割に合わねぇ」
「黙れ猿。お前が口出す事ではない」
玄奘は冷たく切り捨て、村人たちに向き直る。
「さあ、案内しなさい。村の長の元へ」
しかし、村人たちは動かなかった。彼らの目に宿るのは、感謝ではなく、さらなる絶望と狂気。
「ふざけるな……! 平天大聖様を怒らせる気か!」
「よそ者が余計なことをするな!」
恐怖が理性を焼き切った集団心理。一人の男が、血走った目で鍬を振り上げ、玄奘へと躍りかかった。
「死ねぇっ!!」
玄奘は動かない。眉一つ動かさず、迫り来る刃を見据えている。ただ、短く、愛すべき獣の名を呼んだ。
「――猿」
刹那。
重い破砕音が空気を裂く。男の悲鳴が上がるよりも早く、鮮血が舞う。悟空の如意金箍棒が、振り上げられた男の腕を、鍬ごと粉砕していた。折れた骨が皮膚を突き破り、ひしゃげた農具と共に地面に転がる。
「あ……あ、あ、俺の、腕! 腕ぇぇ……ッ!」
男が泥にまみれてのた打ち回る。悟空は、返り血を浴びた顔を拭いもせず、退屈そうにあくびを噛み殺した。
「……で? 次はどいつだ?」
金色の瞳が、獲物を探してぎらりと光る。その圧倒的な暴力と、玄奘の静寂。村人たちは理解した。目の前の二人は、牛魔王とは別の、しかし等しく逆らってはいけない理不尽なのだと。
玄奘は、痛みに泣き叫ぶ男を一瞥もしない。静まり返った村人たちを見渡し、静かに告げた。
「案内しなさい。……まだ、生きていたいのなら」
この話はいかがでしたか?
この作品を評価する