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第14話 / 全15話
大魂魄炉の唸りが、王宮の奥から響いていた。
床を伝ってくる低い震え。
壁の奥を流れる魂魄管が、まだ生きている。さっきまでより弱い。それでも、止まってはいなかった。
「ちっ……」
レイは走りながら、奥歯を噛んだ。
リサの光は、まだ消えていない。
けれど少しずつ引かれている。
それが分かるのが嫌だった。分からなければ楽だった。知らなければ、ただ走ればよかった。
でも分かってしまう。
リサの魂は、大魂魄炉へ向かう流れのどこかにいる。まだ炉心には落ちていない。まだ、完全には呑まれていない。
だからこそ、間に合わせなければならなかった。
「どうした。もう限界か?」
レイの横を、アビスが無言で走っている。顔色は悪い。フローリアとの戦いで使った力は、明らかに体を削っていた。それでも足は止まらない。
「お前こそ」
王宮の通路は、奥へ行くほど人の気配が薄くなっていった。
兵士の声もない。
侍女の悲鳴もない。
ただ、石の壁の内側を、魂魄の流れが唸っている。
通路の壁には、監視盤がいくつも埋め込まれていた。
赤く点滅しているものがある。
光を失ったものがある。
橙色の警告を出したまま固まっているものも。
レイには数値の意味までは分からない。
だが、壁の奥を流れる魂魄の音が、さっきより細くなっていることだけは分かった。
「外殻の圧は抜けたな」
アビスが言った。
「さっきのやつか」
「ああ。炉そのものは止まっていないが、吸い込みは落ちている」
「じゃあ、次は?」
「ここだ。調圧区画」
アビスは、焼けた認証盤を横目で見た。
「本来なら、調圧から先は技官長か王命認証が要る」
「王命って……」
レイは言いかけて、口を閉じた。
ダウジルは、もういない。
フローリアも死んだ。
王宮は誰の命令で動いているのかも分からないまま、まだ唸り続けている。
「認証が死んでいる」
アビスは短く言った。
「いいことなのか?」
「分からん。だが、通れる」
「雑だな」
「今は、雑でなければ間に合わぬ」
中に入ると、光が完全に落ちていた。
壁の魂魄管は、冷えた血管のように沈黙している。
「……動いてねぇな」
「ああ。調圧は死んでいる」
「いいことか?」
「ここではな。炉心は分からん」
「最悪じゃねぇか」
「急ぐぞ」
調圧区画を出ると、レイは奥を向いて目を閉じた。
淡い光を感じる。まだ大丈夫。
リサは、まだ炉心には落ちていない。
けれど、流れは確実にそこへ向かっていた。
走る。
やがて、通路の先に巨大な扉が見えた。
半ば崩れた鉄の扉。
赤黒い光が隙間から漏れている。
アビスが手を上げた。
漆黒の光が走ると、扉は音もなく崩れ、黒い砂のように床へ落ちた。
その奥に、大魂魄炉があった。
「これが……」
レイは、息を忘れた。
巨大な縦穴のような空間だった。
王宮の地下深くから、上層へ向かって貫くように作られた炉。中心には、黒い金属と古い石材を組み合わせた塔のような機構が立っている。無数の魂魄管が絡みつき、青白い光を吸い上げ、赤黒い熱へ変えていた。
空中には、魚がいた。
いや、魚の形を保てていないものも多い。
青白い光が押し潰され、引き伸ばされ、ひとつの流れにされている。尾びれが残ったもの。目だけが残ったもの。声だけになったもの。形を失った魂が、炉の周囲を回っている。
そのすべてが、炉の中心へ落ちようとしていた。
だが、炉そのものには近づけない。
炉の周囲を、何かが覆っていた。
透明な膜のように見えた。
薄い。けれど、そこにある。
水面のように揺らぎ、内側に無数の青白い影を閉じ込めている。
レイは一歩踏み出した。
「アビス。あの膜、何だよ……」
アビスは答えず、右手を上げた。
その指先に漆黒が集まる。
レイが止める間もなく、黒い閃光が放たれた。
漆黒は大魂魄炉を貫くはずだった。
だが、透明な膜に触れた瞬間、横へ弾けた。黒い光が壁にぶつかり、魂魄管を数本まとめて削り飛ばす。
炉は、揺れもしなかった。
アビスの眉がわずかに動く。
「弾かれた……?」
レイは両手を前に出した。
白金色の光が掌から滲む。小さな魚の形を取って、透明な膜へ泳いでいく。
せめて、閉じ込められた魂に触れられれば。
そう思った。
だが、白金色の小魚たちは、膜の表面で散った。
弾かれるというより、届く前にほどけていく。透明なものの向こうに、苦しむ魂が見えているのに、レイの光は触れられない。
「くそっ」
レイはもう一度力を込めた。
白金色の光が強くなる。
それでも結果は同じだった。
膜の表面で散る。
届かない。
「アビス」
「分かっている」
二人は並んだ。
漆黒と白金色。
フローリアの赤黒い外殻を剥がした時と同じように、二つの力が絡み合う。
二重螺旋が生まれた。
黒と白金が互いを食い潰さず、ひとつの流れになって大魂魄炉へ向かう。
透明な膜が大きく震えた。
いける。
レイがそう思った瞬間、螺旋は砕けた。
押し潰された。
螺旋ごと、消された。
無数の悲鳴が一瞬だけ耳を裂き、二人の力はばらばらに散った。
レイは後ろへよろめく。
「なんだよ、あれ……!」
「膜ではない」
アビスが透明な揺らぎを睨む。
「膜というより、透明な殻だ」
「殻?」
「分からん。だが、外側から壊せるものではない」
アビスは、ゆっくり歩き出した。
レイはその横顔を見た。
「おい」
「中へ入る隙間を探す」
「触るなよ」
「分かっている」
「そうだ」
レイは外套の前を握った。
パーズが渡してくれた黒灰色の外套。
細い金属糸と魂魄繊維を編み込んだ、対魂魄圧用の防護布。
大魂魄炉の近くでは、立っているだけで中身を引っ張られる。
パーズはそう言っていた。
「これなら」
レイは透明な殻へ近づいた。
外套の裾が、青白く震える。
空気が重い。
体の奥を引っ張られるような感覚が、外套の表面で何度も弾けた。
効いている。
少なくとも、周りの魂魄圧は防いでいる。
レイはもう一歩近づき、手を伸ばした。
外套の袖口が、透明な殻に触れた。
瞬間、布が悲鳴を上げた。
金属糸が赤く焼け、魂魄繊維がほどける。袖口から黒い煙のようなものが立ち、レイの腕へ冷たい痛みが走った。
「っ……!」
レイは飛び退いた。
外套の袖が、指二本分ほど焼け落ちている。
アビスが目を細めた。
「駄目か」
「周りの圧は防げる。でも、あれに直接触るのは無理だ」
レイは透明な殻を睨んだ。
「あれ、普通の魂魄圧じゃねぇ」
「ならば、触れた瞬間に叩き込む」
「やめろ」
「触れなければ、内側の反応が分からん」
アビスはそう言った。
そして、右手を伸ばした。
殻に近づいたところで漆黒を放つ。
透明な殻が、わずかに揺れた。
次の瞬間、アビスの指先が触れた。
アビスの体が跳ねた。
「ッ――!」
声にならない悲鳴だった。
アビスの目が見開かれる。
伸ばした右手が殻に貼りつき、引き剥がせない。
透明な殻の内側から、青白い影が一斉にアビスへ向いた。
レイには、それが見えた。
焼けて潰れる。
喉が裂けるほど誰かを呼んでいる。
息ができない。
刃が体に入る。
崩れた瓦礫の下で、骨が折れている。
血が流れる。
冷たく、重くなる。
子供の名前を呼んでいる。
母親の手を探している。
自分が誰だったか、もう分からない。
終わらない。
炉へ落ち、燃やされる。
消える。
消えたくない。
消えたくない。
消えたくない。
アビスの喉から、獣のような声が漏れた。
「アビス!」
レイは飛びついた。
アビスの腕を掴む。
その瞬間、レイの掌にも痛みが流れ込んだ。皮膚を焼かれるようなものではない。もっと奥だった。骨でも血でもなく、魂の内側を直接爪で引き裂かれるような痛み。
レイは歯を食いしばり、白金色の光を叩き込んだ。
アビスの腕を包む。
殻に貼りついた指を、無理やり引き剥がす。
アビスの体が後ろへ倒れた。
レイも一緒に床へ転がる。
アビスは息をしていなかった。
目は開いている。だが、焦点が合っていない。喉がひくつき、口から音にならない声が漏れる。
レイは彼の胸ぐらを掴んだ。
「戻れ! アビス!」
白金色の光が、アビスの体へ流れ込む。
強すぎれば壊すが、弱ければ戻せない。
レイは自分でも分からないまま、ただ必死に光を流した。
アビスの喉が大きく鳴った。
空気を吸い込む音。
次の瞬間、アビスは咳き込んだ。床に両手をつき、何度も息を吐く。
右手の指が震えていた。
指先から第二関節あたりまで、黒く焼けたような跡が残っている。火傷にも似ている。だが、火に焼かれたのとは違う。皮膚の奥に、死の影が染み込んでいるようだった。
「おい、大丈夫か」
「……あれは」
アビスの声はかすれていた。
「魂の塊ではない」
「ああ」
「死だ。死の記憶の塊だ」
レイは、透明な殻を見た。
そこにあるのは、燃やされる寸前の魂たちだった。
痛みごと、恐怖ごと、圧し固められている。
レイは拳を握った。
リサは、まだあの中にはいない。
まだ落ちていない。
でも、このままだと、いずれあそこへ行く。
あの殻の一部になる。
名前も、声も、笑い方も、全部押し潰される。
レイの喉が詰まった。
「来る前に、止めねぇと……!」
「ああ……」
アビスは立ち上がろうとした。
だが、右手を床についた瞬間、膝が揺れる。焼けた指が使えない。
それでも、漆黒の力を集めようとする。
「無理すんな」
「黙れ。無理をしなければ届かぬ」
「届いてねぇだろ!」
言ってから、レイは唇を噛んだ。
リサがいたら、また怒っただろう。
喧嘩しないで、と。
アビスも何かを言い返しかけた。
その時だった。
遠くから、重い駆動音が響いた。
石の床が震える。
規則正しくない。片足を引きずるような、歪んだ歩行音。金属の軋み。関節が火花を散らす音。
レイは振り向いた。
炉心区画の入口に、黒い魔導機が立っていた。
装甲は歪んでいる。肩の砲身は折れ、片側の腕は外装が剥がれて内部機構がむき出しになっていた。脚部もまともではない。一歩進むたびに膝関節が嫌な音を立てる。
それでも、動いている。
黒い重装魔導機。
その胸部装甲が開き、操縦席の中から声が飛んだ。
「なんだ、揃いも揃って情けねぇ顔しやがって」
レイは目を見開いた。
「パーズさん!」
「おう。間に合ったか」
「リサは……」
「工房に寝かせてきた。マルシアがついてる」
「なんでここに……?」
「直したから来た。見りゃ分かんだろ」
「直ってねぇだろ、それ!」
「動いてるなら直ってんだよ」
「そうだ。なぜ動いている? 私の専用機だぞ」
「俺が作ったんだ。動かせないわけがねぇだろ」
パーズはそう言って笑った。
笑っていた。
額には汗が浮かび、片頬に煤がついている。服も焦げていた。どこかで転んだのか、こめかみに血もにじんでいる。
それでも、いつもの顔をしていた。
アビスが立ち上がった。
「私が乗る」
「駄目だ」
「なぜだ」
「武装は直してねぇ。お前が乗っても意味がない」
パーズは短く言った。
アビスの目が細くなる。
「この機体は私のために作られた」
「今は俺の作業機械だ」
「パーズ」
「武装は死んでる。砲も撃てねぇ。魂魄接続もまともに通らねぇ。お前が乗ったところで、ただの重たい棺桶だ」
パーズは大魂魄炉を見上げた。
透明な揺らぎ。
魂たちを押し固めた殻。
それをしばらく見て、低く唸った。
「……やりやがったな」
「パーズさん?」
「あれは殻だ。魂の圧力でできた殻だ」
「魂の……」
「押し込めすぎなんだよ。逃げ場をなくした魂が、炉の周りで固まってやがる。外から無理に壊しゃ、中の魂ごと潰れる。下手すりゃ炉も暴れる」
レイは炉を見た。
透明な殻の内側で、形の崩れた青白い光が揺れている。
「じゃあ、どうすんだよ!」
「中央制御弁を開ける」
パーズは、炉の奥を指した。
透明な殻のさらに向こう。炉の基部近くに、巨大な弁のような機構が見える。黒い金属の輪。いくつもの歯車と魂魄管に繋がれ、半ば赤黒く焼け付いている。
「あれを開けりゃ、溜まった魂魄圧が逃げて殻は割れる。そこをアビスがやる」
「誰が開ける」
アビスが聞いた。
パーズは操縦桿を握り直した。
「俺だ」
「駄目だ!」
レイは思わず叫んだ。
「あれに触っただけで、アビスは死にかけたんだぞ!」
「俺は触りに行くわけじゃねぇ。機体で行く」
「でも!」
「安心しろ。この機体はそんなに軟じゃねぇ」
パーズは笑った。
「俺が作ったんだぜ?」
「そういう問題じゃ――」
「それに」
パーズの声が少しだけ低くなった。
「大人にも格好つけさせろや」
レイは言葉を失った。
アビスも何も言わなかった。
言えなかった。
パーズが胸部装甲を閉じようとした時、レイは外套を脱いだ。
袖口は焼け、裾には赤黒い汚れが残っている。
「これも使って」
パーズは一瞬だけ目を細めた。
「お前が着てろ」
「俺は行かない。パーズさんが行くんだろ」
「……ったく」
パーズは外套を受け取った。
操縦席の内側、胸のあたりへ乱暴に巻きつける。防護布というより、ぼろ布を詰め込むような扱いだった。
「これで少しはマシになる」
「助かる?」
レイが聞いた。
パーズは笑った。
「さあな」
「パーズさん」
「死ににくくはなる。そういう布だろ」
それ以上は言わなかった。
黒い魔導機が、一歩前へ出る。
透明な殻の前で、止まる。
機体の右腕が持ち上がった。武器ではない。装甲の剥がれた作業腕。関節は軋み、指も三本しかまともに動いていない。
それでも、中央制御弁へ向けられていた。
「じゃ、行ってくる」
操縦席の中から、短い声がした。
次の瞬間、黒い魔導機は殻へ踏み込んだ。
透明な殻が大きく波打つ。
装甲が触れた瞬間、青白い光が機体全体を走った。
最初は、耐えているように見えた。
分厚い装甲が、魂の圧力を受け止めているように見えた。
だが、すぐにレイは気づいた。
違う。
受け止めているのではない。
すり抜けている。
魂の痛みは、金属では止まらない。装甲を抜け、機構を抜け、操縦席へ入り込む。
胸部装甲の隙間から、赤黒い光が漏れた。
機体の中で、パーズが呻いた。
「ぐ、ぅ……っ」
それでも機体は進む。
一歩。
また一歩。
魂の殻の内側へ。
パーズの視界が白く焼けた。
誰かの死が流れ込む。
火に巻かれた女、崩れた梁の下で息絶えた男、兵士の剣に裂かれた子供、名前も知らない老人、炉に落とされた魂。
そして燃料として扱われた命。
痛みが、痛みのまま入ってくる。
悲鳴が、悲鳴のまま喉を引っ掻く。
「やせ我慢は……大人の特権なんだよッ!」
パーズは歯を食いしばった。
舌を噛んだ。
血の味がした。
──ふと、若い頃の自分が見えた。
机の上に広げた図面。
魂魄炉の基礎理論。
魚を集め、魂魄を変換し、街を動かす仕組みだった。
その仕組みを思いついた時、確かに胸が高鳴った。
世界を変えられると思った。
下層街の暮らしだって、少しは楽になるかもしれないと思った。
馬鹿だった。
図面の上の線は、人の命につながっていた。
魂につながっていた。
危険に気づいた時には、もう遅かった。
止めようとしたが、止まらなかった。
王宮から追い出され、下層街へ戻った。
工房を開いた。
そこで、小さな女の子を拾った。
汚れた服を着た、痩せた子だった。
大きな目でこちらを見上げていた。警戒しているのに、腹が鳴ると顔を真っ赤にしていた。
最初は大人しかった。
遠慮がちで、工房の隅に座っていた。
それが、いつの間にか工具を勝手に触るようになった。足りない部品をどこからか持ってきた。危ないから触るなと言えば、触ってないと嘘をついた。油で顔を汚して、知らんぷりをした。
お転婆で、生意気で、口が悪くて。
パーズは毎日振り回された。
初めて作ってくれた料理は、黒焦げだった。
皿まで焦げそうなほど真っ黒で、味なんて分かったものではなかった。パーズが黙って食べると、リサは不安そうに見ていたくせに、「まずいならまずいって言えば?」と偉そうに言った。
思春期になると、急に距離を置かれた。
前みたいに工房で寝転がらなくなった。
くだらない話をしなくなった。
そのくせ、仕事は手伝った。
文句を言いながら、部品を磨いた。在庫を数えた。レイに余計な口を出し、アビスに妙な顔をさせ、工房を騒がしくした。
最後まで、お父さんとは呼ばなかった。
パーズさん。
オッサン。
あんた。
そんな呼び方ばかりだった。
それでも、娘だった。
誰が何と言おうと。
パーズは操縦桿を握り潰すほど力を込めた。
「開け……」
中央制御弁は、もう目の前だった。
機体の腕が伸びる。
指が弁を掴む。
関節が悲鳴を上げた。
魂の圧力がさらに強くなる。
パーズの腕から感覚が消える。胸の奥が焼ける。目の前が暗くなる。
それでも、彼は笑った。
ひどく歪んだ笑いだった。
「この、馬鹿炉が……!」
操縦桿を押し込む。
機体の腕が、中央制御弁を回した。
最初は動かなかった。
焼き付いた金属が、軋むだけだった。
パーズはもう一度押した。
歯車が砕ける音がした。
腕部の関節が弾けた。
それでも弁は動いた。
ほんの少し。
その隙間から、青白い光が噴き出した。
パーズは叫んだ。
「開けオラァ!」
弁が回る。
重い音が炉心区画に響いた。
透明な殻に、亀裂が入る。
押し潰されていた魂たちが、形を取り戻し始める。尾びれが生まれ、鱗が戻り、目が開く。小さな魚たちが、次々と殻の中から溢れ出す。
青白い奔流が、大魂魄炉の周囲を満たした。
レイは息を呑んだ。
「開いた……!」
「今だ」
アビスが立っていた。
右手は……使えない。
アビスは左手を大魂魄炉へ向けた。
レイは叫ぶ。
「今だ、アビス!」
漆黒が走った。
それは魂へは向かわなかった。
解放された青白い魚たちの間を縫うように進み、炉の金属だけを、魂魄管だけを、機構だけをほどいていく。
大魂魄炉が震えた。
赤黒い光が噴き出そうとする。
だが、もう魂を閉じ込める殻はない。
燃料にする魂もない。
漆黒が炉心を貫いた。
音が消えた。
一瞬、すべての唸りが止まる。
大魂魄炉を巡っていた赤黒い光が、行き場を失ったように震えた。
次の瞬間、炉の内側から青白い光が噴き上がった。
何百年も閉じ込められていた海が、岩盤を突き破って空へ戻るような光だった。
「やった……のか」
黒い金属の塔が軋む。
絡みついていた魂魄管が、一本、また一本と弾け飛ぶ。管の中から青白い魚たちが溢れ出し、渦を巻いて炉心区画を満たした。
石の床が割れた。
壁が震え、天井から砕けた石片が降る。
「ああ。それに、魚たちも無事だ」
大魂魄炉が悲鳴を上げた。
金属が裂ける音。石が砕ける音。圧縮されていた魂魄が解放される轟音。
そのすべてが重なり、王宮の奥を揺らした。
赤黒い光が最後に一度だけ膨らむ。
だが、そこへ青白い魚の群れが流れ込んだ。
燃やされるはずだった魂たちが、炉の中を満たし、赤黒い熱を押し流していく。
炉心の塔が、根元から折れた。
黒い金属が砂のようにほどけ、古い石材が崩れ、無数の魂魄管が空っぽの抜け殻になって床へ落ちる。
「くっ……」
レイは腕で顔を庇った。
それでも、目を閉じられなかった。
青白い魚たちが、目の前を昇っていく。
小さな魚、尾びれの欠けた魚、大きな傷を負った魚。
形を失いかけていた魂たちが、光の中で少しずつ魚の姿を取り戻していく。
そして、天井をすり抜けた。
壁をすり抜けた。
王宮を抜け、夜空へ。
空の海へ帰っていく。
大魂魄炉は、もう炉ではなかった。
王都の心臓と呼ばれたものは、崩れた黒い骨組みと、灰のような金属片だけを残して沈黙していた。
レイは笑った。
「やった……」
そして、黒い魔導機へ走った。
「やったぜ、パーズ!」
機体は中央制御弁の前で停止していた。
片膝をつき、腕を伸ばしたまま動かない。
レイは胸部装甲に飛びついた。熱かった。指先が焼ける。それでも構わず、装甲をこじ開ける。
中を覗いた。
声が出なかった。
操縦席の中で、パーズは座っていた。
操縦桿を握ったまま。
体は黒く焼け焦げていた。服も肌も、どこまでがどこなのか分からない。顔の輪郭だけが、かろうじて残っている。
もう、息はしていなかった。
レイの喉が震えた。
「……パーズ、さん?」
返事はなかった。
アビスが隣に立つ。
何も言わない。
言えるはずがなかった。
機体は、確かに中央制御弁までパーズを連れていった。
それだけだった。
レイは操縦席の縁を掴んだ。
指に力が入らない。
胸の奥で何かが崩れていく。
その時、パーズの胸元から、小さな光が浮かび上がった。
青白い魚だった。
ただし、少し煤けている。工房の油と鉄粉と煤をまとったような、くすんだ光だった。
その魚は、ふらふらと宙へ泳ぎ出した。
レイは手を伸ばしかける。
「パーズさん……」
その時、遠くから別の光が近づいてきた。
小さな魚。
青白い光。
レイは息を止めた。
見間違えるはずがなかった。
形が違っても、声がなくても、分かる。
リサだ。
大魂魄炉へ向かっていた流れから解放され、自分の意思で泳いでいるように見えた。
リサの魂は、パーズの煤けた魂の前で止まった。
どこからか、声がした。
「もうこっちに来ちゃったの?」
リサの声だった。
いつものように、少し呆れている。
パーズの魂が、小さく揺れた。
「すまねぇ」
声が聞こえた。
パーズの声だった。
ひどく小さくて、でも確かにパーズだった。
リサの魂が、くるりと一度回った。
「ほんと、どうしようもないね、お父さん」
レイは息を呑んだ。
その言葉が、胸の奥へ突き刺さった。
パーズの煤けた魂が、震えた。
それでも、レイには分かった気がした。
届いたのだ。
リサの魂が、今度はレイの方を向いた。
「レイ」
レイは声を出そうとした。
出なかった。
喉が詰まって、胸が苦しくて、何も言えない。
「リサ……」
ようやく、それだけが出た。
リサの魂は、少し揺れた。
笑ったように見えた。
「まだ、助ける人、いるでしょ?」
レイの胸が止まりかけた。
アビスが顔を上げる。
言われなくても分かった。
まだいる。
大魂魄炉は壊れた。
だが、王宮の奥にはまだ、置き去りにされた人がいる。
レイはリサを見た。
離れたくなかった。
ようやく声が聞こえた。
ようやく、リサがそこにいる。
なのに、また走れという。
「ちょっとくらいは待っててあげるから」
レイは顔を上げた。
何か言おうとした。
でも、ただ頷いた。
強く。
拳を握って。
アビスが横を向いた。
「行くぞ」
「ああ」
レイはもう一度だけ、リサの魂を見た。
パーズの煤けた魂が、その隣にいる。
二つの小さな光が、崩れた炉心区画の中で揺れていた。
そして、レイとアビスは走り出した。
リサが、少しだけ待っていてくれるうちに。
* * *
次回、最終話『輪廻の後で』
──もう、大丈夫
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