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第1話 / 全3話
1
私には身体がない。けれども、世界には触れられる。
ただ、名前も、記憶も、私を私だと定義するものが何一つ存在しなかった。
人間であることには間違いない。こうなる前は普通に生活していたのではないか、と思う。
人として思考し、感情もある。いわゆる、幽霊というものなのだろうと推測することもできた。
私は身体さえあれば、普通に生きていたはず。それだけの知識はある。自分に関する記憶だけが抜き出されているかのようだった。私が死んでいるのならやはり死因は知りたい。
それに、何より私を知っている誰かに会いたかった。
季節が四周もする間、私はできる限りを尽くした。
その結果、物や人に触れることはできるとわかった。しかし、誰の目にも私は映っていないし、声も聞こえてはいない。完全に一方通行だった。メリットはタダで何でも食べられることだが、大騒ぎになったので一度きりにした。
そもそも空腹も満腹もないのだから食事の必要もない。
ある意味、不老不死完全無敵ともいえる。けれども、それは究極の孤独と共存していた。様々な雑誌やネットニュース、ありとあらゆるものを調べてみたが何も得られなかった。
堂々と公園の固いベンチで眠る日々。眠る必要があるのかもわからないが、せめて人間らしい生活をしたいという悪あがきだ。
──それも限界だった。名前を呼ばれたような気がして振り返る。話しかけられた気がしてすり抜けられる。よくあることだが、今の私にはその全てが刺し傷となった。まだ、試していないことがある。純粋に怖いと思っていたから避けていたのだけれど。
幽霊は死ぬのだろうか。この身体、物に干渉できるわけだから、何かにぶつかれば怪我をするのかもしれない。自分で自分を叩いてもさほど痛みを感じることはなかったが、強い衝撃でも同じかはわからない。楽に死ねるならそれもいいと思えた。
目立つのは好きではないけれど、今日だけでも誰かに気づいてほしい。そんな思いで歩道橋の上に立っていた。
あるのかないのかわからない体重を前にかける。視界が落ちていく。暗いコンクリートが迫って──宙を仰いだ。
「何やってるの!」
空気を裂くような女性の声。腕に千切れそうなくらい強い圧を感じる。
見上げると、熱のある鋭い瞳に射られた。
「……何かあったんでしょう?」
私は思わず振り返る。数メートル先に二人ほど人影が見えるだけだった。
「どうしたの、私は貴女に話してるのよ」
「私が、み、見えるんですか?」
数ヶ月ぶりに発した声は震えるどころか掠れ切っていた。
「当たり前でしょ。幽霊じゃないんだから」
「その幽霊なんですが……」
「馬鹿言ってないで、事情があるなら話しなさい。ファミレスでも行く?」
「いや、ほら、変に思われていますよ」
やはりそうだ。通りかかる人が明らかに怪訝な顔で私たち、というより彼女に視線をくれている。虚空に向かって大声をあげている酔っ払いでも見るかのようだ。
「どうせ見て見ぬ振りか、止める勇気もない連中が野次馬やっているだけでしょ。でも……そうね、人目が気になるなら私の家に来なさい」
「え、えっ」
「いいから行くわよ」
知らない人のお宅へいきなり呼ばれるなんてどうすれば。問題はそこではない。この人は確実に私を認識している。無いはずの心臓が突然生まれて激しく踊り出しているみたいだ。腕がもげないか心配になりながら、私は彼女へ引き摺られていった。
2
月明かりに照らされた花々が私を出迎えてくれた。街の喧騒から外れた静かな場所。けれども、温かさを感じる。それどころではない、ここがどんな繁華街よりもうるさいのではないかと思わせる特大の叫びが轟いた。
「まぁ! 大変、ついに咲いたのね!」
彼女が指差す先には、一際大きくて透き通るような白い花。そして思わず酔ってしまいそうな美しい芳香。どこにでもある花ではないのに、どこかで見たことがあるような気がした。おそらく、気のせいだろう。こんな花を見て忘れるわけがない。
「貴女、知ってる? 月下美人。一晩しか咲かない儚き花なのよ。それが今日だなんて本当に素敵」
「すごい! 初めて見ました。綺麗ですね」
「香りも最高ね。四年かけてやっと咲いてくれたの」
これでもかというくらい、花を写真に収めてようやく落ち着いたようだった。
「ごめんなさいね。じゃ、どうぞあがって」
「いえ、珍しい瞬間に立ち会わせてもらえてよかったです。お邪魔します」
彼女が用意してくれたスリッパを履く。たったこれだけのことが、奇跡の花と同じくらい胸に響いた。
「そこにかけてね。コーヒーでいいかしら?」
「ありがとうございます。すみません、手土産もないのにおもてなししていただいて」
「いいのよ、そんなの用意できる余裕があるなら呼んでないわ」
勧められた椅子に座って部屋を見渡す。
観葉植物が少しと、大きな本棚に様々なジャンルの本が並んでいる。特にミステリー、心理学、週刊誌、そういった内容が多いようだ。デスクには年季の入った赤いノートパソコン。久しぶりに家に入ったからなのか、なぜかいろんな物に目が向いてしまう。
どうだろう、見たことのある景色をなぞるような、奇妙な感覚だ。
「お待たせ」
彼女は私の前に座ってカップをこちらに向けた。
「じゃあ、かんぱーい!」
「かんぱーい……?」
私も頂いたカップを合わせてみる。記憶がなくともこれだけは言える。人生で一番意味不明な乾杯だった。久しぶりに飲んだ温かい苦味。それでも、私の指先は冷え切ったままだ。
広がっているはずの温度が体をすり抜けていく。
「通りすがりの見知らぬ女に何も話せないだろうから、簡単に自己紹介するわね。私は伊吹真白。雑誌記者をやっているわ。貴女は?」
「私も私が誰なのかわからないんです。たぶん、幽霊です」
「幽霊を信じるかは一旦置いておくとして……どうしてあんなところにいたの?」
「それは──」
私は全て彼女へ話した。この四年、自分の身に起きていること、感じたことを。
「なるほど。少し安心したよ。本気で死にたいわけじゃなかったのね」
「まぁ……そうですね。こうして伊吹さんと話ができている。だから死ぬ理由はなくなりましたね」
「私には普通の女の子にしか見えないんだから変よね。周りが貴女を認識できないっていうのが、やっぱり信じられない」
「おそらく、伊吹さんが特殊なんじゃないでしょうか」
「そんなことないわよ。ちょっと変わってるって言われることはあるけれども……」
語尾がモゴモゴ小さくなっていく。決してそういう意味で言ったわけではない。
「霊感がある、とか何か特殊能力があるのかもしれません」
「今までお化けなんて見たことないし、大体、オカルトの類なんて全部デタラメだと思ってるんだけどね」
「それに関しては同感です。ほとんどが精神症状や薬の作用、自然現象の起こすイタズラ、そういったものが真相ですよね。でも、自分が幽霊になったから信じるしかなくなりました」
「あはは、そういうことね。どうしても幽霊というのが引っかかるけれど、それはこれから確かめさせてもらいましょうか」
腕を組み直して、伊吹さんは静かに続けた。
「私も貴女の正体を探すから、貴女は自分が見つかるまでここに住むといい」
「いいんですか? でも私、稼ぎないから家賃とか払えません……」
「あっははは、幽霊なんでしょ? 水道光熱費家賃なんてゼロじゃない。いらないわよ」
「確かにそうですけど、タダというのは気が引けます」
「それなら、私の仕事を手伝ってもらおうかしら。貴女の考え方、気に入ったから」
「もちろんです。触れられる範囲にはなりますが頑張ります」
私はこんなに素直だったのかと驚くほどに言葉が続いていく。光が差したのに、一点だけいまだに孤独の靄が覆っていることに気づいた。
「厚かましいかもしれないんですけど、一つお願いを聞いてもらえませんか」
「いいよ、何?」
普通に生きていたならまず言わない台詞。大きく深呼吸するつもりで告げた。
「──名前をください」
「名前、か……それは責任重大ね。本当に私に頼んでいいの?」
「他に頼める人も、頼みたい人もいませんから」
風が吹くような小さな沈黙が流れる。伊吹さんは唇を結んで私の顔をじっと見ては、額に手を添えたり、本棚を見渡したり、頭を抱えてみたりを繰り返している。そしてもう一度、私と目を合わせてゆっくりと、はっきりと結んだ。
「幽霊の幽に美しいって書いて幽美」
私は涙を流して頷いた。その雫はテーブルを濡らすことなく消えていく。
「……呼んでもらってもいいですか」
「よろしく、幽美」
私はようやく地に足がついたような気がした。それが錯覚でもいい。私の居場所はここだと、初めて思えたから。
3
幽霊とは、死んだ者が成仏できずに姿を現したもの。霊魂。
こんな当たり前のことを検索せずにはいられなかった。もちろん望んだ答えなど出るわけもないのに。この目で見たことが真実、を信条として生きてきた私。それがこんな矛盾を生むとは思ってもみなかった。
隣で寝ている女性。間違いなく家に呼んだのは私だ。昨日は編集部の飲み会の帰りだったけれど、そこまで酔ってはいなかった。だからはっきり覚えている。彼女が幽霊を自称し、私がおおよそ認めてしまったことも。普段の私なら警察に預けていただろうに、そうしなかった。
彼女、幽美を信じてみたいと思ってしまったから。
しかし、不思議だ。幽霊といえば大抵は宙をふわふわ漂っているイメージなのに、幽美はあまりにも人間らしい。昨日はしっかりコーヒーを飲んでいたし、普通に室内を歩いていた。
混乱と恐怖、常識と疑念、そんなものよりも好奇心が勝ったのかもしれない。もっと知りたい、けれども起こすのは可哀想。葛藤していると幽美の方から目を開けてくれた。
「おはようございます。伊吹さん、いる……夢じゃなかったんですね」
「存在感には、自信あるからね」
芝居っぽく髪を靡かせて胸を張って見せると、緊張が砕けたようだった。
「ふふ、朝から元気ですね」
「そりゃそうよ、一日の始まりなんだから気合いれていかなきゃね。トーストとコーヒー用意するから、顔洗っておいで」
「顔を、洗う……当たり前のことですが家でできるなんて新鮮な気持ちです」
「あっ、そっか。幽霊だとそういうのしなくていいんだっけ?」
「はい。でも、公園の水道で洗顔したり、夜の川をお風呂代わりにしたりしてました。なるべく人であろうと思って」
「感心ね。私だったら面倒になってやめちゃいそう」
「私も、何度もやめてしまおうかなって思いましたよ」
「頑張ったのね」
少し微笑んでから、洗面所へ向かう後ろ姿を見送る。あの歩道橋に立っていた姿を思い出す。孤独の中で足掻き続けた結果だったのだ。
幽霊が死ぬのかはわからない。けれども、もし落ちていれば幽美が守っていたものは崩れただろう。重ねてきた彼女の想いを繋ぐことができて本当によかった。
パリッ。いい音を立てて香ばしい味が広がる。二人分の朝食を用意するのは久しぶりで、気分がよかった。
「ねぇ、もう一つ気になることがあるんだけどいい?」
「なんでしょう?」
「トイレも行かなくていいの?」
「ああ、そうですね。腹痛とも無縁です」
「それはいい! 幽霊って結構便利なのね」
「でも、行けるうちが花ですよ」
「ごめんなさい、今のは無神経だったわ」
「いえ、変に気を遣われるよりこっちの方が好きですよ」
「ありがとう。幽美が善良な幽霊でよかった。悪霊だったら今頃祟られているわね」
「この身体なら簡単に完全犯罪ができますね」
「ちょっと! 急に怖いこと言うのやめてよ」
「冗談ですよ。貴女がいなくなって一番困るのは私なんですから、長生きしてもらわないと」
「急におばあちゃん扱いもやめてよ」
「そんなつもりで言ったんじゃないです」
と、笑いながら最後の一口を摘む幽美。昨日のコーヒーから思っていたけれど、彼女が飲食した物がどうなるのかはわからないままだった。本人ですら、異次元にでも繋がっているのではという始末。
ごちそうさまでした、と手を合わせて食器を洗ってくれている。他人の目にはどう映っているのだろう。
ふと、左手の人差し指に違和感を覚えた。爪に何かついている?
うっすらと、ごく僅かだが白くうねる線のようなものがある。擦っても取れない。汚れというわけでもなさそうだ。
「伊吹さん、どうしました?」
「ううん、なんでもない。爪が汚れているかと思ったんだけど気のせいみたい。さて、そろそろ仕事の準備をしないと。今日は幽美も一緒に出勤してね」
「わぁ、ドキドキしますね。一番の問題は私たちがどうコミュニケーションをとるかです。こんな風に会話していたら、伊吹さんの様子がおかしいと思われるので作戦を立てましょう」
「他の人には見えないのよね。それなら私はイヤホンをつけて誰かと通話中の体を装うわ」
「いいですね、私は無限に話しかけられるけれど、伊吹さんが返事できそうにないときは無理しないでください」
「ありがとう。今回の仕事について簡単に話しておくわね」
私は幽美に向けて執筆中の記事の概要を伝えた。
先日、社会福祉法人極楽の杜の元職員を名乗る、新田幸乃という女性から連絡があった。特別養護老人ホームである極楽の杜、施設長の清村政彦に関する介護報酬の不正受給、利用者への虐待、職員へのセクハラの告発だ。私は新田さんの家に赴き、話を伺った。
清村が夜勤の際に利用者へ暴言を吐いている音声データを聞かせてもらった。加えて彼女が身を削ってまとめたのであろう記録を見た。すでに役所にも通報したそうだ。ただ、ここで大きな問題が起きたのだという。
清村は地元の議員と癒着しており、揉み消されたそうだ。彼女は自分が通報者だと発覚するのを恐れて退職し、今に至るとのこと。それでも、不正を許せない一心で、記事にしてほしいという依頼だった。
私は、面会者を装って極楽の杜を調査することにした。新田さんは罪悪感に胸を痛めつつも、山上さんの家族を装えば入りやすいだろうと教えてくれた。
職員数名にこっそり清村について聞いたが、誰一人清村を悪く言う者はいなかった。清村本人もレクリエーションに入り、その場を盛り上げているようだった。パッと見た印象では、人当たりの良いおおらかな中年男性といった様子だ。
しかし、固く口封じされている可能性もあるため、一部の職員に私の連絡先を渡していた。すると、匿名でメールが入った。
清村は利用者を入浴させていないのに水増し請求を行っている。清村が原因で亡くなった利用者は、送信者の母であったが決定的な証拠がなく、訴えられなかった。清村は日常的に職員を脅迫しているため、報復を恐れて誰も何も言えないとのことだった。
私はこれらの内容をまとめ、編集長に提出している。今から出社してチェックをもらうところだ。
「伊吹さん、すごいですね。それにしても本当に酷い話です。でもこれ、結構危ないんじゃないですか?」
「そうなのよ、編集長、かなり厳しいからね。でも、実際の音声データはあるし、攻めた方だと思うんだけど……新田さんやメールの人を守る記事にしないといけないから難しいのよね」
「それもありますけど伊吹さんのことが心配ですよ」
「私は大丈夫よ、慣れてるからね。さぁ、出発よ」
4
「伊吹、来てくれ」
編集長の黒崎勇吾が眉間に皺を寄せて呼んでいる。この流れでいい話だったことは一度もない。私はこれを猛牛の手招きと呼んでいる。
隣に幽美を連れて編集長のデスクへ向かった。社外の人間が堂々と出社しているのに、誰も彼女に目を向けない。
「おはようございます、編集長」
「もらった記事を読んだ。あれはやめておけ。清村の話は俺も聞いたことがあるが、だからこそ言える。お前も、情報提供者も潰されるぞ」
想定の範囲内の回答をしっかりくれる。その対策も織り込み済みである。
「証拠が薄いですよね。もう一段、上のネタが入ったとしたら、許してくれます?」
「また無茶苦茶な真似を企んでいるんだろう。いいかげんよせ。今まで何人の記者が消えたと思ってる。俺たちは警察じゃあねえんだ」
「今まではそうですけど、今回は秘策があるので」
「お前のその挨拶は聞き飽きたぞ。ほら、締切まで日がない。別のネタ、急げよ」
お手本のような返事だけして私は自分のデスクへ戻った。隣の愛すべき後輩から声をかけられる。
「伊吹さんやばいっすね〜聞いてる方がヒヤヒヤしますよ」
「そう? 藤本ちゃんもそろそろ慣れる頃でしょ」
「あたしは無理っす。さっき絞られたからもう帰りたいですもん。あ、でもほら、また胃薬飲んでますよ。流石に可哀想かも」
「私のせいみたいに言わないでよ。はい、貴女用の胃薬あげるから元気出して」
チョコレートを一つ、哀愁漂う彼女のデスクに置いて私は荷物をまとめる。
「あざーす! 伊吹さんまじ聖母……ってもう出ちゃうんですか?」
「のんびりしてられないからね。じゃ、またね」
行くよ、幽美と小声で告げてしまった。藤本ちゃんは一瞬不思議そうにしていたけれど、すぐにチョコレートを頬張っていたので問題ないだろう。
幽美と共に愛車へ乗り込むと私はため息をついた。ここなら安心して話しかけられる。
「せっかくイヤホンしたのにどうして何も話しかけてくれなかったの?」
「そ、それが……緊張しちゃって。見られていないのはわかっているのに、なんというか……人見知り、的な?」
「幽霊の人見知りってなんなの」
「意味がわからない、ですよね。ああ、でも元々知らない人と話すのは苦手なんだと思います」
「そんな風には見えなかったけどね」
「それは伊吹さんが特殊だから、ですよ」
「あー、また変人扱いした!」
「だからそういう意味じゃないですって」
「わかった。少しずつでいいから、外でも話しかけてくれると嬉しい」
「そうですよね、せっかく一緒にいるんだから黙ったままは寂しいですね」
「でしょ。それじゃあ敵の本陣に乗り込むよ」
エンジンを始動させると、いつもより元気のいい音を立ててくれているようだった。極楽の杜までは下道で三十分程度。ここで作戦を煮詰めておきたい。
「幽美、貴女に頼みたいのは、六階の事務所にあると思われる裏帳簿の回収と、防犯カメラの映像データの抜き出し。これにデータを移してほしいの」
ポケットに用意していたSDカードと施設内の見取り図を幽美に渡す。
「ええっ、絶対にミスは許されない隠密任務じゃないですか……!」
「大丈夫、幽美なら見つからずにできるでしょ」
「そうですけど、例えばこれ。今は私の手の中にありますが、周囲から見ればSDカードが空中浮遊しているように見えます。裏帳簿だって空間をお散歩するわけだから洒落になりませんよ」
「そうなると思って、どこまでごまかせるかわからないけれど、秘密兵器を作っておいたわ」
ちょうどよく信号待ちになったので、鞄から鏡張りの箱を取り出した。六枚の鏡を貼り合わせて周囲の景色を反射させるのだ。この中に証拠たちを入れれば安全だろう。
「これはすごい……よく見ると違和感はありますが、騒がれるほどではありませんね」
「突貫工事だから完璧じゃあないにしても、いい出来でしょ」
「伊吹さんの発想力と行動力には驚かされてばかりですよ」
「自分でもびっくりよ。一応時間を決めておきましょ。どう転んでも一時間以内には車集合ね。でも、無理はしないで。やばいと思ったらすぐに出ていいから。私は清村を適当に引きつけておくわ」
「わかりました。一番無茶しそうな伊吹さんの方が心配です」
「大丈夫。私、こう見えても強いんだから」
まだ心配そうな幽美を横目に、大通りを右折する。木々の生い茂る坂を登ると、すぐに施設の駐車場へ到着した。
そうだ、潜入する前に新田さんへ連絡しておこう。彼女も調査のことが気になっているはず。
『プー、プー……』
通話中、もしくは電波障害だろうか。そのまま繋がることなく切れてしまった。仕方がない、メッセージだけ残して施設内へ向かうことにする。
……やはり左手の人差し指が妙だ。朝の白いうねりが増えて球状になっている。病気でなければいいのだけど。今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
「一人じゃないですからね」
「ありがとう。そうね、今日は最強の助っ人がいる」
いよいよ、極楽の杜の門をくぐる。幽美と共にエレベーターへ。今回は清村に偽取材をかける。アポ無し故に断られる可能性は高いが、それでも事務所から遠ざけられれば十分だ。
六階に到着して事務所を訪ねると、狙った通り休憩時間だった。事務員は受付に一人のみ。清村は三階の喫煙所にいるという。幽美はその横を抜けて、施設長室のドアの奥へ消えていく。
あとは、清村が休憩室から出てくるまで待って時間を稼げばいい。
私は再びエレベーターに乗って三階へ降りる。
……おかしい。いつまで経ってもエレベーターが動かない。
操作盤は触れる上に、現在地は6Fと表示されているため、停電でもなさそうだ。何度も三階を押すが動く気配はない。非常ボタンに手をかけたとき、ガチャンと足元から大きな音が響く。
そして、私を乗せた箱は上昇を始めた。この建物は六階建てのはずだ。一体どうなっている……?
箱全体が大きく揺れて、金属が擦れ合う轟音を立てながらエレベーターは停止する。
階数表示には4Fの文字が浮かび、扉がゆっくりと開いた。
──視界に広がる暗闇。私は目を疑った。午後十二時過ぎとは思えない、深夜のフロア。腕時計に目をやると針がグルグル凄まじい速さで逆回転していた。
「どういうことなの、何よこれ……!」
自分を見失わないように落ち着いて状況を分析しなければ。
しかし、そんな私の努力を砕くありえない光景が飛び込んでくる。
利用者を乗せた車椅子を押す職員、その顔を見て私は凍りつく。
「う、うそ、新田さん……どうしてっ」
「あら、これ下行きですか。じゃあやめておきますね」
どう見ても新田さんなのに、会話にならなかった。彼女はそのまま車椅子を反対に押して遠ざかっていく。エレベーターの扉は閉まり、再び動き出した。
そして、次に開いたときには、五階に着いていた。今度は明るい普通のフロアだった。ただ一つ、人一人いないことを除いては。
まずい。非常にまずい。私はこの妙な箱の中に閉じ込められている。まともな方法では出られない。何も考えられないまま、エレベーターは無慈悲に動き出す。次は、あの四階へ。
「あら、これ下行きですか。じゃあやめておきますね」
新田さんが先ほどと同じように現れては去っていく。
再び五階へ。そしてまた四階。
「あら、これ下行きですか。じゃあやめておきますね」
頭がおかしくなりそうだ。理不尽で理解不能、エレベーターの故障だとか、そんな物理的な話ではない。どんな苦境でも、機転と気合いで乗り切ってきた私が完全に封じ込められている。幽美のフォローをしたいのに手も足も出ないなんて……
私にとどめでも刺すかのように左手の人差し指が光った。
「伊吹さん!」
ついに幻聴まで聞こえ始めたのだろうか。おかしいのはこの空間ではなく私なのかもしれない。そう思うと、涙がこぼれ出した。ぽたぽたと、情けなくも床を湿らせていく。
「伊吹さん! 伊吹さん、聞こえていたら返事をしてください!」
「かすみ、なの……?」
「そうです、私です。よかった、届いてますね」
「あのね、いま、たいへんなの、エレベーターがっ!」
「ゆっくりでいいので、何が起きているのかを話してください」
「真っ暗な四階と明るい五階を繰り返していて……四階には新田さんみたいな人が同じことを何度も言っていて、とにかくやばいの」
「わかりました。次、四階に止まったら、上に行きますと声をかけて、六階を選んでもらえれば助かるはずです」
「たったそれだけ? 本当にそれでどうにかなるの?」
「大丈夫、貴女は一人じゃありませんから」
輝いている爪から月下美人の花が浮き上がる。何度も行き来しているエレベーターが四階に止まり、あの二人が現れた。
「あら、これ下行きですか。じゃあやめておきますね」
「ち、違います、上に行きますよ」
私は震える声で彼女たちに声をかけた。すると、
「そう、よかった」
と、言い残して足元から二人とも消えていった。
それから祈るように6のボタンを押し込んだ。
時計の針が戻っていく。ゆっくり回って十二時四十分を指したとき、エレベーターは開いた。
そこには……左手に鏡の箱を抱えた幽美が、息を切らしながら祈るような姿で立っていた。
「伊吹さぁぁぁぁん!」
「幽美!」
飛び込んできた幽美を受け止める。言葉が溢れそうなところを彼女に止められた。
「今すぐここを出ましょう。話はそれからです」
そうだった、私が声を発すると疑われるのだ。未だに激しく脈打つ鼓動が、無音のエレベーターに響く。そして、エレベーターは三階で止まった。開いた先には……
──清村がいた。彼は静かに乗り込んでくる。私の目を見て一言。
「山上さんの姪っ子さんでしたな」
以前は山上さんの姪に合わせた格好、今日は記者スタイル、分けていたのに見破られるとは。ここはうまく合わせるしかない。
「ええ。伯父がいつもお世話になっています」
「山上さんのご家族は遠方ばかりですから、こうしてよく顔を見せてくれると嬉しいでしょうなぁ」
豪快に笑う清村の瞳は笑っていないように見えた。
「今回は長くこちらにいられたのでよかったです。それでは、今後ともよろしくお願いしますね」
そろそろ会話を切り上げたいと思っていたところで一階へ到着した。会釈をして清村と別れ、出口を目指す。
スリッパから靴へ履き替えるとき、人差し指の月下美人は既に消えていた……
門を出て、ようやく現実に戻ってこられたのだと実感する。車を出して堰き止めていた言葉が流れ出す。
「とんでもない目に遭ったわ。幽美は大丈夫だったの?」
「私は幽霊ですから、この通り。伊吹さんが無事で本当によかった。目的のお品はしっかりここに」
鏡の箱を丁寧に開いて中身を見せてくれた。
「ありがとう。幽美にはいくら感謝しても足りないわ。仕事も、命も、何もかも恩人ね」
捲し立てるように恐怖体験を語ると、幽美は相槌を打ちながら聞いてくれた。そういえば、一つ気になっていたことがある。
「エレベーターが開いたとき、すごく疲れてなかった?」
「そうなんですよ、伊吹さんに声を届けるのにはパワーが必要みたいで」
「あ〜! そうよね、色々ありすぎて普通に流してたけど、幽美と会話できたの奇跡じゃない!」
「幽霊の神頼み、なんて冗談みたいですけどうまくいきましたね」
そういえば……爪の変化は幽美と出会ってからだ。今はまた白いうねうねに戻っている。
「この爪ね、幽美の声がしたとき、月下美人が咲いてたの」
「ああ、朝から気にしていましたよね。もしかしたら、私たちをつなぐ証なのかも?」
「だったら素敵よね」
奇跡の生還を経て編集部に凱旋する。藤本ちゃんに挨拶して編集長の元へ。幽美も藤本ちゃんに挨拶していたので思わず頬が緩む。
「おう、伊吹。次はいいネタ持ってきたか?」
「ええ、それはもう特大で特上です」
私は裏帳簿を渡してパソコンにSDカードを挿した。
「おい……お前これは……」
清村が利用者へ暴行を加えている映像だ。他にも、職員を罵倒したり、下ネタを連発したり、悪事の様子が鮮明に記録されていた。ケチな彼が、職員の監視のためにカメラだけは高品質なものを設置していたのが仇となった。自分で管理しているものを持ち出されるなんて、想像もしなかっただろう。
「ふっ、俺はお前が怖くなるときがある」
猛牛は静かに笑った。
「行け、伊吹。俺が全責任を持つ」
5
月刊夜明の特集記事は世間を賑わせた。私たちが集めた証拠は警察に提出され、捜査が入り清村は逮捕。極楽の杜は指定取り消しの行政処分を受けた。
ニュースでは次々と暴かれていく清村の悪事の話題で持ちきりだった。今まで黙って耐えていた被害者たちが声を上げたようだ。
匿名メールの相手からは、母と自分の無念を晴らしてくださりありがとうございました、とお礼をいただいた。あれから何度も新田さんへ連絡を入れているが彼女からの返事はないまま。
「新田さん、どうしちゃったのかしら」
「そうですね……」
「あら、何か浮かない顔ね」
「いや、それが……」
幽美がテレビのチャンネルを変えると、朝のニュースが映し出された。
『鷺城山で六日に発見された遺体は三年前に行方不明となっていた新田幸乃さんと判明しました。警察は自殺と他殺、両方を視野に捜査を進めています』
頭を鈍器で殴られたような衝撃に私はくずおれた。あの恐怖体験から、夢と現実の境界がわからなくなりそうだった。
「新田さんが、亡くなっていた……? 嘘でしょ。どうして新田さんが……私が取材したあの女性は誰だったの」
「伊吹さん、どうしても言えなかったことがあるんですけど聞いてもらえますか」
「うん。幽美は、知っていたのね」
事件が終わったというのに、時折り暗い表情を見せる幽美に違和感を覚えてはいた。ただ、彼女に関してはこちらから踏み込んではいけない領域もあるように思えて、私は触れずにいた。
「実は、私も極楽の杜で新田さんに会っていました」
幽美はぽつぽつと、あの日の真相を語り始めた。
「清村の執務室に入ったものの、証拠を探すのに苦戦していたんです。すると背後から声をかけられて……そこには車椅子を押す職員の姿がありました。バレたと思って焦る私に、彼女は新田と名乗ったんです。びっくりしたけれど安心しました。連れている利用者さんも清村の被害者だと聞いて、私は察しました」
おそらく匿名メール送信者の母親だろう。二人とも霊体として幽美の前に現れたのか。
「新田さんが証拠の場所を教えてくれたおかげで、スムーズに回収できたんです。新田さんの悲痛な思いを受け止め、真実を白日の下に晒すと約束しました。そしてエレベーターに乗ろうとしたところ、あなたの相棒が危ない、と告げられたんです」
「私が大変なことになっているのを新田さんは知っていたのね」
「はい。新田さん曰く、自分がこの世と干渉する際に起きたエラーに巻き込まれたのではないか、とのことでした。それから、私たちは上に行きたい、とだけ言い残して消えていったんです。その言葉の意味を必死で考えました。伊吹さんを助けなきゃって祈り続けていたら、声が届いたんです」
「そういうことだったのね……どうして今まで黙っていたの」
「新田さんが亡くなっていると知ったら、伊吹さんが悲しむから。そうでなくとも怖い思いをしたのに、これ以上傷つくところを見たくなかったんです」
「ありがとう。でもね、この事実を一人で抱え込むのも辛かったでしょ?」
目に涙を浮かべて否定も肯定もしない幽美へ続ける。
「そういうのは一緒に背負いましょ。私たち、相棒なんだから」
幽美は涙を拭って頷く。雲が晴れたように笑いかけてくれた。
「伊吹さん、新田さんのお家に行きませんか?」
「私も同じことを考えていたわ。決まりね」
6
昔ながらの日本家屋が立ち並ぶ住宅街、その角に新田さんの家はあった。車から降りると雨が止み、雲間から光の筋が伸びている。ちょうど彼女の家があった場所を照らすように。
更地になっているのが信じられなくて、犬の散歩をしている男性に新田さんのことを尋ねた。
「あぁ、新田さんね。この子を可愛がってくれる優しい人だったよ。家は……いつだったかな、気づいたときには、なくなっていたね」
男性にお礼を告げて、私たちは新田家跡地の前へ。
玄関があった場所に竜胆の花と線香を供えた。
穏やかさの裏に、強い信念を滲ませた表情が蘇る。彼女の魂は確かに生きていたのだ。
幽美と共に手を合わせて彼女を偲ぶ。
──貴女の正義は果たされました。
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