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第1話 / 全15話
夜空には、海があった。
もちろん、水など一滴もない。
頭上に広がっているのは、煤けた高層建築の隙間と、古びたネオンと看板、蜘蛛の巣のように張り巡らされたケーブルだけだ。
それでも、魚たちは地上すれすれから屋根の上、果ては遠い空の彼方まで、街そのものを海のように悠々と泳いでいた。
青白く透けた小魚が群れを成し、壊れかけたネオン看板の中へ溶けるように消えていく。輪郭を縁取る白金色の光だけが、看板の表面に一瞬残った。
上空では、腹の白い大きな魚が屋根を半ば透かしながらゆっくり横切る。魚たちは壁を抜け、ケーブルを抜け、人の体さえ素通りしていく。
だが、それを見て驚く者はいなかった。
濡れた石畳の湿気に、古い機械油の臭い。そして魂魄炉から漏れる雨上がりにも似た微かな匂い。そんな下層街の空気に肉と香辛料の匂いが混じる。
「おい、レイ。またパーズの使いか?」
鍋の前に立っていた屋台の親父が声をかけてきた。レイは肩に担いだ麻袋を軽く持ち上げて見せる。
「ああ。歯車と配線。あと、なんかよく分かんない部品」
「よく分かんねえもんを持って帰って怒られねえのか?」
「パーズさんなら、よく分かんない部品ほど喜ぶよ」
レイがそう言うと、親父は豪快に笑い、鍋から切れ端を串で拾って油紙に落とした。
「ほら、食ってけ。売り物にゃならねえ端んとこだ」
「いいの?」
「腹空かせたガキに食わせるくらいで、炉は止まらねえよ」
「サンキュ、オッサン!」
「ばっ! ものを貰ってオッサンとはなんだ!」
「じゃーね!」
「熱っ」とつぶやき、ハフハフしながら歩き出した。香辛料の匂いが鼻を抜ける。下層街では贅沢な匂いだ。
ふと、水たまりにレイの青い目が映った。魂魄灯の青を受けて、薄い金髪まで灰色がかって見える。レイはよれたカーキ色の作業着の襟を指で直し、そのまま歩き出した。
路地の両側には古い集合住宅が積み重なるように建っていた。建物の外壁には無数の配管が絡みつき、その隙間に小型の魂魄炉が埋め込まれている。炉の中では圧縮された魂魄エネルギーが低く唸り、ランタンや暖房管や看板に力を送っていた。
綺麗な光だった。青く、淡く、どこか夢のようで。
だからこそ、レイは時々その光がひどく嫌になる。
「レイ兄!」
路地の奥から、子供たちが走ってきた。
「なんか部品ちょうだい!」
「だーめ。これは、パーズさんの仕事道具」
「ケチ!」
笑ってかわすと、子供たちは不満そうに頬を膨らませた。その頭上を、小さな魚の群れが流れていく。子供の一人がそれを指差した。
「見ろよ、ちっちぇえ! 雑魚魂だ!」
「生まれるとき、あんな雑魚に入られたら終わりだよな」
レイの足がほんの少しだけ止まった。彼らに悪気はない。大人たちがそう言うから、そう覚えただけだ。大きな魂は偉くて価値がある。小さな魂は雑魚。この街ではそれが当たり前だった。
何も言わず、子供たちの横を通り過ぎた。空ではさっきの小魚たちが、ひらひらと尾を振りながら看板の中へ消えていく。看板には王宮公認の魂魄燃料会社の広告が光っていた。
──豊かな光を、すべての人に。
文字の一部は壊れていて、何度も同じところで明滅している。
「豊かな、ね……」
小さく呟く。その時だった。視界の端で青い光が揺れた。路地裏の奥。壊れた排気管と、積み上げられた廃材の隙間に小さな魚が一匹漂っていた。魚、というより今にも消えそうな光だった。尾びれの先は欠け、鱗はくすみ、目の光も弱い。泳いでいるというより、空中で沈んでいるように見えた。
近くを通った作業服を着た男がちらりとそれを見た。
「なんだ、消えかけか」
それだけ言って、通り過ぎる。隣の男が、腰に吊るした圧縮瓶を叩いた。
「あれだけ弱ってりゃ、炉にくべても出力にならねえよ。拾うだけ無駄だ」
魚はふらふらと路地の壁へ向かって流れていく。このまま壁を抜けて、誰にも気づかれぬまま、暗い建物の奥で消えるのだろう。誰も困らないし、誰も悲しまない。それでもレイは足を動かしていた。
「……俺もたいがい物好きだな」
麻袋を地面に下ろし、そっと両手を差し出す。触れられないはずの魂が、吸い寄せられるように掌へ降りてきた。静かに目を閉じる。
「大丈夫。まだ、消えていない」
掌の中で小魚がかすかに震えた。欠けていた尾びれが薄い光で縁取られ、ひび割れたように濁っていた鱗が一枚ずつ輝きを取り戻していく。輪郭を縁取る白金色が、ほんの少しだけ強くなった。小魚は何度も尾を振った。そして、顔の前でくるりと回った。
「ははっ、礼のつもりか? 行けよ。もう大丈夫だろ?」
小魚は夜空へ昇っていった。ネオンの青を抜け、ケーブルを抜け、屋根の上へ。無数の魂が泳ぐ、夜の海へ。それを見送っていると、背後から声がした。
「あー、またやってる」
レイの肩が跳ねた。振り返ると、リサが立っていた。肩まで伸びた赤茶色の髪を雑にまとめ、手には油汚れのついた布を握っている。腰に手を当てて呆れたようにレイを見ていた。
「パーズさん、怒ってたよ。部品の受け取りだけで、なんでこんなに時間がかかるんだって」
「道が混んでたんだよ」
「魚で?」
「人で」
「嘘つき。いーけないんだ」
レイは観念して肩をすくめる。
「見てたのか?」
「途中からね。もう、あれほど人前でやるなって言われてるのに」
「人前じゃないだろ。誰も見てなかった」
「私は見てた」
「リサは、その……人じゃないだろ」
「あー! ひっどーい!!」
そう言いつつ、リサはニヤリと笑う。
「ははーん。それともー、もう他人じゃないって言いたかった? 結婚する?」
「ばっ!? ち、ちげーよ! 誰がお前みたいなガサツな女と……」
言ってからしまったと思った。リサは近づいてきて、レイの額を指で軽く弾いた。
「いった」
「痛くしたの。ったく、照れちゃって」
「照れてねーよ」
「ばーか。レイのあんぽんたん」
「ひどいな」
スっとリサの顔が真面目に戻る。
「ひどいのはレイだよ。あんた、自分が何やってるか分かってる?」
レイは答えなかった。リサはため息をつく。
「魂魄回収の連中に見つかったらどうするの。王宮に報告されたら? 珍しい力だって知られたら?」
「別に、珍しくなんかないかもしれないだろ」
「あんた以外に、空の魚を手で掬える人間なんて見たことない」
「……俺もない」
「でしょ」
リサは少しだけ声を落とした。
「だから、心配してるの」
その言い方は、いつもの小言とは少し違っていた。レイは視線を逸らし、地面に置いた麻袋を担ぎ直す。
「分かってるよ」
「分かってない顔」
「分かってる顔だよ」
「じゃあ、次からやらない?」
「それは……」
「ほら」
リサは勝ち誇ったように言った。でも、彼女も分かっている。レイが次も同じことをすることくらい。
リサは、「はぁ」と、諦めたように息を吐いた。
二人は並んで歩き出した。路地を抜けると、少し開けた通りに出る。頭上には無数のケーブルが交差し、その合間を青い魚の群れが泳いでいた。壁に取り付けられた魂魄ランタンが通りをぼんやり照らしている。リサがランタンを見上げた。
「あの灯り、綺麗だよね」
「綺麗だけど」
「けど?」
「あれも魚を燃やしてるんだろ」
リサは黙った。ランタンの中では小さな魂魄炉が低く唸っている。
「……そういうこと言うから、あんたは生きづらいんだよ」
リサがぽつりと言った。
「思ってること言っただけだ」
「思ってることを全部言うと、だいたい生きづらくなるの」
「リサは言うだろ」
「私は言う相手を選んでるの」
「俺には言うんだ」
「うん。あんたには言う」
レイが横を見ると、リサは何でもない顔をしていた。その何でもない顔が少しだけ嬉しかった。
パーズ工房へ続く路地の曲がり角に、古い露店があった。売っているのは、古本、古布、欠けた食器、用途不明の部品、そして乾いた薬草。腰の曲がった老人が座って店番をしていた。目は白く濁っていたが、二人が近づくと、顔だけは正確にこちらを向いた。
「レイか」
「こんばんは、爺さん」
「リサもいるな」
「はいはい、いますよー」
老人は白い目で空を見上げた。
「今夜は、また痩せたな」
レイもつられて空を見る。魚はいる。小魚も、大きな魚も、遠くには大きな影も。けれど、老人の声は冗談ではなかった。
「昔はな、夜空が流れるほど魚で満ちておった」
「いつもの昔話?」
リサが軽く言った。老人は笑わなかった。
「炉が食いすぎとる」
その言葉に、リサは眉を寄せる。
「まーた始まった」
老人の白い目が、上層街の方角へ向いた。
「いつもの話が始まる前に、行こう、レイ」
リサはわざと明るく言った。その時、通りの向こうから歓声が上がった。
「見ろ!」
「でけえ!」
「あれ、王宮の上まで行くぞ!」
レイたちも空を見上げる。巨大な魚の影が頭上を横切っていた。尾を振るたび、空の小魚たちがその流れに巻き込まれて散っていく。
「あんな魂が宿れば、将来は英雄だな!」
「馬鹿言え。ありゃ立派だが、王子様のに比べりゃ稚魚よ」
「おい、それ以上言うと、王宮の連中にしょっ引かれるぞ」
「おっといけねぇ……」
「うちの倅にあれの十分の一でも来てりゃなあ」
「ちげぇねぇ!」
バカ騒ぎする群衆の中で、レイはその巨大な影を見上げた。確かに圧倒されるほど大きい。美しいと言ってもいいのかもしれない。けれど、レイはなぜか胸の奥がざわついた。
「……大きければ偉いと思う者ほど、海の声を聞かん」
老人が小さく呟いた。だがその言葉は歓声にかき消された。
パーズ工房へ戻る途中、二人は魂魄回収業者の作業現場に出くわした。さっきの二人組だ。通りの一角に簡易式の回収装置が置かれている。傘を逆さにしたような金属の枠に細い光の糸が張られ、魚を絡め取っていた。使い込まれた金属枠の継ぎ目には、応急処置のテープが何重にも巻かれていた。捕まった魚たちは苦しそうに尾を震わせている。
作業員たちは慣れた手つきでそれらを圧縮瓶へ吸い込ませていた。
回収枠に捕まった魚はぎゅっと縮み、中で耐えきれなくなると押しつぶされ、やがて形を失い、青白い粒のような光になって圧縮瓶に溜まっていく。
レイの足が止まる。リサがすぐに腕を掴んだ。
「だめ」
「まだ何も言ってない」
「顔に出てる」
「……でも」
「認可業者だよ。逆らったら、こっちが捕まる」
レイは唇を噛んだ。作業員の一人がこちらに気づく。
「なんだ、見世物じゃねえぞ」
レイは視線を逸らさなかった。作業員は鼻で笑う。
「雑魚魂の味方か? やめとけやめとけ。こんな小せえのは、まとめて燃やしてもランタン一晩分にしかならねえ」
圧縮瓶の中で、小魚が震えていた。レイの手が、無意識に動きかける。リサの手に力がこもった。
「レイ」
作業員は構わず回収を続ける。その時、一匹の魚の尾が赤く染まったように見えた。だが、次の瞬間には元の青に戻っていた。
「見間違い……か?」
圧縮装置の一部が嫌な音を立てた。作業員が振り返るより早く、側面に亀裂が入った。
「おい、止めろ!」
「ちくしょう、ボロいまま使うからだ!」
レイは目を凝らした。見ると、圧縮されかけた魂が回収枠へ逆流していた。
瓶の中の魂魄エネルギーが膨れ上がる。
「早く止めろ!」
「やってる!」
近くで部品遊びをしていた子供が、何も知らずにその装置のそばへ近づいている。リサが息を呑む。レイは考えるより先に走っていた。
「おい、近づくな!」
作業員の怒鳴り声が飛ぶ。レイは子供の襟を掴んで後ろへ投げるように引き寄せ、そのまま亀裂の入った瓶へ手を伸ばした。熱い。いや、熱ではない。魂が砕ける寸前の鋭い悲鳴のようなものが指先へ突き刺さる。
瓶の中で乱れていた小さな光たちがレイの掌に反応した。暴れていた流れが少しずつ整っていく。赤く濁った光が青へ戻る。破裂しようとしていた魂魄の圧が静かにほどけていく。作業員が逃し弁を開けると、亀裂の広がりが止まった。そして、一匹の魚が回収枠の外に飛び出した。
作業員たちは、ぽかんとレイを見ていた。
まずい。
レイがそう思うより早く、リサが腕を掴んだ。
「走るよ!」
「え、ちょっ」
「いいから!」
二人は路地へ駆け込んだ。背後で作業員の怒鳴り声が聞こえる。
「おい! 今の何だ!」
「待て!」
リサは振り返らない。
レイも麻袋を抱え直し、必死に走った。
狭い路地を抜け、階段を下り、壊れた配管の下をくぐる。
二人は何度も曲がり、追っ手の声が聞こえなくなるまで走り続けた。
やがて、リサが壁に手をついて息を吐く。
「はあ……ほんと、あんたって……」
「子供がいたから」
「分かってる!」
リサは怒鳴った。そして、すぐに声を落とした。
「分かってるから、困るんだよ」
レイは何も言えなかった。リサは額の汗を拭い、空を見上げた。
「王宮に知られたら、あんた、本当に危ないんだからね」
「……うん」
「うん、じゃない」
「ごめん」
リサはしばらくレイを睨んでいたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「行こ。今度こそパーズさんに怒鳴られる」
「もう怒鳴られるのは決定なんだ」
「当然」
パーズ工房は下層街の奥まった一角にあった。看板は傾き、入口の扉は歪み、窓には古い機械部品が積み上げられている。中は壁一面に工具が並び、天井からは部品の束が吊るされ、魔導機械の残骸がそこら中で山積みになっていた。
「おっせぇぞ!」
扉を開けた瞬間、怒号が飛んできた。油まみれの作業台の向こうから、白髪混じりの大男が顔を出す。太い腕に、古い火傷の跡。片目には拡大レンズ。口には火のついていない煙草。パーズだった。
「部品の受け取りだけで、なんで夜が更けるんだ!」
「ごめん、ちょっと色々あって」
「色々で機械が直るか!」
「直らないです」
「なら色々すんじゃねーよ!」
レイは素直に麻袋を差し出した。パーズは中身を確認しながら、ぶつぶつ文句を言う。
「三番歯車、六番配線、古型の同期弁……おい、この用途不明の部品は何だ」
「よく分からない部品」
「よし、あとで見る」
リサが小さく笑った。パーズはそれを横目で見て、鼻を鳴らす。
「リサ。こいつ、また何かやったな」
「やったよ」
「即答するなよ」
「だってやったし」
パーズの目が細くなる。レイは視線を逸らした。
「またか」
その一言で、工房の空気が少し重くなった。レイは小さく頷く。
「消えかけてたから」
パーズは深いため息をついた。怒鳴られると思った。けれど、パーズは怒鳴らなかった。代わりに、低い声で言った。
「いいか、レイ。何度でも言う。人前でやるな」
工房の奥で、魂魄ランタンが小さく揺れた。
「王宮はな、珍しいもんを見つけたら保護なんぞしねえ。分解して測る。使えるなら縛る」
「……俺は機械じゃない」
「王宮にとって、人は人じゃねぇ。使えるものは全部部品だ」
パーズの声には冗談がなかった。かつて王宮にいたという噂をレイは何度か聞いたことがある。本人は詳しく語らない。だが、王宮の魔導機械について語る時だけ、パーズの顔には古い傷のようなものが浮かぶ。
「覚えとけ。お前のその手は、誰かを助ける。だが、誰かに見られれば、お前自身を縛る理由になっからな」
レイは自分の手を見た。
「分かった」
「本当に分かったか?」
「……たぶん」
「たぶんじゃねえ!」
結局、怒鳴られた。
工房での仕事を終えた頃には、夜はさらに深くなっていた。リサは先に帰り、レイは一人で家へ向かった。下層街の夜は暗いが、完全な闇ではない。魂魄ランタンが淡く青く、屋台の火は赤く、そして遠く上層街の明るさがわずかに届いていた。レイの家は細い階段を上った先にある小さな部屋だった。
扉を開けると、薄いスープの匂いがした。
「おかえり、レイ」
マルシアが振り返る。痩せた体に古いエプロン。黒い髪には、もう白いものが混じり始めている。それでも、レイを見る茶色の目はいつも柔らかかった。
「ただいま、母さん」
「遅かったのね」
「パーズさんに怒られてた」
「また?」
マルシアは困ったように笑い、器にスープをよそった。夕食は質素だった。硬いパンに薄いスープ、それに少しの野菜。だがスラムじゃ贅沢な方だ。温かい食事がある。それだけで十分だった。レイは椅子に座り、パンをスープに浸して食べた。マルシアは向かいに座ってしばらく黙ってレイを見ていた。
「また、助けたのね」
レイはごまかせないと悟り、小さく頷く。
「小さいのがいたから」
「そう」
「怒る?」
「怒らないわ」
マルシアは静かに言った。
「あなたは昔から、消えそうなものを放っておけないのね」
その声は、優しかった。でも、どこか悲しそうでもあった。レイは顔を上げる。
「昔からって、いつからだよ?」
マルシアの指が、ほんの一瞬だけ止まった。けれどすぐに、いつもの表情に戻る。
「そうね。赤ん坊の頃から」
「赤ん坊が何を助けるんだよ」
「私を」
レイは瞬きをした。マルシアは、まるで何でもないことのように微笑んだ。
「あなたは、私を助けてくれたの」
「……覚えてない」
「赤ちゃんだもの。覚えてるはずないわ。それに、覚えていなくていいの」
それ以上、マルシアは何も言わなかった。レイも聞けなかった。母には時々こういう顔をする瞬間がある。遠い昔のどこかへ、心だけ戻ってしまったような顔。悲しみと愛しさが同じ場所にあるような顔。レイはその顔を見るたびに、聞きかけた言葉を喉の途中で止める癖がついていた。
食事を終えたあと、レイは屋根に上がった。古い梯子を登ると、下層街の夜景が広がる。色とりどりのネオンにつながった、青く点滅する魂魄管。濡れた屋根に、壁の隙間から立ち上る湯気。その上を、中を、魚たちが気ままに泳いでいる。レイは屋根の端に座り、膝を抱えた。
しばらくすると、隣の建物の屋根からリサが顔を出した。
「やっぱりここにいた」
「なんで来るんだよ」
「暇だったから」
「暇で屋根を渡るな」
「だって近道だし」
リサは慣れた足取りで屋根を渡り、レイの隣に座った。二人で空を見上げる。遠くの上層街は下層街とは違う光を放っていた。金色で、整っていて、冷たい光。そのさらに奥に王宮の塔が見える。リサがぽつりと言った。
「ねえ、レイ」
「ん?」
「魚たちって、どこへ行くんだろうね」
目の前の小魚たちは流れ、壁の向こうへと消えていく。大きな魚はゆっくりと旋回し、時々光の群れが高い空へ昇っていく。その先の空では、たくさんの魚たちが、どこかを目指すように悠々と泳いでいた。
「さあ」
「さあって。夢がないなあ」
「リサは知ってるのか?」
「知らない」
「同じじゃん」
リサがふと下を向いた。
「でもさ、私とレイが赤ちゃん作ったら、一匹は入ってくるんだよね?」
「なッ!?」
「あー、また照れてる。想像しちゃった?」
リサはニヤリと笑った。だが、ほんのり耳が赤い。
「ったく、バカなこと言ってんなよ」
その笑顔を見て、レイも少しだけ笑う。
しばらく沈黙が落ちた。
屋根の下から誰かの笑い声が聞こえる。遠くで金属を叩く音がする。魂魄炉の低い唸りが街全体の底に流れている。
「でもさ」
リサは空を見上げたまま言った。
「もし、いつか私が魚になったらさ」
「縁起でもないこと言うなよ」
「いいじゃん、話くらい」
「よくない」
「私は、ちゃんと空に帰りたいな」
レイは黙った。リサは膝を抱え、足先を揺らす。そして目の前の魚をつつく真似をする。
「こんな風に、空を泳ぐ方がいい。自由にさ」
「……当たり前だろ」
「そうかな」
「そうだよ」
「でも、この街では当たり前じゃないよ」
レイは答えられなかった。リサは笑う。いつものように。でも、その横顔は少しだけ大人びて見えた。
「だからさ、レイ。もし私が迷ってたら、ちゃんと空に帰してね」
「嫌だ。そういう約束はしない」
「頑固」
「そっちこそ」
リサは頬を膨らませたが、すぐに笑った。
「じゃあ、今のなし。でも、覚えてて」
「なしなんじゃないのかよ」
「なしだけど、覚えてて」
「無茶苦茶だ」
二人は笑った。その時だった。
遠く、上層街の方角で巨大な光が立ち上がった。王宮の塔の奥。夜空を貫くように、青白い柱が伸びる。
気づけば、腰が浮いていた。
「何だ、あれ」
リサも表情を変える。
「王宮……?」
光の柱が脈打つ。
次の瞬間、空を泳いでいた小さな魚たちの動きが変わった。自然な泳ぎではない。引っ張られている。無数の小魚が上層街の方角へ流され始めた。大きな魚たちも身をよじり、逆らうように尾を振っている。だが、小さな魂ほどその流れに抗えない。
一匹の小魚がレイのすぐ近くを通った。苦しそうに震えている。光が乱れている。レイは手を伸ばした。だが、届かなかった。小魚は見えない力に掴まれたように、上層街へ吸い込まれていく。遠くから低い唸りが聞こえた。街の底を震わせるような音。炉の音だった。ただの小型炉ではない。もっと大きく、もっと深く、もっと飢えた音。
リサが小さく呟いた。
「なに、あれ……」
レイは空を睨んだ。光の柱の向こうで、王宮の影が夜に浮かんでいる。
その同じ空を──王宮の最も高い部屋から、漆黒のクジラを宿した少年が静かに見下ろしていた。
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