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第1話 / 全1話
「エリザベーーーート!」
今日もまた、父の怒声が屋敷じゅうへ響きわたった。
分厚い扉がびりりと震え、廊下へ並んだ古い甲冑まで、朝から迷惑そうに身じろぎした気がする。窓辺の飾り皿が、かすかにちり、と鳴った。庭木で休んでいた小鳥が二、三羽、いっせいに飛び立っていく。まだ朝だというのに、本当に騒がしい。
わたしは書斎の長椅子で読んでいた恋愛小説へ、そっと栞を挟んだ。指先には乾いた紙の感触が残り、鼻の奥にはインクと羊皮紙の匂いがやわらかく貼りついている。いつもなら、それだけで少し気持ちが落ち着くのに、今日はだめだった。
理由なら、わかっている。
今朝、父の机に広げられていた帳簿を、見てしまったからだ。去年手放した葡萄畑の代金がもう薄くなっていることも、母が夜会用の手袋を裏返して縫い直し、擦り切れた縁を隠していたことも、見ないふりをした。けれど、見なかったことにはならない。
またひとつ縁談が駄目になったのだろう。たぶん今度も、先方が涙ながらに訴えたに違いない。あんな娘は願い下げだ、と。
ええ、存じております。だいたいその通りですもの。
「お父様、わたくしをお呼びですの?」
何事もなかった顔で声を返すと、父の唸るような息が扉越しに聞こえた。
「お呼びですの、ではない! エリザベート、おまえという娘は……!」
「あらお父様、ごきげん麗しゅうございます」
立ち上がり、裙の皺を軽く払ってから一礼する。優雅に見えたなら成功だ。少なくとも、帳簿の数字が頭をちらつかせていることまでは悟られずに済む。
わたし、エリザベート・モンヴェール、十八歳。
地味な栗茶の髪はきっちり三つ編みにし、大きな丸眼鏡で顔の半分を隠している。華やかさとは縁遠いけれど、目立たずに済むならそのほうがいい。社交界へ出るたび、これはわたしにとって最後の防壁みたいなものだった。
母が扇で机を打った。ぱちん、と薄い音が書斎の空気を裂く。
「エリザ、いい加減になさいませ。あなたももう十八ですのよ。いつまで本へ埋もれて、結婚から逃げ回るおつもりですか」
わたしは閉じた本の表紙を指先で撫で、小さく笑った。
「あら。わたくしは逃げてなどおりませんわ。ただ、殿方のお眼鏡にかなわなかっただけでございます」
「どの口がそれを言う!」
父がどすどすと歩み寄ってくる。床板が揺れ、打ちつけられた拳の衝撃で、インク壺の黒がぷるりと波打った。
「わざと嫌われるような真似ばかりしおって! 相手が詩を吟じれば欠伸を噛み殺し、庭園を褒められれば土壌の話を始め、舞踏の最中に足を止めて本棚の目録を見に行く娘があるか!」
「舞踏より目録のほうが面白うございましたもの」
「そういうところだ!」
怒鳴られても、言い返す言葉はいくらでもある。刺繍も舞踏も淑女の作法も、一通りは覚えた。やれと言われれば、ちゃんとやれる。けれど、わたしの胸をほんとうに高鳴らせるのは、新しい本の頁をひらいた瞬間の、あの少し乾いた匂いと、整然と並んだ黒い文字だけだった。
恋愛小説は好きだ。とても好きだ。胸がきゅっと縮み、息もできなくなるほどときめく。
けれどそれは、本の中だから美しい。
現実の殿方が、我が愛しの君だの、君のためなら死ねるだの囁いたところで、正直なところ、砂糖水みたいに薄く感じてしまう。そう口にすれば母が気絶なさるから言わないだけで。
「よろしいか、エリザベート」
父の声が、今度は怒鳴りではなく、疲れた重さを帯びて落ちてきた。
「今夜の王宮夜会が最後だと思え」
わたしは少しだけ目を上げた。父の目の下には薄い影がある。昨夜も眠れなかったのだろう。その事実が、いつもより胸に刺さった。
「もし今夜もだめなら、おまえを辺境の修道院へ入れる」
わたしは笑った。笑えた、はずだった。
「まあ素敵。静かな環境で、思う存分読書三昧ですわね」
けれど言い終えたあと、喉の奥が少しだけ乾いた。
修道院は、おとぎ話に出てくるみたいにやさしい隠れ家ではない。持ち込みを許されるのは祈祷書くらいだろうし、わたしの蔵書はおそらく競りに出される。なにより、そこへ送られるということは、この家にとってわたしが、もう抱えきれない厄介事になったと認めることだ。
「エリザベーーーート!! この親不孝者めが!」
本日二度目の父の絶叫が、春の青空へ高らかに吸い込まれていった。
わたしは扉の外へ視線を逸らしたまま、そっと唇を結ぶ。
今夜だけは、いつものように逃げて済ませてはいけないのだと、もうわかっていた。
そして夜。
王宮の夜会ホールは、まるで宝石箱の内側みたいに光っていた。
幾十もの蝋燭が高く揺れ、金の装飾がその光を受けてきらきら散る。弦と管の重なる楽の音が胸もとまで響き、磨かれた床の上では靴音が絶えず弾んでいた。香水とワインと人いきれの匂いが甘く重く漂い、締め上げられたコルセットのせいもあって、胸の奥がじわりと重たい。
壁際へ退いた時、背中に触れた大理石はひんやり冷たかった。
壁の花、というより、もはや壁の染みである。
けれど今夜ばかりは、その自嘲で済ませたくなかった。ここへ立っているだけで、家の帳簿が軽くなるわけではない。母の縫い直した手袋も、父の荒れた指先も、見なかったことにはできない。
せめて、最後まで逃げずにいる。
そう決めていたのに。
「エリザベート様。今宵の貴女は、夜空にかかる月よりなお美しい……」
今日のお相手は、ねっとり粘着質で名高いボルドー子爵だった。うるんだ瞳。甘ったるいワインの息。頬はうっすら赤く、上着の襟元には香水がきつい。
ああもう、無理。
頬が引きつるのをこらえながら、わたしは淑女用の微笑みを貼りつけた。
「まあ、子爵様ったら。お口がお上手ですこと」
「このあと、私の屋敷のバルコニーで月を眺めながら語り合いませんか。もちろん二人きりで」
ぐい、と腕へ触れられた瞬間、鳥肌が立った。そこだけ冷たい泥で汚されたみたいに、肌の奥までぞわりと粟立つ。
だめだわ。
今すぐ逃げなさい、わたし。
「あ、あちらに! とても珍しい七色に光る夜光蝶がいますわ!」
見当違いの方向を指さすと、子爵が「なぬっ」と顔を上げる。その一瞬で十分だった。
わたしは裙をひるがえし、人混みを縫って走った。ヒールが床を打つたび、かつん、かつん、と乾いた音が跳ねる。袖のレースが他人の衣装へ引っかかりそうになるのを避けながら、柱の陰を抜け、奥のテラスへ滑り込んだ。
「はぁ……はぁ……撒けた……かしら……」
手すりへ寄りかかり、息を整える。
夜風が汗ばんだ首筋を撫でていく。まとわりついていた香水の匂いが少しずつ薄れ、遠い庭から夜の花のほのかな香りが流れてきた。肺へ入る空気が急に冷たく、澄んでいる。
けれど、胸の奥は少しも軽くならなかった。
また逃げた。
今夜だけは耐えようと思ったのに、結局これだ。いまごろホールのどこかでは、ボルドー子爵が頬を紅潮させて、壁の染み令嬢の逃亡劇を面白おかしく語っているかもしれない。父の顔を思うと、胃のあたりがひやりとした。
「……お困りのようだね、レディ?」
背後から、低く静かな声が落ちてきた。
「ひゃっ!」
心臓が跳ねて振り返る。
そこに立っていたのは、息を呑むほど美しい男だった。
黒褐の髪。燃えるような紅い瞳。白いシャツの襟元へ月の光が薄く滑っている。あまりにも整いすぎていて、一瞬、現実感が消えた。こんな人、夜会の灯りの中で見落とせるはずがない。
見たことのない顔だった。
なのに、そのひとはまっすぐこちらへ歩み寄ってくる。石畳へ触れる靴音は不思議なほど柔らかく、そのたびに胸の鼓動だけが妙に意識されてしまう。
彼はわたしの目の前で立ち止まると、ふ、と鼻先をかすかに動かした。
次の瞬間、その美しい顔へ、恍惚とした色が広がる。
「うーん……君の匂い、すごく気に入った」
「ひぇっ!?」
自分でもどこから出たのかわからない、妙な声が出た。
「ああ……なんて極上なんだ。魂の奥が、勝手に起き上がる」
彼の視線が、髪から首筋、胸もとへふわりと滑る。今日つけた香油は控えめな白花のものだったはずなのに、その言い方は、もっと奥まで嗅ぎ当てられているようで、背中に妙な汗が滲んだ。
「あ、あの……どちら様で……」
「生まれて初めてだ」
彼はわたしの言葉を聞いていないみたいに続ける。
「こんなふうに、心が掻き乱されるのは」
その時だった。
「エリザベート嬢! やはりこちらに!」
聞きたくもない声がして、ボルドー子爵がテラスへ転がり込んできた。頬は上気し、足もとは少しふらついている。逃げ場を失った獲物を見る目だった。
「さあ、もう観念なさい。恥ずかしがることはないのです、私の腕の中へ――」
また腕が伸びる。
けれど、わたしへ触れるより先に、別の手がそれを遮った。
音もなく差し出された指が、子爵の手首をきっちり掴んでいた。ただそれだけの動きなのに、子爵の顔色がみるみる変わる。目の前の男は少しも力んでいない。ただ視線だけが、さっきとは別人みたいに冷えていた。
「彼女に気安く触れるな」
低い声だった。
静かなのに、妙に骨へひびく。
「な、なんなのだ貴様は! 私はボルドー子爵で――」
「名乗るな。聞きたくもない」
紅い瞳が細められる。その瞬間だけ、夜気そのものが薄く張りつめたように感じた。
「汚らわしい」
その一言で、子爵は見事なまでに腰を抜かした。
「ひぃぃぃ! も、申し訳ございませんでしたぁぁぁ!」
そのまま踵を返し、子爵はホールの灯りの方へ転がるように逃げていく。残ったのは、甘ったるい香水と、少しの酒臭さだけだった。
男はようやく手を離し、わたしへ向き直る。
「痛むか」
「え……」
「腕だ。さっき掴まれていただろう」
言われて初めて、自分の手首へじわりと熱が残っているのに気づいた。彼はそこを見て、ほんの僅かに眉を寄せる。怒っているのは子爵へであって、わたしへではないらしい。
「だ、大丈夫ですわ」
「そうか」
短く答え、彼は一歩だけ距離を取った。その退き方が、妙に律儀だった。
それでようやく、わたしは息をつく。
「……助けていただいたことには、お礼を申し上げます」
「礼はいらない」
「そうもまいりませんわ。先ほどの方、かなりしつこかったですもの」
「放っておけなかっただけだ」
その一言には、取りつくろった感じがまるでない。
わたしは眼鏡の位置を直し、改めて相手の顔を見る。怖い人ではある。明らかに変わっている。けれど、少なくとも、さっきの子爵とは違う種類の危うさだった。
「それで……どちら様でいらっしゃるの」
尋ねると、彼はすぐには答えなかった。
「アルヴィン・ラヴェルだ」
「ラヴェル……といいますと、伯爵家の?」
「ああ」
思わず瞬きを忘れた。
ラヴェル伯爵家。王家の血にも連なる名門。若くして竜神の異名を取り、鉄壁の堅物で、女性には一切興味を示さない。そんな噂ばかりが先に歩いていた名だ。
目の前の男は、その噂のどこにも収まりきらないように見えた。
「噂と違う、と顔に書いてある」
「だって……」
言いかけたところで、彼はわずかに口もとを動かした。笑ったというより、自嘲が一瞬だけ形を取ったような表情だった。
「よく言われる」
夜風がもう一度、わたしたちのあいだを抜ける。
そのたびに彼の視線が少しだけ揺れるのがわかった。わたしの首筋へ落ちかけて、ぎりぎりで逸らされる。見てはいけないものを見そうになって、必死でこらえているひとみたいだった。
「先ほどの……匂いのお話ですけれど」
そう言うと、彼の肩がほんの少しだけ強張る。
「あまりに率直すぎますわ。初対面の淑女へ申し上げるには、だいぶ危険な部類ですのよ」
「承知している」
「しかも、ずいぶん怖うございました」
「それも、承知している」
返答があまりに真面目で、わたしは言葉に詰まった。普通ならここで、冗談でしたとか、失礼をお許しくださいとか、そういう逃げ道を使うはずなのに、このひとは使わない。
月明かりの下で見る横顔はきれいだった。きれいすぎて、かえって冷たそうなのに、その下で息だけが妙に浅い。平然として見えるくせに、何かを押さえ込むのにずっと力を使っている顔だ。
「それでも、訂正はしない」
彼は静かに言った。
「私は今、君の匂いにひどく心を乱されている」
胸が変な跳ね方をした。
甘い台詞だからではない。その声音に、浮ついた響きが一欠片もなかったからだ。まるで自分の傷の状態を報告するみたいに、事実として差し出してくる。
「順序を欠いているのも、無礼なのもわかっている」
彼は一歩だけ近づいた。けれどさっきのように、不躾な距離ではない。
「だが、もう遅い」
「遅い?」
「これは決定だ」
紅い瞳が、まっすぐこちらを見る。
「君は、今日から俺のものだ」
「…………はいぃぃぃぃぃぃ!?」
何なのこの人、本気で怖い。
顔だけなら神様が気合いを入れて彫り上げたみたいなのに、言っていることがあまりにも危険すぎる。
わたしが声もなく後ずさると、彼はようやく少しだけ瞬きをした。
「もちろん、いきなり攫うつもりはない」
「その補足で安心できると思っていらっしゃるなら大間違いですわ!」
「そうか……」
すると彼は、信じられないことに少ししょんぼりした顔をした。さっきまで猛獣みたいだったくせに、急に叱られた子犬みたいな目になるのは反則だと思う。
「では、順序を踏む」
彼は低く言う。
「正式に求婚する。それなら許されるか」
「何ひとつ許されておりません!」
思わず素で叫んでしまった。
すると彼は、わずかに目を伏せる。長い睫毛の影が頬へ落ちた。
「……まだ、うまく言葉にならない」
掠れるほどではない、けれどひどく低い声だった。
「だが、さっき君が振り返った時、助けを求める顔をしていなかった」
「え?」
「泣きそうだったのに、誰にも見せまいとしていた」
胸の奥を、いきなり指先で触れられたみたいだった。
わたしは知らず、手すりを握る指へ力をこめる。
「そういうものを、私は見過ごせない」
その声は静かだった。
きれいごとではないし、口説き文句としても不格好だ。けれど少なくとも、さっきの子爵のように、表面だけを撫でてくる声ではなかった。
それでも、飛躍は飛躍だ。
「い、いくらなんでも飛躍がすぎますわ」
ようやく我へ返り、わたしは声を絞り出した。
「助けてくださったお礼は申し上げます。けれど初対面で、しかも匂いがどうこうで、いきなりもの扱いのようなことを仰るなんて……!」
「もっともだ」
「もっともだと仰るなら、なぜそんな無茶を」
「待てそうにないからだ」
今度こそ、わたしは言葉をなくした。
彼はそこでようやく、ほんの僅かに目を伏せた。
「……君が誰かのところへ行くのを、想像するだけで気分がよくない」
その言い方に所有欲の危うさはある。あるのに、それを誇らしげに掲げる響きがない。むしろ本人のほうが、それを持て余しているみたいだった。
わたしはめまいを覚えた。
なんなの、このひと。
顔だけなら神様が気合いを入れて彫り上げたみたいなのに、中身があまりにも危険で、しかも妙なところでまっすぐすぎる。
「返事はいらない」
アルヴィン様はふいに言った。
「今夜は、それを伝えるだけでいい」
その言葉に、わたしはほんの少しだけ救われかける。けれど次に続いた一言で、その安心はきれいに砕かれた。
「だが近いうちに、正式に申し込む」
「やっぱり本気ですのぉぉぉぉぉ!?」
わたしの叫びが、静まり返ったテラスへ高らかに響きわたる。
欄干の向こうの庭は、いつの間にかさっきよりも深い闇へ沈んでいた。月だけが、呆れたように白く光っている。
アルヴィン様はその絶叫にも眉ひとつ動かさなかった。ただ、わたしが半歩下がると、それ以上は追ってこない。指先ひとつ触れず、けれど目だけがこちらを離さない。
逃げたい。はやくこの場を離れたい。
なのに、なぜだか背を向けきれなかった。
あの紅い瞳の奥に、求婚よりもっと切羽詰まったものが、一瞬だけ見えた気がしたからだ。欲望というより、渇きに近いもの。ずっとなにかを探していて、ようやく見つけたとでも言いたげな、ひどく危うい熱。
ろくでもない。
ろくでもないけれど、軽薄ではない。
そこがいちばん厄介だった。
この衝撃的な出会いが、わたしの静かな読書漬けの日常を根底からひっくり返すことになるなんて、その時のわたしはまだ知らない。
ただ、テラスを去る直前、夜風の中でふと振り返った時のことだけは、なぜかはっきり覚えている。
アルヴィン・ラヴェルは、ひとりで立っていた。
さっきまでの切迫した熱を、またきれいに押し込めた顔で。きらびやかな王宮の灯りを背負っているのに、そのひとのまわりだけ、妙に静かで、少しだけ寒そうに見えた。
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