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第2話 / 全2話
あの夜会のテラスで、常識から外れきった求婚まがいの言葉を叩きつけられてから、三日が過ぎた。
わたしは自室の窓辺で分厚い騎士道物語をひらいたまま、同じ頁を何度も目でなぞっていた。紙の乾いた匂いも、革表紙の手なじみも、いつもなら胸のざわめきを鎮めてくれるのに、今日はどうにも役に立たない。
頭の中に居座っているのは、あのひとの紅い瞳だった。
匂いがどうこう、妻に望むだの、順序も礼儀もあったものではない告白。普通なら腹を立てて忘れてしまえばいい。忘れてしまえる程度の男なら、わたしだってここまで頁の上で固まってはいない。
けれど困ったことに、あのひとは軽薄ではなかった。
危険で、変で、非常識で、どう考えてもまともではない。なのに、薄っぺらな美辞麗句で誤魔化す気配だけはなかった。わたしを見ているのに、同時に、自分でも持て余している何かへ追い立てられているような目をしていた。
それが、妙に引っかかっている。
窓の外では、春の枝先が風に揺れていた。庭は明るいのに、屋敷の中にはこのところ、どこか薄い影が差している。
父はこの数日、帳簿を閉じる音を妙に小さくするようになった。母は夜会用の手袋の内側をほどき、擦り切れた縁を見えないよう縫い直していた。廊下で使用人たちが話す声も、わたしが近づくとすぐ途切れる。
見ないふりをしても、見えないことにはならない。
もしあの夜、またひとつ縁談を壊した娘として、わたしが本当に辺境の修道院へ送られることになれば、蔵書のいくらかは手放されるだろう。あの書棚に並ぶ本たちが、見知らぬ誰かの手へばらばらに引き取られていく光景を想像しただけで、喉の奥がすうっと冷えた。
その時だった。
「エリザベート! 大変よ、大変なことになったわ!」
ほとんどノックを忘れた勢いで、母が部屋へ飛び込んでくる。頬が紅潮し、息もわずかに上がっていた。扉を押さえる指先まで落ち着きなく震えている。
「あらお母様。そんなに慌てて、どうなさいましたの。またお父様が秘蔵のワインでも割りましたか?」
「それどころではありません!」
母は一歩近づき、声を落とした。
「ラヴェル伯爵様が、正式にお申し込みにいらしているの」
危うく、膝の上の本を取り落としかけた。
「きゅ、求婚ですって……?」
「ええ。本気よ。紋章入りの馬車で、家令までお連れして。お父様が応接室でお待ちしているわ」
わたしは本を閉じた。革表紙の硬さが、今日に限ってやけに冷たく思える。
没落寸前の男爵家へ、ラヴェル伯爵家から正式な求婚。
家がひっくり返るどころではない。下手をすれば、これひとつで今後の扱いが丸ごと変わる。
「けれど、お母様……」
立ち上がりながらも、声は自然と硬くなった。
「あの方は初対面の淑女へ向かって、わたくしの匂いが気に入っただの、妻に望むだの、平然と口にされたのですよ。どう考えても、危険ではありませんこと?」
「まあ、危険かもしれませんわね」
母は、驚くほどあっさり言った。
「でも、危険かどうかを吟味できるほどの余裕は、うちにはもう残っていないのよ。なにせ、お相手はあの〈竜神〉と呼ばれる、ラヴェル伯爵家のご当主様なのですから」
その一言で、胸の奥へ小さく棘が刺さる。
わたしは何も返せないまま、部屋を出た。
廊下の空気まで緊張している。磨かれた床の上を進む靴音が、いつもより硬く響いた。応接室の扉の前で一度だけ息を吸い、わたしはゆっくり中へ入る。
窓から差し込む午後の光が、部屋の半分だけを静かに照らしていた。
父は正面の椅子へ座っていたけれど、背筋を伸ばしすぎて、かえって疲れて見えた。テーブルの端には、黒革の書類入れが置かれている。封蝋には、ラヴェル家の紋章。
そしてその向こう側に、アルヴィン・ラヴェルがいた。
夜会の時のような華やかな灯りの中ではない。昼の光の下で見ると、その顔立ちはかえって整いすぎていて、冷たく見えるはずだった。けれど彼はわたしが入ると立ち上がり、思っていたよりきちんと礼を取った。
「エリザベート嬢」
低い声だった。
「急な訪問を詫びる。だが、先延ばしにしたくなかった」
先延ばしにしたくなかった。
やっぱりこのひとは妙だ。言うことが全部、真っ直ぐすぎる。
わたしは父の向かいへ腰を下ろした。母は少し後ろへ控え、扇を持つ手にだけ落ち着かなさが残っている。
「先日は、順序を欠いた物言いをした」
アルヴィン様はわたしを見たまま言った。
「無礼だったと思っている」
「……撤回は、なさらないのですね」
「しない」
ためらいがない。
「君を妻に望む気持ちは、変わっていない」
昼の応接室で聞くと、夜会のテラスよりずっと逃げ場がなかった。
わたしは思わず父へ向き直る。
「お父様、お聞きになりましたでしょう。やはり本気なのですわ。伯爵様は、わたくしの香りが気に入ったから結婚したいとおっしゃっているのですよ。正気の沙汰ではありません」
父は苦い顔で息を吐いた。
「発端が常識の外にあることは、私も認める」
「では」
「だが、それでもラヴェル伯爵家が礼を尽くして申し込んでくださっている事実は変わらん」
低い声だった。怒鳴りではなく、疲れの滲んだ現実の声だ。
「断ればどうなるか、おまえにも分かるだろう」
そこで言葉が切れる。
わたしには、わかる。
次の縁談が同じ格で来る保証はない。来たとしても、わたしがまた壊せば、それで終わりだ。修道院送りも、蔵書の処分も、脅しではなくなる。
母が静かに口を開いた。
「エリザ。あなたが嫌なら、わたくしたちは最後まで庇います。ですが、庇うだけでは何も守れないこともあるのですよ」
その言い方が、やさしいのに苦しかった。
そこで初めて、アルヴィン様がテーブルの書類入れへ手を置いた。
「だから、こちらから差し出せる条件を文書にした」
黒革の留め具が外され、数枚の紙が広げられる。整った筆跡。簡潔で、冷静で、余計な飾りがない。
「君が大切にしている書物は、すべてラヴェル家の屋敷へ運び込ませよう。希望するなら専用の書斎を設ける。読書の時間、新たな書物の購入、書簡のやり取り、外出についても、制限を設けない」
そこまで言ってから、彼は一枚紙を持ち上げた。
「それから、婚姻後も、君の同意なく夫婦の義務を強いることはしない。必要なら署名の上で、ここへ追記してもいい」
わたしは一瞬、言葉を失った。
父も母も息を呑んでいる。
そこまで具体的な条件が出るとは思っていなかった。単なる熱に浮かされた求婚ではなく、彼は最初から、わたしが何を恐れるかを考えてきたのだ。
「ただ……夜だけは、そばにいてほしい」
彼は静かに言った。
「それだけは譲れない」
「……どういう意味ですの?」
「文字どおりだ。君の香りの近くにいると、私は眠れる」
やはり変だ。どうしようもなく変だ。
けれど今の言葉には、酔狂も芝居もなかった。
わたしは書面へ視線を落とす。
書斎。本。自由。強いないという約束。
それだけ見れば、こちらにとって有利すぎる条件だ。罠にしては露骨すぎるし、嘘にしては書面が整いすぎている。
では問題は何か。
このひと自身だ。
得体が知れない。危うい。何かを隠している。それは間違いない。夜会の時も、いまも、熱に押し流されそうでぎりぎり踏みとどまっているような気配がある。
ここで断る。
そうすれば、少なくともこのひとのそばへ行かずに済む。けれどその先に待っているのは、静かな自由ではない。家の沈みかけた台所、母の縫い直す手袋、父の荒れた声、そしていずれ手放される本棚だ。
受ける。
そうすれば、危険な男の手の内へ自分から入ることになる。けれど少なくとも、本を守れる。自分の目で相手を見極める余地が残る。何よりこのひとは、怖いほど率直で、怖いほど約束を紙へ落としてきた。
完全に安全な道は、もう残っていなかった。
なら、外からじわじわ削られていくより、自分の足で扉の中へ入って、そこに何があるのかを確かめるほうが、まだわたしの性に合っている。
わたしはゆっくり顔を上げた。
「……ひとつ、確認してもよろしいですか?」
「何だろう」
「この条件は、口約束ではなく、正式な書面として残りますのよね?」
「もちろんだ」
「後から気が変わって、やはり駄目だなどとは――」
「言わない。必要なら王宮の書記官を立て、契約証書にしてもいい」
即答だった。
あまりに早くて、かえって息が詰まる。
このひとは、自分が欲しいものの輪郭を知っている。そして、こちらが恐れるものも見誤っていない。
わたしは膝の上で指を組んだ。爪の先が少し冷たい。
「……わかりましたわ」
自分の声が、思っていたより静かに出た。
「条件を書面に残してくださるなら、お受けいたします」
母が小さく息を呑む。
父は目を閉じ、深く、長く息を吐いた。喜びというより、肩へ乗っていた重さがひとつ下りた時の呼吸だった。その音が、胸へ針みたいに刺さる。
アルヴィン様はすぐには何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、張りつめていた肩から力が抜ける。
その変化はごく僅かだった。けれど、ああ、このひとも緊張していたのだと分かってしまう程度には、人間らしかった。
「ありがとう」
それだけを、彼は低く言った。
こうして、わたしの婚姻は決まった。
売られたのではない、と言い切れるほど綺麗ではない。恋に落ちたのでもない。けれど最後の一歩だけは、自分の意思で踏み出したのだと思いたかった。
婚礼の日は、妙にあっけなくやって来た。
質素ながらも伯爵家の威光を示すには十分すぎる式を終え、わたしは広い主寝室でひとり立ち尽くしていた。持ち込んだ本はすでに隣の書斎へ運ばれ、箱の数より先に、書棚の木の匂いが新しい生活を主張している。
窓辺の燭台が小さく揺れた。
これから夫が来る。
とはいえ、書面がある。少なくとも今夜、いきなり花嫁として押し倒されるようなことはない。そう自分に言い聞かせながら、わたしは持参した恋愛小説をひらいた。
けれど、一行も頭へ入らない。
「エリィ」
背後から、低く甘い声が鼓膜を撫でた。
「ひゃっ!」
勢いよく振り返ると、寝室用の簡素なガウンへ着替えたアルヴィン様が立っていた。その手には、なぜか枕が抱えられている。
え。
どうして枕。
「あ、あの……何か御用でございましょうか」
「ああ。一緒に寝ようと思って」
「……はい?」
聞き間違いであってほしかった。
「だから、一緒に寝てほしい」
彼はいたって真面目な顔で言う。
「君の香りの近くにいると、とてもよく眠れる」
「い、一緒にとは……このベッドで、ですの?」
「もちろんだ」
「もちろんではありません!」
わたしは本を閉じ、思わず一歩後ずさった。
「契約書に何とお書きになったか、もうお忘れですの? 同意なく夫婦の義務は強いられないと」
「忘れていない」
彼はそこでようやく、少しだけ言葉を選ぶように黙った。
「だから、強いるつもりもない。ただ……隣にいさせてほしいだけだ」
そう言って、彼は抱えていた枕を少し持ち上げた。頼み方が妙に不器用で、かえってこちらの警戒心の置き場が難しくなる。
「わたくしは、まだあなたを信用しきっておりませんのよ」
「知っている」
「怖いとも思っております」
「それも、知っている」
だったら退けばいいのに、と言いかけて、やめた。
このひとは、そこだけは譲らないのだと、もう分かってしまっていたからだ。
わたしは息を整えた。
「……条件がありますわ」
彼の目がまっすぐこちらへ向く。
「同じベッドでも、端と端です。少しでも妙な真似をなさったら、その場で叩き出します」
「ああ」
「それから、今夜だけです」
「今夜だけでもいい」
返答が早すぎて、こちらがひるむ。
「最後に」
わたしは視線を落とし、わざと低く言った。
「眠る前に、その契約を破る気がないことを、もう一度だけ言葉で聞かせてくださいまし」
寝室の空気が、少しだけ静かになった。
彼は枕を抱えたまま、ほんの僅かに目を伏せる。
「君が望まないことはしない」
今度の声は、夜会の熱とも、応接室の冷静さとも違った。
「約束する」
わたしは、ゆっくり頷いた。
結果から言えば、その約束は拍子抜けするほど守られた。
アルヴィン様はベッドの端へ静かに腰を下ろし、わたしとのあいだへ抱えていた枕をきちんと置いた。それから、こちらを振り向く前にひとつ息を整え、遠慮がちな動きで横たわる。
距離はきっちりある。
触れもしない。
なのに、肩のあたりから緊張だけが伝わってくる。
わたしも反対側へ入った。広い寝台なのに、妙に窮屈だ。絹のシーツがひやりと肌へ触れ、耳ばかりが敏感になる。寝室の大時計が遠くで時を刻み、窓の外では夜風が木々の葉を揺らしていた。
その沈黙を破ったのは、彼の小さな呼吸だった。
くん、と一度だけ、わたしの髪から流れた香りを吸い込む。
怒るべきところなのに、その音があまりにも控えめで、逆に言葉を失う。
次の瞬間には、彼の呼吸はゆっくり整いはじめていた。
本当に、眠ってしまうのだ。
わたしは半身を起こし、そっと横顔を見る。
目を閉じたアルヴィン様は、昼間の威圧感が嘘みたいに静かだった。長い睫毛の下に薄い影があり、口元からも力が抜けている。あの整いすぎた顔立ちから冷たさだけが抜け落ちると、年若い疲れがあらわになるのだと初めて知った。
なんというか。
拍子抜けするほど、無防備だ。
こんな顔で眠るひとが、夜会ではあれほど危険なことを口にしていたのかと思うと、頭がくらくらする。わたしの隣で眠っているのは得体の知れない伯爵のはずなのに、いま目の前にあるのは、何かを長く我慢しすぎて、ようやく気を失うように眠ったひとの顔だった。
少しだけ。
ほんの少しだけ、胸の奥の硬いところが緩みかける。
だめだわ。騙されてはいけない。
わたしは頭を小さく振った。
相手は匂いへ異様な執着を示す伯爵で、まだ何を隠しているかも分からない。寝顔がきれいだからといって、事情が穏当になるわけではない。
その時、部屋の隅で月明かりが鈍く返るのが見えた。
衝立の向こう側だ。
金属めいた光が、一度だけ、冷たく瞬く。
さっきから気になっていたのだ。寝室には不似合いな、硬い反射だった。
わたしは息を殺し、そっとベッドを抜け出した。絨毯が足音を吸い、裾がかすかに鳴る。振り返ると、アルヴィン様は少しも起きる気配がない。ただ枕へ頬を寄せたまま、深く静かな呼吸を続けていた。
衝立の陰を覗き込む。
「……檻?」
声が、自分でも分かるほど小さくこぼれた。
そこには、大人がひとりすっぽり入れそうなほど大きな、黒い鉄の檻が置かれていた。しかも格子の何本かには、赤黒く乾いた染みがべったりとこびりついている。月光を受けてなお黒い、それはどう見ても古い血の跡だった。
背筋へ、冷たいものが走る。
匂いへ執着し、夜伽は求めず、添い寝だけを切実に望み、その寝室の奥には血痕つきの鉄檻がある。
わたし、もしかしなくても、とんでもないところへ嫁いでしまったのではないかしら。
月の光が格子を冷たく照らしていた。
その背後で、アルヴィン様はなにも知らない顔で眠っている。あのやわらかな寝息と、目の前の異様な鉄の塊とが、どうしても同じ部屋に収まらない。
このひとは、何者なのか。
どうして、わたしの香りへあれほど執着するのか。
ラヴェル伯爵家での新婚生活は、初日から前途多難どころではない影を、これ以上なく濃く落としながら幕を開けたのだった。
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