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第3話 / 全3話
1
焼け落ちてしまった暗い過去を微塵も感じさせない、活気に満ちたアーケード商店街。その一区画に、デフォルメされた可愛らしい白熊の看板が立てられている。本日の決戦の地、しろくまやである。
藤本さんの退院祝いの席で私を紹介すると言って伊吹さんは張り切っている。藤本さんも大事な話があると聞かされているのでソワソワしている。私はというとこれ以上ない緊張で既に帰りたくなっていた。
彼女に限ってないとは思うが、気味悪がられたら、伊吹さんが私のせいで変な風に思われたら、と悪い想像ばかりが駆け巡る。
「いらっしゃい、伊吹さんに沙樹ちゃん。いつもありがとね」
白熊という言葉がぴったり当てはまる気さくな店主が出迎えてくれた。スキンヘッドがよく似合う大柄な男性。強面だが柔和な笑顔のおかげで安心感を与えてくれる。
個室に案内されるとしっかり三人分のセットが用意されていた。腹を括るしかないと思った。
「誰か来るんです?」
藤本さんが当たり前の疑問を口にする。私に逃げ場はない。
「もう来てるわよ」
「なんですかその冗談」
「本気よ。あのね、私──幽霊と過ごしているの」
伊吹さんの辞書にクッションやオブラートという言葉は存在しないようだ。藤本さんに同情したくなる。
「え、ガチで……?」
「うん。とはいってもこれだけじゃ信じられないでしょ。一旦飲み物頼んでから説明するわ」
「頭ついていけてないですもんね。あたしは二階堂のウーロン茶割りにします」
「私は赤ワイン」
メニュー表が私の前にそっと差し出される。
「ええ、どうしよう、梅酒のソーダ割りでお願いします」
注文を取りに来た若い店員は、お連れ様の分ももう頼んでいいんですかと困惑しているが、伊吹さんはそのまま通した。
全員分のお酒が運ばれて伊吹さんが一言。
「じゃ、藤本ちゃん。退院おめでとう。カンパーイ!」
「あざーす!」
「おめでとうございます」
それぞれのグラスがカランと音を立ててぶつかる。そして、藤本さんは大声を上げた。
「ええええええ!」
それもそうだ。彼女の目には宙に浮いたグラスと消えていく酒が映っているはず。
「なにこれ、すっごい。マジックですか!」
「言ったでしょ。幽霊って。なぜか私にだけ姿が見えて、声も聞こえるの」
「あぁ、そっか。幽霊、ガチだったんですね……って、まじやばいっす実在したんですかやっば激アツすぎる!」
藤本さんはいろんな角度から私を覗き込んでいる。
「うわ、どうなってんだろ。幽霊って触れるんですか?」
「お互いに触れることはできるわよ。ただ、彼女、人見知りだから改めて紹介してからにしましょう」
なんだろう、この何とも言えない気持ち。今までは自分の声が届かないものとして藤本さんを見守っていたから、存在を認識されるのだと思うと急に怖くなる。
「幽霊の彼女は幽美。自分に関する記憶を失っていてね。名前もわからないっていうから私が名付けさせてもらったの。幽美は……もうわかってると思うけど、こちらが藤本沙樹ちゃんね」
「そ、そうですね、よく存じております」
「幽美さん、よろしくっす!」
遂に藤本さんが手を差し出してきた。私はおそるおそるその手を握り返す。
「ふおおおお! 幽美さん、確かにいますね!」
姿の見えない私を彼女は認識し、受け入れてくれた。この四年間の苦悩がまた一つ、報われた瞬間だった。
「伊吹さん、紙とペンを貸してもらえませんか。私も自分の言葉で藤本さんと話したいです」
「いいわね、どうぞ」
伊吹さんに礼を伝えて藤本さんに向けてペンを走らせる。その様子を彼女は不思議そうにじっと見つめていた。
『藤本さん、いつも会社で楽しく働いている姿を見守っていました。明るくて元気をもらえています。特に伊吹さんのアニサキス案件は本当に面白く』
「わっはははは、幽美さんあのときいたんですね。あれマジ最高傑作でしたよね。思い出し笑いで死にそう」
「ちょっと何書いてんのよ!」
『すみません。この話はどうしてもしたくて』
「そのペン返してもらおうかしら」
『それは困ります、ごめんなさい』
「幽美さんめっちゃおもろいっすね。あー、やっとわかりました。余り物じゃんけんの理由。これからは二個ずつ渡しますね」
『ありがとうございます。藤本さん、優しい』
「友達の証っす。てかせっかくなんで名前で呼んでくださいよ」
『なんだか、気恥ずかしいですね……』
対人能力が高すぎてありがたい反面ついていくのに必死だ。彼女の名を書く手が一瞬止まる。ペンを握り直してしっかり書き込んだ。
『沙樹ちゃん』
「顔真っ赤にして頑張って書いてくれてるわよ」
『余計なこと言わないでください』
沙樹ちゃん、はニコニコしていた。聞きたいことが山ほどありそうな顔に見える。
「伊吹さんには、幽美さんがどんな風に見えてるんですか。たとえば歳はいくつくらいとか」
「私が見る限り、二十代半ばくらいかしら。藤本ちゃんより、少し上くらいに思ってるわ。髪は短くて子犬みたいな可愛い感じ」
「お、イメージ全然違いました。逆にロングヘアーの綺麗なお姉さんかと」
子犬……九曜の言葉を思い出してしまい、ペンを握る手が強張る。あれ以来、私の中の黒い牙に怯えていた。
「お待たせいたしました」
ちょうど料理が運ばれてきて助かった。今は楽しむとき。沙樹ちゃんの退院祝いなのだから。
「いただきます」
久しぶりの居酒屋。大好きだったハツの串焼きをいただく。独特な柔らかい食感に、音を立てて広がる肉汁、程よく効いた塩味のバランスがとても良い。
断片的な記憶は残っているのにどうして肝心なところが抜け落ちているのだろう。今日のように新しく思い出せることが増えているのはいいことだが……
「やっぱうまいっすね。しろくまやの焼き鳥は最高。ところで、幽美さんって伊吹さんの家に住んでるんですか?」
『はい。伊吹さんに会うまでは路上生活だったので本当に助かっています』
「私も助かってるわ。仕事と家事を手伝ってくれるからね」
「おぉ、めっちゃ楽しそうですね。なるほど……」
沙樹ちゃんは私と伊吹さんを見比べてうんうんと頷いた。
「伊吹さんはもともとパワフルですけど、さらにパワーアップしたなって思ってたんですよ。幽美さんのおかげっすね」
「そうね、貴女にはいつも感謝してる」
『私も、です。相棒と言ってもらえて嬉しかった』
「幽美さんいいなぁ、伊吹さんを独り占めしないでくださいよぉ」
『そ、そんなことしませんよ』
「二人とも何言ってるの。ほら、私の串分けてあげるから仲良く食べなさい」
沙樹ちゃんの言葉には裏も深い意味もない。
しかし、同じセリフを私が吐けば全く異なる意味を成す。彼女の光はあまりにも眩しすぎた。
2
物静かな、本に囲まれた空間。そこにあるのはページを捲る音だけ。私たちは宗教、歴史、社会科学のエリアで調査をしている。伊吹さんが休日を利用して、私のために図書館に行こうと提案してくれたのだ。
たまたま他の客がいなかったので、私も自由に本を開いていた。何時間が経っただろうか。
私も、伊吹さんも、時間を忘れて調べ込んでいた。私との関係はなさそうだが、純粋に興味を惹かれる怪談は多くみられた。
「そっちは進んでる?」
「有力な情報はありませんね。伊吹さんの方は?」
「私も。ごめん、途中から関係ない本も見ちゃった」
「それは私も同罪です」
「ふふっ、よかった。でもね、その中に見過ごせないものがあったの。これを見て」
七年前に刊行されたオカルト雑誌が特集しているスクープ記事だ。
『カルト教団、連理の枝の秘密に迫る!』
教団の理念は、魂の統合。全ての魂は一つの枝に。平等と助け合いの精神で様々な事業を展開している。教祖の山吹鞠子は自らの子どもを幼くして亡くし、難病児を支える会を発足。徐々に医療分野全般に活動を広げ、特に臓器移植をメインに据えた。
この辺りで、上の存在から神託を受けたとされ、オカルト方面に傾きはじめた。そこから魂の移植、生命エネルギーの移植研究に向かうようになる。
徐々に医療以外の分野でも興味を持つ有力者が増え、勢力を拡大。身寄りのない被験者を集めて人体実験を行っているとの噂が回る。皮肉にもその手は子どもにまで向けられたという。
「これが事実ならかなりの大問題じゃないですか」
「そう。実際に教祖の山吹と幹部は逮捕されて、教団は解散している。もっと早くに思い出すべきだったわね」
「この教団が私に関係しているかもしれないと?」
「あくまで可能性の一つとして見てほしいんだけど、さらに奇怪な記述を見つけたの」
伊吹さんはもう一冊開いた。先ほどの記事から三ヶ月後に出された雑誌だ。
『連理の枝の恐るべき実態』
教団の地下施設で密かに行われていたとされる、魂の移植実験。逮捕される直前、研究者の一人が不可解な発言を繰り返していたというのだ。
『実験のあとから私が私ではなくなっている。鏡に映る顔が誰だかわからない。手足が勝手に動いてしまう。自分の意志がどんどん薄くなる。記憶のない記憶が増えていく。これは、天罰なのだ』
当時の主治医は解離性同一性障害と診断したが、我々の取材に応じた際、このように振り返っている。
彼女は自分の活動を罪だと自覚した上で、怪奇現象に苦しんでいた。当時の私はそれを精神症状によるものだと考えていた。
しかし、教団の悪事が明らかになった今、あの診断が正しかったとは断言できない。彼女は加害者であり、被害者でもあったのではないか。もっと彼女の声に耳を傾けるべきだった。
自分を段々と見失う研究者に私を重ねてしまう。この身体も罪の代償だったとしたら……
「この記事、与太話じゃ済まないかもしれませんね」
「そうね。貴女が幽霊となったのは四年前、連理の枝はそのかなり前に潰れているから、万が一関係があるとしたら残党の方かもしれない。そっちはあんまり情報がないんだけど、残った幹部は企業に散って今でも暗躍しているって噂もある」
私はこのカルト教団に自分の鍵がある、そんな嫌な予感がした。あれだけ求めていたのに、真実に近づくのが恐ろしくなる。
「……怖い、よね」
「えっ」
「それが普通よ。だって、自分が何者かわからなくて、やっと手掛かりがあったかと思えば危険な集団と実験だなんて。私が幽美の立場なら怖い。もちろん、全く関係ないかもしれないけれど、それも調べてみないとわからない」
「もし、ですよ。私が悪魔の一人だったとしたら伊吹さんは」
伊吹さんの胸が、私の暗い声を塞いだ。
「大丈夫。私は何があっても〝幽美〟の隣にいるから。それに、いつか貴女が道を踏みしそうになったなら、意地でも引っ張り上げて離さない」
「伊吹さん……」
ためらいながらも、温かい背中に手を回す。
「だから安心しなさい。貴女は一人じゃない、でしょ?」
「はい……」
どこまでも鋭くて、優しい。私に纏う影すらも伊吹さんの瞳は包んでいる。私は恐れを抱きつつも、真実に向き合いたいと思った。
「残党の噂ならインターネットの方が見つかるかもしれません」
「それもそうね。調べてみましょう」
連理の枝 後継組織で検索すると比翼の鳥という団体がヒットした。しかし、この団体が本当に連理の枝と繋がりがあるのか明確な根拠はない。双頭の鳥が描かれたロゴマークが出てくる程度で、具体的な活動内容などの詳細は見つからなかった。
──突然の激しい頭痛。視線が勝手に落ちていく。どうしたの、大丈夫、という伊吹さんの声が段々小さくなっていく……
「幽美!」
私を呼ぶ声が聞こえる。意識を失っていた……?
視界に光が戻るとしゃがみ込んだ伊吹さんが見えた。
「よかった、気がついたのね」
「すみません、急に頭が痛くなって……」
「病院に連れて行きたいけれど、それもできないから心配よ」
「こんなことは初めてです。でも、今はもう落ち着きました」
「今日は一旦帰りましょう、休んだ方がいいわ」
「……九曜さんのところに行きませんか」
「えっ、あの化け狐に会うの?」
「今の彼女なら、比翼の鳥について何か知っているかもしれません。それに、そろそろ監視した方がいいでしょう」
「そうだけど、あいつに会うと疲れるでしょ」
「私はもう大丈夫。今は少しでも知りたいんです」
「わかった。一応それっぽい店は見つけてあるから会えるはずよ」
九曜とまともな会話ができるとは思えないが、彼女しか知り得ないことがあるはずだ。
そしてあの頭痛。この身体にタイムリミットがあるのか、それとも比翼の鳥に記憶の欠片を見たのか、何らかの原因が隠れている。幽霊になってから身体を壊したことは一度もないのだから。
3
煌びやかな繁華街。着飾った人、酔っ払った人、喧嘩をする人、多種多様な人間がひしめき合うこの領域は苦手だった。そんな夜の街で、立派な花輪が飾られた一際目立つ店がある。
九曜の新店舗、玉藻だ。今回はシンプルなネーミングにしたらしい。
店内に入ると、男性スタッフから会員証を求められてしまった。
「ママの知り合いなんですけど」
「それならば会員証をお持ちかと……」
スタッフが困惑するのも無理はない。私たちは明らかに不審な客だ。お互いに引かず困惑のラリーを続けていると、後ろから艶やかな声が抜けてきた。
「下がって良いですわ。そちらは私の大切なお客様。会員証なんて不要の特別なお方ですもの」
「さようでございましたか。申し訳ございません」
スタッフは深々と頭を下げ、仕事に戻っていく。そして、美しい着物に身を包む九曜が現れた。
「愛しい黒狼さんと白豹さん。開店祝いにいらっしゃったのですね」
「あんたって本当にポジティブね。監視って言ってるでしょ」
「まあ! 照れ隠しも可愛らしい。さあどうぞ、ご案内いたしますわ」
白を基調としているところは変わらないが、サロンとは真逆の豪華絢爛な店内だ。ソファに腰掛けるだけでも身体が縮んでしまいそうになる。
「店は順調?」
「ええ、おかげさまで。極上のエンターテイメントを満喫させていただいておりますわ」
「それはよかった。いかがわしいこともしてなさそうで安心したわ。今のところはね」
「ふふふ、プロジェクターの代わりにワインボトルを投げてくれそうな方がいらっしゃるので」
「幽美、根に持たれてるわよ」
「だってあれは、九曜さんが嫌なことを言うから」
九曜はテーブルを挟んで正面に座っていたのに、嬉々とした顔で私の隣へ来てしまった。
「嫌なこと、ねぇ。本当に可愛い。どうすれば秘めた牙を剥き出しにしてくださるのでしょう」
黄金の瞳の奥が怪しく光る。やはり見られている。白磁のような細い指が私の顎にかけられた。
「次は、あなたを愉しませられるお誘いをいたしましょうね」
一つひとつの所作が私を支配するために迫ってくる。九曜のペースに呑まれないように細い手を掴んだ。
「私は聞きたいことがあって来たんです」
「あら、なんなりとおっしゃってくださいな。ただし、楽しい嘘を混ぜるやもしれません。狐は悪戯が好きですから……ふふふ」
「あなたは警戒対象です。それでも、今は情報が欲しい」
「あぁ、良い目になりましたわね。黒狼さんがそこまでして求めるもの、私も興味がありますわ」
「比翼の鳥という団体を知りませんか」
伊吹さんに頼んで、双頭の鳥のロゴマークを九曜へ見せてもらう。
「残念ながら心当たりはございません。けれども、リサーチはできますわよ」
「お客さんに探りを入れてくれるのね」
「お安いご用ですわ。とはいえ、多少の対価は頂きたいものですわね」
善意で動いてくれる相手ではないのはわかっていた。そして、その対価もお金のような人間らしいものではないはず。
「あなたの望みは何ですか?」
「ふふ、そうですわね。白豹さんに、親しみを込めて私を杏香と呼んで頂きましょうか。そして、その手でワインを注いでくださらない?」
「えっ」
一見すれば大したことのない要求だが、九曜は確実に私の喉元へ爪を食い込ませていた。悪趣味にも程がある。
「……いいわよ。その代わりしっかり働いてもらうからね」
「ああ、楽しくなりますわ。それではワインをお持ちいたしますわね」
満面の笑みで席を立つ九曜。私は伊吹さんの顔を見られないでいた。
「すみません、私のせいでこんな屈辱……」
「気は進まないのは確かだけど、これで情報が手に入るなら私は構わない。時にはプライドなんて捨てなきゃね」
と、優しく微笑みかけてくれる。伊吹さんはそういう人だ。ここで牙を剥いては九曜の思う壺だとわかっているのに苛立ちを抑えられずにいた。
「お待たせいたしました。本来ならいらっしゃってすぐにお持ちすべきでしたわね。お話が楽しいものだからつい夢中になってしまいました。お許しくださいませ」
お盆からボトルとグラスを三個、慣れた手つきで配っていく。
「どうぞ、杏香」
伊吹さんはボトルを開けて九曜のグラスにワインを注いだ。慈愛に満ちた笑みを添えて。
「ありがとうございます。今日のワインは至高の一杯となりますわ」
ご機嫌な九曜とは真逆に私は強張った顔をごまかせずにいた。伊吹さんから促されてグラスを寄せると、黒々とした液体が注がれる。九曜のものと同じはずなのに、より深く澱んで見えた。
「白豹さんは私がお注ぎいたしますわ」
「ありがとう」
そして、三人で杯を交わしてしまった。上等なワインのはずだったが、私には酷い渋みしか感じられない。
「電話番号を交換いたしましょう。情報が入り次第お二人をお招きいたしますので」
「じゃあこの番号に連絡して。杏香の番号も登録しておくわね」
伊吹さんはさらっと杏香と呼んで名刺を渡す。
私はワインを飲み干すことに集中した。
お酒も話も済んだところで伊吹さんが席を立つ。
「私たちはそろそろこの辺で。ありがとう、杏香。よろしく頼んだわよ」
「こちらこそ、楽しいひとときをありがとうございました」
深々と頭を下げる九曜を睨んだ。踵を返して伊吹さんについていこうとしたそのとき、すっと九曜の唇が耳元に寄せられる。
「ごめんあそばせ。そんなに羨ましいのなら、あなたも真白さんと呼べばよろしいのに。不器用で可哀想な黒狼さん?」
掻き乱された思考をまとめられずに、震える手を握り締めたまま睨み返すことしかできなかった。
4
「おはようございまーす!」
溌剌とした大きな声が伊吹さんへ向けられる。
その右隣、何もない空間へも小声でおはようございますと謎の挨拶がされていた。伊吹さんは苦笑いで左に立つ私を指差す。
「ありゃ、なんとなくこっちな気がしたんですけどね」
私は他の社員の死角になるように隠れながら伊吹さんのペンを走らせた。
『沙樹ちゃんは霊感ゼロ、幸せ者です』
「あはっ、おっしゃる通りっす」
「どうみても無さそうよね」
始業前の編集室に控えめな笑い声が響く。二人とも変に思われないように気をつけてくれている。
九曜のせいでざわついていた胸が少し和んだ。私の姿は全く見えていないのに、人として接してくれている。厚い雲の向こうで届かない挨拶を繰り返していた私へ、淡い日が差し込んだ。
「ところで、相談したいことがあるんです」
沙樹ちゃんは一層声を潜めて、鞄から小さなジッパー袋を取り出した。その中にはミモザのピアスが入っていた。
「あら、そのピアス……」
伊吹さんも、私も、見慣れていたものだった。沙樹ちゃんの耳元を鮮やかに彩るミモザとそっくりだ。
「あたしがつけてたものです。誕生日がまったく同じの親友がいるんですけど、お揃いでプレゼントしてたんですよ。大学のときからずっとつけてて、向こうも大事にしてくれてました」
「いい話じゃない。宝物なのね」
「あたしにとってはそうですね。でも昨日、その親友、愛梨に会ったらピアスはつけてませんでした。気分を変えたくなったのかなとは思ったんですけどもっと意味わかんないことになってて……」
沙樹ちゃんは眉間に皺を寄せた。その顔は何かに怯えたような、恐ろしいものでも見たような顔だった。
「彼氏の大地と二人で一緒でした。──何もかもが」
「その様子だと一緒に来たことが問題ではなさそうね?」
「はい。大地も大学時代の友達だからよく遊ぶんです。おかしいのは、二人が全く同じ服装、同じ指輪、話し方まで一緒だったこと」
「妙ね。今までの二人はどうだったの?」
「性格は真逆ですよ。愛梨は穏やかな文化系で、大地はバリバリの体育会系です」
共に過ごす人間は顔立ちや雰囲気が似てくるともいうが、そういう次元ではないようだ。
「最近、なんか系統変わったなぁとは思ってましたけど、気にするほどじゃなかったんですよ。昨日は二人の個性が消えて、別人の一人になってるみたいでした」
「いつ頃から違和感があったのか、何か心当たりはない?」
「二カ月前、一周年の記念にってペアリングを作りに行ってました。その辺りから変だったなと思って工房を調べてみたんです。ヴィンテージコインを加工して指輪を作る、最近流行ってる人気のお店でした。それだけで他には何も。でも愛梨が、この指輪があれば何もいらないって言ってたのが引っかかります。絶対アレが関係してると思うんです」
大切な親友の身に起きた異変。友情の証が外されてしまった彼女の心境を思うといたたまれない。それに、魂の融合を感じさせるような不穏がよぎった。
『その直感は大事にした方がいいですね。沙樹ちゃんはよく人を見ているから』
「やっぱり幽美さんもそう思いますよね。伊吹さんは?」
「──藤本ちゃん、私とペアリングを作りましょう」
「えっ」
私はペンを、沙樹ちゃんはジッパー袋を落とした。
5
世界中のヴィンテージコインの中から好きなものを選んで加工する。絵柄で選んだり、自分の生まれ年から選んだり、人それぞれだ。
「伊吹さんとお揃いの指輪なんて激アツすぎますね。怪しい店じゃなかったらよかったなぁ」
「こういう機会でもないと私は触れない世界よ。用心しつつ楽しまなきゃね」
水溜まりを歩いている気分だった。もし、この状況で九曜にあの誘いをかけられていたらと思うと背筋が冷えた。あの狐のことだ、こうなることを予見して種を蒔いているのかもしれない。
「もし、あたしたちが同化させられたら、うーん、今どき女子のキャピキャピ伊吹さんか、イケてるお姉さんのクールなあたしか。うん、無理っすね」
「やだ、笑わせないでよ」
私も吹き出してしまった。想像するとどちらも酷く似合わない。スマホでナビを入れていた沙樹ちゃんが立ち止まる。
「ここですね。コインリング専門店、ジェミニの風」
「じゃ、作戦通りに」
「はい!」
ショーケースには様々な作品が展示されていた。海外の見慣れないコインの絵柄は見ていて飽きないが、私は自分の仕事に向かう。今回も二人が作業中に私が証拠を探すことになっている。
店内は落ち着いたクラシック音楽に包まれていて、工房というより、お洒落なカフェのようだ。少しノイズのある音質が深い味を出している。
「いらっしゃいませ。今日は可愛いお嬢さん二人かい。嬉しいねぇ。はっはっは」
ベレー帽に口髭が特徴的な風貌は、指輪職人よりも画家といった方がしっくりくる。
彼が金城隆二。この工房は一人で開いているらしい。
「伊吹と藤本です。今日はよろしくお願いします」
「工房の金城だよ。よろしく。僕はずっとこんな感じだから、気楽に行こうね。さぁ、この箱から好きなコインを選ぶんだ。国別、年代別に並んでるよ」
金城も妖怪の類である可能性を考慮して観察する。しかし、九曜と対峙したときのような違和感は全くない。普通の人間に思えるが、前回の苦い記憶があるので背後には気を配る必要がある。
幸いなことに工房はそこまで広くはなさそうだ。奥の部屋に進んでも三人の会話が聞こえてくる。
「うわぁ、可愛いのたくさんあって悩みますね」
「私も目移りしちゃって決められないわ。金城さんのオススメはありますか?」
「そうだなぁ、僕の一押しはコレだよ」
「おぉ、ハートめっちゃ可愛いっすね!」
「王冠もお洒落で素敵ね」
「デンマークの硬貨でね。幸せを呼ぶコインとして人気なのさ」
ここまで打ち合わせ通りに進んでいる。悩んでいる振りをして店に相談すれば、細工しているものを勧められるだろう。コインに秘密があるのなら持ち帰って調べることができる。
私は金城の作業部屋を見渡す。在庫だと思われる大量のコインが収納されていた。どこに何のコインが収められているのか、私でも簡単に探せるくらい綺麗に分類されている。無作為に手に取って触れてみるも特におかしなところはない。
他に気になったのは立派な蓄音機だ。アンティークな金色のラッパが存在感を放っている。店内の空間を彩っていたのはこの機械だった。よく見ると電源に接続されていない。その代わりにハンドルがついていることから手巻き式の物だとわかる。一回の巻きで何分再生できるのかは不明だが、長時間は厳しいはず。再生が終わるたびに巻き直しているというのか。客に作業を教える中で何度も席を外す必要があるが……
──曲が止まった。私は思わず振り返った。
「すまないね。音楽をかけ直してくるよ。良い作品づくりには良い環境が大事なんだ。少し待っていておくれ」
金城は二人にそう告げてこちらへ歩いてくる。私は触れないように端へ避けた。彼は私には目もくれず蓄音機を巻き始める。そして針を交換し、レコードを乗せていく。針を下ろすと再び曲が流れ始めた。
満足した顔で金城は二人の元へ戻っていく。この彼のこだわりに何か秘密があるのではないか。蓄音機を隅々まで覗き込む。
「二人とも穴あけはバッチリだね。次の作業は命を吹き込むのに近い。いいかい、君たちの呼吸を合わせてコインに心を打ち付けていくよ。まずはコインを熱してから叩く。これを根気よく繰り返すからね」
「いよいよ形にしていくんですね。なんだか緊張してきたー!」
「藤本ちゃんは手先が器用なんだから心配いらないわ」
「いいねぇ、君たちはお付き合いされて長いのかな?」
蓄音機を調べていた手が止まる。
「お付き合いって……この子は可愛い後輩ですよ」
「あっはは、めっちゃ笑っちゃいました。でも、伊吹さんが男だったらガッツリ惚れてたかも」
「何言ってるの。だったとしても貴女から見たらかなりのおじさんじゃない」
「絶対イケおじですよ」
「いやぁ、これは失礼。それにしてもいいコンビだ。君たちの深い絆はきっと素晴らしい作品を生むだろう。僕は楽しみだよ」
楽しそうな二人の笑い声に意識を奪われていた。雑念は枷になってしまう。耳元から手元へ集中を戻す。蓄音機に妙な仕掛けはなさそうだ。あとは、木の机にある引き出しを開けてみる。
メンテナンスノートと書かれた本が一冊。どうやらこの工房ではこまめに指輪の手入れをしているらしい。
──カンッ、カンッ、金属音が脳に響く。まるで一曲の音楽を奏でるように……
いや、そうじゃない。これは実際に流れている曲だ。コインを打ち付ける音と蓄音機のクラシックが共鳴しているのだ。最初から同じオーケストラで演奏しているとしか思えないほどに揃っている。
その旋律は美しい悪寒がした。
工房の方に目をやると、金城は指揮者のようにリズムをとって二人を導いていた。伊吹さんと沙樹ちゃんの指先から白と赤の細い光が伸びてコインに収束している。伊吹さんの爪から月下美人が咲いたときの光によく似ているが別物だろう。あの白いもやもやはしばらく蕾のままで、今も変わってはなさそうだ。
私の中で一つの答えが見えてくる。
「この音は危険です。何でもいいから耳栓をしてください。沙樹ちゃんにも伝えて!」
伊吹さんは私と目を合わせるとすぐに作業を止め、お腹を押さえた。
「ごめんなさい、お手洗いをお借りしてもいいですか。さっき食べたお刺身が当たっちゃったかもしれなくて」
「ええっ、やばいっすね。あたしも来たらどうしよう」
「実にいいハーモニーを奏でていたから、惜しいけれど仕方ないね。僕はゆっくり待っているよ。気にせず行っておいで」
「本当にすみません」
申し訳なさそうに頭を下げつつ、沙樹ちゃんに目配せしてトイレに向かう伊吹さん。私もそのあとに続いて入った。ここなら多少会話をしても声は漏れないだろう。
「おそらく、あの蓄音機のクラシックと、二人がコインを打ち付ける音を同時に聴くのがまずいんだと思います」
「なるほどね。藤本ちゃんにはメッセージで伝えるわね」
「お願いします。私は蓄音機の音を止めて金城を引きつけるので、その隙に沙樹ちゃんにも耳栓をさせてください」
「わかった。私たちの髪の長さならバレずにいけそうね」
「まだ決定的な証拠はないので、ここは罠にかかった振りをして乗り切りましょう」
伊吹さんはイヤホンを装着してトイレから戻っていく。
私は奥の部屋へ急いで向かい、蓄音機の針を軽く持ち上げた。
「あれ、おかしいなぁ」
金城が狙った通りこちらへ向かってくる。そのタイミングで針を戻した。演奏は少しズレたところから再生される。
「うーん、針が飛んだのかねぇ。年代物の割には頑張ってくれていたんだけどなぁ。どれ、ちょっと顔を見せておくれ」
その台詞に一瞬ドキッとしたが、金城の道具に対する愛情表現だったようで、私に向けてではなかった。
向こう側では沙樹ちゃんが必死でティッシュを丸めて耳に突っ込んでいる。イヤホンのような便利道具はなかったようだ。
金城は思った以上に念入りに蓄音機を確認して、曲を最初から再生させた。
「待たせてすまないね。腹痛のお嬢さんはご無事かな?」
「おかげさまで落ち着きました。ありがとうございます」
「安心したよ。これで仕切り直しだね」
作業が再開され再び共鳴する音が響く。先ほどとは違って二人の指先から不思議な光は見えなくなっている。
引き続きメンテナンスノートを調べると、愛梨さんと大地さんの名前を見つけた。この二人の三回目のメンテナンス日は未定。これは救いがあるかもしれない。もう一度、ノートを見直すと気になる項目があった。
『水野金華、水野銀華』
他の客には何回メンテナンスが行われたか、次の予定はいつかが記入されている。
この二人には、回数の記載がなく、了の字の印が押されているのみ。明らかに異質で、理由のわからない寒気がした。
一通り部屋の気になる箇所は調べ終わったが、金城を追及するにはまだ弱い。あとは会話の中で尻尾を掴めるかどうか。伊吹さんにこちらの調査は終わったことを伝えた。
そして、工房の方に怪しい箇所がないか、金城の動きに気をつけながら見て回る。作業は仕上げまで進んでいた。
「よく見てごらん。どちらも素晴らしい作品になっているはずだ。二人の間にある壁を平らにならして境界を取り払う。そんな願いが込められているんだ。お嬢さん方にぴったりだよ」
「一緒に作業したから思いも込もってますもんね」
「さっきはどうなることかと思ったけれど、綺麗にできてよかったわ」
「そうだったね、僕も正直少し心配だったよ。しかし、君たちは僕の見てきたお客さんの中でも、一際美しい仕上がりを見せてくれたね。嬉しい限りだ」
「ふふ、お上手ですね」
「僕はお世辞が苦手なんだ。思わず恋人なのかと勘違いするほど息ぴったりで、二人とも丁寧だったからね」
「いやぁ照れますねぇ」
金城の言葉は何も知らなければ明るく優しい職人のそれであるが、裏を考えながら聞いていると不気味で仕方ない。
「今日はこれにて完成だけど、うちでは定期的に無料メンテナンスをやっているんだ。大切な指輪を末永く愛用してほしくてね。電話一本入れてくれればいつでも対応するよ」
「ありがとうございます。お客さんを大事にされているんですね。金城さんのお店に来て本当によかったです」
「はっはっは、僕は人が大好きなだけさ」
笑顔を絶やさない金城は、私たちが角を曲がって見えなくなるまで、手を振って見送っていた。
6
テーブルの上には二つのコインリング。沙樹ちゃんを家に呼んで作戦会議をすることになった。
「いきなりお腹壊すの反則ですよ。嘘だってわかったから笑い堪えるのに大変でした」
「自然に席を外すにはアレが一番よ」
「それにあたしは海鮮丼食べたけど、伊吹さんは唐揚げ定食でしたよね」
「藤本ちゃんなら気づいてくれるって思ったの」
「えへへ、そりゃもちろんです」
『沙樹ちゃんのティッシュ詰め詰め作戦もなかなかでしたよね』
緊迫した空気の中、ぐしゃぐしゃに丸める姿を思い出しながら、ペンを走らせる。髪の隙間からはみ出したものを伊吹さんが千切って押し込んでいたのだ。
「あれ、ガチ焦りました。伊吹さんは余裕な顔でイヤホンしてるじゃないですか。どうしようって思ってカバンめっちゃ漁りましたよ」
「幽美がしっかり足止めしてくれていて助かったわ」
『金城はこだわりが強く、神経質な面がありましたからね。蓄音機とコインの音を結ぶ繊細な加工をしているのではないかと思っています。でも、この技術の証拠を見つけるのは難しそうです』
「この指輪も穴が空くほど見てますけど、おかしなところはないですね」
「なんとかして罠に掛けられないかしら。金城に自供させられたらいいんだけど」
そうか、証拠を掴めないなら本人に出させればいい。金城の作品への執着、プライドの高さを利用すれば勝機はある。
「次、仕掛けるならメンテナンスのときですよね」
『それ、愛梨さんと大地さんもご一緒できませんか?』
「様子はおかしいけど会話はできるので大丈夫だと思います。連絡してみますね」
愛梨さんたちと一緒なら、金城を叩くと同時に二人を守ることができる。袋小路に抜け道を見つけられた。思わず走り書きになる私を見て伊吹さんも笑った。
「その顔は何か思いついたみたいね?」
『──私が金城の邪魔をします』
7
今日は沙樹ちゃんもイヤホンを装備して待ち合わせのコンビニ前へ。数分待つと、耳あたりの長さで切り揃えられた髪、同じデザインの白いシャツにジーンズの二人組が歩いてきた。仲の良い双子にしか見えない。
「沙樹、お待たせ」
二人の声は綺麗に重なる。初めて見る私ですら怪訝に思うのだから、沙樹ちゃんはその何倍も困惑したはずだ。
「あたしたちも来たばかりだよ」
沙樹ちゃんはお互いを紹介するために声をかけた。
「こちらがこの前話した先輩の伊吹さん。で、こちらの二人が愛梨と大地です」
「よろしくね」
「よろしくお願いします」
見事に揃えられた声。ずっとこの調子で話し続けるのだろうか。早く二人の個性を取り戻さなければ。
ジェミニの風に入ると金城は相変わらずご機嫌な様子で出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。君たちはお友達だったんだね。いい作品をつくるペアだから僕は嬉しいよ。さぁ、みんなの指輪を見せてごらん」
四つの指輪がテーブルに乗せられる。
金城は最初に愛梨さんたちの指輪を確認し、工具を用意した。
「ラバーズの二人はもう三回目だからね。いつも通りやるんだよ。困ったらすぐに質問していいからね。ちょうどいい、師弟コンビは見学してみよう」
二人は寸分違わず同じタイミングで指輪を打ち始めた。先日、伊吹さんたちが打つよりも軽い力だ。整えるだけ、だからだろうか。カン、カン、と高く小さな金属音が響く。
店内の音楽と金属音が重なり始めると、愛梨さんからは青、大地さんからは橙色の光が現れて指輪に向かう。
──今だ。私はその光を無理やり掴んで引き留めた。そして二人の指先へ戻すように押し付ける。これ以上、指輪が打てないように。
「あ、あれ? 手が動かない」
「おや、どうしたかね」
「金城さん、うまくできないんです。まるで見えない何かに押さえられているみたい」
「おかしいなぁ。どれ、ちょっと僕に貸してくれないかい」
まずは愛梨さんの指輪を打とうとする金城の背後に回り込み、工具を押さえ込んだ。流石に金城の力を完全に封じることはできないが、妨害できれば十分だ。
「腕に違和感がある……一体どうなっている」
金城は何度も腕を振り上げる。私は必死で押さえ続けた。
「くっ、思うように動かないね、ああ!」
ドンっと鈍い音を立てて工具が落ちる。気がつけば蓄音機の再生も止まり、工房に静寂が訪れた。
「ふはははっ、信じられないよ。この僕が、最高傑作のみを生み続けてきたこの僕が、失敗をするなんて!」
狂ったように笑い声を上げて金城は捲し立てた。
「僕はね、僕の至高の技術を駆使して作品を生み出してきたんだ。僕の理想の恋人たちをね。今まで全ての作品に自信を持って傑作と呼んできた。僕に失敗の文字はいらないんだよ。僕の術に狂いはなかったはずだ。なぜ君たちの魂は最後の最後で統合を拒んだ? なぜ、僕は間違えた? 何を間違えた? わからない、わからない!」
目を見開いてうずくまっている。その呼吸は荒く、常にご機嫌な金城とはもはや別人の様相を呈していた。そこに伊吹さんが立ち上がってとどめを刺す。
「盛り上がっているところ悪いけど、魂の統合ってどういうことかしら」
「あぁ、君か。君が何かしたのかい。ふっ、違うね。人のせいはよくない。僕の問題であることは僕が一番知っているんだ」
「質問に答えてくれる?」
「そうだったね。僕は、人間は不完全なものだと思っている。だから二つの魂を一つに融和する。ふたりでひとりの完全な人間に生まれ変わるのさ。職人としての人生を賭けてその技を編み出したんだ。魂が整っていく様はこの上なく美しいよ」
「人の魂で遊んでいたこと、認めるのね」
「僕が悪いことをしているとでも言いたいのかい?」
「当たり前でしょ。人道に反している」
「理解できないのは仕方ないよ。君も不完全だからね」
「話が通じないわね。今の話、全部ここに録らせてもらった。もう妙な営業はできないってことよ」
「はっはっは、君に言われなくとも店は畳むよ。僕は失敗したんだからね。美しいものを作れないこの手に価値はない」
金城はあっさりと罪を認めた。完璧主義という彼の性質故だろうか。
「あんたの技術が本物なのは認める。けれども、この境地に至るまでお仲間はいなかったの?」
「職人は群れるのが苦手だよ。孤高の生き物なのさ」
「質問を変えるわ。比翼の鳥という組織に心当たりは?」
「はっはっは、知らないねぇ。けれども、魅力的な響きだ。もし僕と同じ崇高な志を持つ者がいるのなら、群れを成すのも悪くはないね」
伊吹さんは鋭い視線はそのままに話を切り替えた。
「あともう一つ。今まで魂を狂わされた被害者たち、愛梨ちゃんたちの魂を元に戻しなさい」
「断るよ」
抑揚のない、冷たく短い声だった。それを聞いた沙樹ちゃんが叫ぶ。
「どうしてですか、あたしの大切な友達を戻してください!」
「その必要はないし、僕には無理だ。不完全な失敗作とはいえ、彼らは僕の作品なんだよ。自分の子どもを潰すような残酷な真似、僕にはできないよ」
沙樹ちゃんは目に涙を浮かべて歯を食いしばっている。
何か金城を揺さぶれるものはないか。金城の背後に立っていて初めて見えたものがあった。作業ズボンの右ポケットに小さな本が入っている。
私はゆっくり歩み寄り、静かにそれを抜く。
「ん?」
金城に気づかれた……!
私は手を離し、本が自然に落ちたように見せかけた。
「ポケットに本、なんてよほど大事なものなんでしょうね。何が書かれているのか気になるわ」
「そうだよ、まさかうっかり落としてしまうとは。僕のコンディションは底辺だね。見られてしまったものは仕方がない。これは君たちにとっても宝物だよ」
金城は表紙を伊吹さんたちに向ける。そこには、
『ジェミニの風 作品集』
と、書かれていた。顧客情報、研究記録といったところだろうか。ここに魂の統合を解く鍵が記されているはず。
「僕の大切な記録だ。肌身離さず持ち歩いていたよ。僕は職人だ。作品のクレジットを譲るわけにはいかないのさ」
──本が、燃えた。金城はバーナーで一気に焼き上げたのだ。その勢いは止められない。私たちは為す術もなく立ち尽くしていた。金城の捨て身の抵抗で貴重な手掛かりは失われた。
どうすれば被害者を救うことができる?
次の手を考えていると、伊吹さんが工具の中からハンマーを手に取っていた。
「職人として、だけでなくパフォーマーとしても優秀なのね。これ、借りるわよ」
金城へ見せつけながら大きく振りかぶる。その下には愛梨さんの指輪。
「やめてくれ!」
悲鳴のように叫ぶ金城に笑みを向けて伊吹さんの鉄槌は下された。
強い金属音が轟く。
もう一つ、大地さんの指輪も打ち砕かれる。割れた指輪から青と橙色の光が漏れ出してそれぞれの身体に戻っていった。二人の意識が途切れ、机に伏した。そこに沙樹ちゃんが駆け寄る。
「愛梨、大地、大丈夫?」
「あぁ、なんてことだ、僕の作品が……」
金城は膝をついた。その瞳は魂が抜かれたように光を失っている。
「やっぱりね。歪んでいるけれど、作品に対してはまっすぐで単純。繊細な技で作られている分、壊すのは容易いってことね」
解除には複雑な手順があると見せかけて私たちを諦めさせるのが目的だったのか。
「うぅ……沙樹?」
愛梨さんが先に目を覚ました。初めて彼女だけの声を聞く。
「ごめん、ずっと意識はあったんだ」
「愛梨、愛梨が戻ってきた!」
「うん、やっと私の言葉で話せる。あのね、髪は伸ばしていたのに身体が勝手に切り揃えちゃうし、好きでもない服買っちゃうし、本当に辛かったんだ。沙樹が助けてくれたのも全部わかってるよ。ありがとう」
愛梨さんは涙を拭いながら鞄を探った。そして、アクセサリーケースを取り出す。中にはミモザのピアスが入っていた。
「これを外すのが一番苦しかったよ。沙樹、ごめんね」
「いいの。愛梨の本心じゃないってわかってたもん。貸してよ、あたしがつけてあげる」
「ありがとう。沙樹が外しちゃった分は私がつけるね」
二人の顔に笑顔が戻ってくる。本当によかった。思わずもらい泣きをしていると、大地さんも目を覚ましたようだ。
「うぉっ、おおお、俺だ、俺、戻ってきたー!」
「ねぇ、いきなり大声出さないでよ。沙樹と感動の再会してたのに」
「そうだよ。大地、空気読めなさすぎ」
「え、俺の扱いひどくね?」
「あっははは」
これが三人の本来の姿。伊吹さんと私はその様子を微笑ましく見守っていた。
「あんなに美しくまとまっていたのに、あと一歩で完成されたのに……伊吹くんといったね。君は僕の作品を全て壊すつもりかい?」
「もちろん。全員あるべき姿に戻すわ」
「完敗だよ。好きにすればいい。さぁ、警察を呼んでおくれ」
数分後、警察が到着し金城は連行された。その直前、彼は笑って告げた。
「伊吹くん、僕はいつか君を超える職人となって蘇るよ」
8
伊吹さんたちは警察の事情聴取を受け、状況を話した。金城本人も自供していることからスムーズに進んでいる。
科学的に証明できない部分もあるので、詐欺罪として裁かれるようだ。
被害者の救済については、伊吹さんが金城の代わりに顧客へリコールの連絡をすると申し出た。そこで指輪を回収、返金対応とする。返金額は金城の口座へ全額請求、これで話はまとまった。
また、ジェミニの風の不祥事は伊吹さんと沙樹ちゃんがしっかり記事にして、こちらでもリコールの広告を打った。人気店の大きなスキャンダルであったため、かなりの反響を呼んだ。
「やばいっす。あたし、もう腕折れそう」
「私は逆にマッチョになっちゃうかも。人生でこんなにハンマーを振ることないもの」
連日、ひたすら指輪を叩き割っている二人の腕には限界が近づいていた。残るところはあと一組。
「今日の予約分は終わりですね。ん?」
沙樹ちゃんが割れた指輪を持って首を傾げた。
「裏に変な絵が描いてあるんですよね」
「コインの絵柄とは別に彫ってあるみたい。金城が後から彫ったのかしら」
隣り合った男女と思われる絵にⅥの文字。これは……
『タロットカードの恋人、ではないでしょうか』
「もしかして、他の指輪にも彫られているんですかね」
破壊した指輪は念のため保管していた。伊吹さんが持ち出して確認すると、ほとんどの指輪に同じ刻印が刻まれていた。
「私と藤本ちゃんの指輪にはないわね。他にも、あるものとないものがある」
「うーん、一回目のメンテナンスで金城が入れたとかですかね?」
顧客情報からメンテナンスの段階と指輪を照合すると、沙樹ちゃんの推測は正解のようだ。
『でも何のために?』
「考えられるのは職人としてのサインね」
「あのおっちゃん、恋人にこだわってましたもんね」
『あれが一般的な恋人ではなく、タロットの恋人を示すなら腑に落ちます。彼の思想をよく表している』
金城の職人としての自己顕示欲、それだけなのだろうか。金城は比翼の鳥との関係を否定していたが、嘘をついている可能性も考えられる。タロットカードは重要な鍵なのかもしれない。
「あっ、そうでした、もっと大事な話をしようと思ってたんですよ。連絡のつかない最後の一組、どうしましょう」
「水野金華さん、銀華さん二人とも何度連絡しても繋がらない。おそらく双子だと思うんだけど」
『住所がわからない以上、根気よく電話を続けるしかないですかね』
「そうね。あとは、警察にも話をしておきましょう。もう遅いし今日はこれで解散ね」
「おつかれさまです。伊吹さん、幽美さん、本当にありがとうございました」
「藤本ちゃんもおつかれさま。しっかり腕を休めるのよ」
沙樹ちゃんを家まで送って車に乗ったところで、伊吹さんのスマホが鳴り響く。
──化け狐、と表示されている。緩んでいた気が、一気に張り詰め直す。
「もしもし、久しぶりね」
伊吹さんはスピーカーにして、私も会話に参加できるよう計らってくれた。
「白豹さんのお声が聞けて嬉しいですわ。最近お顔を見せてくださらないから、寂しく過ごしておりましたの」
「ただのかまってちゃんなら切るわよ」
「ふふ、それもありますけれど、しっかりお二人が喜ぶお話をお持ちいたしましたわ」
「比翼の鳥について?」
「ええ。先日、ようやく店に例のマークの客をお招きいたしましたの。面白いお話が聞けましたので、ぜひお伝えしたいと思いまして。早くその可愛いお顔を見せにきてくださいな」
「明日の夜はどう?」
「もちろん空けておきますわ。楽しみにお待ちしております」
「ありがとう。助かるわ」
「そこはありがとう、杏香とおっしゃって?」
「……ありがとう、杏香」
ほぼ声のない小声で、面倒な狐ねと続けた。本当にその通りだ。嫌がらせに抜かりがない。
「そうそう、黒狼さんもいらっしゃるのでしょう。声が聞きたいですわ」
「私からあなたに話すことなんてありませんよ」
「あら、冷たい。このあいだのこと、まだ根に持ってらっしゃって?」
「もう切りますよ」
伊吹さんに頼んで電話を切ってもらった。九曜と話すと心を掻き乱されてしまう。金城の件で頭の隅に追いやっていた私の黒い影が戻ってきた。それと同時に雨が車を打ち始める。
悔しかったのかもしれない。
九曜も沙樹ちゃんも、距離の詰め方が上手だ。九曜は悪意の塊だけれど、沙樹ちゃんは純粋に。私は気恥ずかしさに呑まれて動けないだけなのだ。伊吹さんとの距離……
九曜も金城も、人を結ぶ術を持っていた。ふたりでひとり、あの言葉が脳裏をよぎる。
私は一人の人として彼女との絆を深めたい。境界線は自分の意思で越えたいのだ。
「あいつの電話は疲れるけれど、一歩前に進めそうね」
「あの、伊吹さん……」
「どうしたの、大丈夫?」
心配そうに覗き込んでくる伊吹さん。いつも私の身を案じてくれる。
「えっと、お願いがあるんですけど……」
「なになに、どうしたの。打ち上げでも行きたい?」
グラスを傾けるジェスチャーで和ませてくれた。私は、深呼吸を一つ。
「──名前で呼んでもいいですか」
「……もしかして、それで悩んでた?」
「えっ、いや、はい……」
「あはは、そんなに思い詰めることじゃないでしょ。でも、幽美はそういう人よね。呼び方一つでも、関係の核として大事にしている。私は好きよ。呼んでみて」
「ありがとうございます──真白さん」
穏やかに微笑む真白さん、エンジンがかかる音、天井を打つ雨音が私を包む。
フロントガラスに残った雨粒が、まだらな影を落としていた。
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