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第13話 / 全15話
メイガスの声は、通路の奥へ吸い込まれていった。
「父上を、喰った」
レイは、すぐには意味を掴めなかった。
喰った。
人が、人を。
いや、ここで言う喰うとは、肉のことではない。
魂だ。
赤い魚が人の魂を食らうところなら、もう見た。だが、メイガスが言っているのは魚ではなかった。
フローリア王妃。
レイはアビスを見た。
アビスは、メイガスを見ていた。顔は動かない。だが、目の奥だけが硬くなっている。
「メイガス……そなた、何を見たのだ?」
アビスが聞いた。メイガスは唇を震わせた。
「父上が、母上を止めようとして……母上は、僕を庇って……それで、赤い魚が……母上の体に……」
言葉が途切れる。奥の通路から、何か湿った音が聞こえた。ゆっくりと、何かが床を這っている。
水を含んだ布を、石の上で引きずるような音だった。けれど、ここに水はない。床を濡らしているのは、赤黒い魂魄の泥だった。
レイの背筋に、冷たいものが走る。
壁を抜けていた小さな青い魚が、一匹、通路の奥へ引かれた。泳いでいるのではない。尾を震わせ、逃げようとしているのに、赤黒い影の方へ吸い寄せられていく。
レイは手を伸ばした。
間に合わなかった。
小魚は、暗がりから伸びた赤い筋に絡め取られ、潰れるように光を歪ませた。次の瞬間、赤黒い影の中へ呑まれる。
その奥から、フローリアが現れた。
いや、そう呼んでいいのか分からなかった。
白い王妃の衣は裂け、胸元から腹にかけて赤黒い泥が固まっている。
顔の半分はフローリアのままだった。青ざめた肌。整った眉。震える唇。だが、残り半分は赤黒い魚の群れだった。
小さな魚が無数に重なり、鱗と牙と泥を混ぜたような形になっている。背中からは触手のような魂の束が伸び、床を這い、空を漂う魂へ伸びていた。
メイガスが息を呑む。
「は、母上……」
フローリアの片目が、メイガスを見た。確かに、見た。その瞳に一瞬だけ人の色が戻る。だが、すぐに赤黒い濁りが覆った。
「たりない」
声がした。フローリアの声ではない。老人、子供、女性。何人もの声が、同じ場所から滲み出している。
「たりないの……」
「なくなってしまった」
「かえしてはならない」
「わたしが……まもらなければ」
レイは奥歯を噛んだ。リサの魂へ続く流れはまだ先にある。大魂魄炉は止まっていない。それでも、目の前のものを放っておけば、王宮に残った魂が喰われる。避難できなかった兵士も、死にかけている者の魂も、大魂魄炉へ引かれている魂も、全部だ。アビスが一歩前へ出た。
「どけ」
低い声だった。フローリアの背中から伸びた赤黒い束がアビスへ向く。次の瞬間、漆黒の光が走った。爆発はなかった。フローリアの右腕が、肩口からほどけた。赤黒い外殻が砂のように崩れ、床へ落ちる前に黒い塵になって消える。メイガスが叫んだ。
「兄上!」
アビスは振り返らない。フローリアの体が大きく傾く。だが、倒れなかった。
通路を泳いでいた青白い魂が、欠けた右肩へ吸い込まれていく。赤黒い泥が蠢いた。失われた腕が、ゆっくり形を取り戻す。白い腕ではない。魚の骨と、赤い泥と、閉じ込められた青い光を無理やり固めたような腕だった。レイは息を吐いた。
「再生……!?」
「いや、再生ではない」
アビスが言った。
「喰った魂で埋めている」
彼はもう一度、手を上げた。今度の漆黒は細かった。刃のように絞られ、フローリアの胸から伸びていた赤黒い束だけを切る。束はほどけた。中に絡め取られていた青い魚が一匹、転がるように宙へ投げ出される。レイは走った。両手を差し出す。小さな魂が掌へ落ちる。冷たかった。弱っている。鱗に赤黒い汚れがこびりつき、尾びれの端が欠けていた。
「大丈夫だ」
レイの掌から、白金色の光が滲んだ。小魚は震え、少しずつ青白さを取り戻す。レイの指の間をすり抜けると、一度だけ顔の前を回り、天井へ向かって昇っていった。レイは顔を上げる。フローリアの体には、まだ無数の魂が絡め取られている。
「全部やるしかねぇ」
「時間がない」
「分かってる!」
言ってから、レイは唇を噛んだ。喧嘩しないで。リサの声が、耳の奥で小さく響いた。アビスも何かを言い返しかけて、やめた。二人の間に、短い沈黙が落ちる。その隙を、フローリアは逃さなかった。背中の束が、槍のように伸びる。レイの胸を狙っていた。アビスの漆黒がそれを切る。切れた束は床に落ちる前に魚の群れへ戻り、すぐに壁の中へ散った。赤黒い魚たちは通路のあちこちへ潜り込み、別の魂を探すように泳ぎ回る。
「やるしかない」
アビスから漆黒が迸る。それはフローリアの胸を狙ったものだった。だが、フローリアの全身から触手があふれ出し、漆黒の奔流を消し去ってしまう。
「るああああああぁぁぁぁ」
フローリアが叫ぶと、周囲の魂が、濁流に引きずられるように集まってくる。その魂を集めて喰う。すると、漆黒でちぎれた触手が元に戻った。
「これじゃ、きりがない!」
「アビス、俺がやってみる」
レイは白金色の光を広げた。フローリア本体へ届かせようとする。光の小魚たちが、赤黒い外殻へ触れた。弾かれた。見えない壁にぶつかったように、白金色の魚たちは宙で散る。レイの掌に痛みが走った。
「くっ……」
レイは手を押さえた。皮膚の上に、赤黒い筋が一瞬だけ浮かぶ。すぐに白金色の光で消えるが、奥に冷たさが残った。
「届かねぇ」
「なら私が外側を壊す」
「全部壊したら、中まで持ってくぞ」
「ではどうする」
「考えてる!」
「考えている間に喰われる」
「分かってるって言ってんだろ!」
声が荒くなる。その時、メイガスが震える声を漏らした。
「違う……」
レイとアビスが同時に振り向く。メイガスはフローリアを見ていた。顔は涙で濡れている。恐怖で膝も震えていた。それでも、目は逸らしていない。
「全部が、赤いわけじゃない」
メイガスは一歩だけ前へ出た。
「奥に……内側に青い光がある」
フローリアの胸のあたり。赤黒い外殻の奥で、小さな青白い光が揺れていた。レイは目を凝らした。魚だ。赤い泥に巻きつかれ、潰されそうになっている青白い魚。周囲に取り込まれた魂とは違う。もっと深い場所にある。フローリア自身の魂。メイガスが叫ぶ。
「母上は、まだいる!」
アビスの目が細くなる。
「見えた」
「なら、そこだ」
レイは息を整えた。
「お前が外側だけ削れ。中が見えたら、俺がやる」
「できるだろうか」
「やるんだよ」
アビスは答えなかった。黒い光が、再び指先へ集まる。
「俺に攻撃が向いたらやれ」
「わかった」
そう言うや否や、レイはフローリアに向かって駆け出す。
「こっちだ、オバさん!」
「るおおぉぉぉぉぉぉ」
フローリアから触手が伸びると、レイは横に飛んで躱した。
「アビス!」
「当たるなよ、レイ!」
今度は砲撃ではない。ただ壊すための力でもない。
赤黒い外殻の表面をなぞるように、漆黒の線が走った。触れた部分だけがほどける。肉でも骨でもない。魂を縛っていた赤い膜だけが、細かい砂のように崩れていく。
その下から、青白い魚が数匹現れた。
レイが手を伸ばす。白金色の光が流れ込む。
絡みついていた赤がほどけ、青い魚たちは身を震わせた。小さく尾を振り、フローリアの体から抜け出す。
空へ昇った。王宮の天井をすり抜けて、上へ。
メイガスが涙のまま、その光を見上げる。
「帰っていく……」
「まだだ」
レイは次を見た。アビスが削る。レイが解く。また一匹、また一匹。青白い魂が赤黒い泥から抜け出し、空へ帰っていく。
どれほど続けただろうか。フローリアの体が、少しずつ小さくなる。赤黒い束が縮む。背中の触手が細くなる。取り込まれた魂が減るたびに、怪物の形は崩れていった。
「なくなる」
「また、なくなる」
「かえすな」
「失わせるな」
「喰わセロ!」
「喰いたい……喰いたい喰いたい喰いたい喰いたい喰いたいぃぃぃぃぃ!!」
フローリアの体が、大きく膨れた。床に広がっていた赤黒い泥が壁を這い上がる。廊下の奥へ、左右の部屋へ、避難者のいる方へ、無数の触手が伸びていく。遠くで兵士の悲鳴が上がった。レイは走り出す。通路の角で倒れていた兵士の体から、青白い魂が抜けかけていた。赤黒い触手がそれを絡め取ろうとしている。
「させるかよ!」
レイは両手を叩きつけるように光を放った。白金色の小魚が触手に群がり、絡みついた赤を押し返す。兵士の魂はふらつきながら、壁をすり抜けて空へ向かった。
別の触手が、メイガスへ伸びる。アビスが切った。
また別の触手が、廊下の奥へ逃げていた侍女へ向かう。アビスが腕を動かすより早く、レイの光が届いた。触手の動きが鈍る。そこをアビスが切る。
二人とも息が上がっていた。アビスの額には汗が滲んでいる。背中に何度も魂魄接続針を受けた後のように、肩がわずかに震えていた。
レイも掌が痛む。赤い魂に触れるたび、冷たい泥が体の奥へ入ってくるようだった。それでも止まれない。
だが、数が多すぎた。赤黒い魚群は壁から床から天井から滲み出る。切っても、押し返しても、また集まる。
レイは息を吸った。
「なぁ」
赤い魂の群れが揺れた。アビスがわずかに振り向く。レイはフローリアを見た。いや、その中にいる赤い魂を見た。
「お前、魂を助けたいんだろ」
触手の動きが、一瞬だけ鈍る。
「だから取り込んでるんだろ」
「まもる」
赤い声が返った。
「なくなる」
「燃やされる」
「喰われる」
「まもる」
レイは唇を噛んだ。
「でもさ」
レイは続けた。
「それ、取り込んだ魂を消費しちまったら、大魂魄炉と何が違うんだよ」
赤い魚群が、ざわめいた。廊下の灯りが赤く瞬く。フローリアの胸の奥で、青白い魂がかすかに揺れた。
「ちがう」
「われらは、まもる」
「失わせない」
「かえせば、燃やされる」
「空は、穴だらけ」
「海は、壊れた」
「だから、まもる」
レイは、リサの魂を思った。大魂魄炉へ引かれていく、小さな光。空へ帰りたいと言った声。覚えてて、と笑った横顔。胸の奥が焼けるように痛んだ。
「リサも」
レイの声が低くなる。
「こいつらも」
倒れた兵士。逃げ遅れた侍女。王宮の壁を抜けていく小さな魂。フローリアの中で震えている青白い魚たち。
「助けたいんじゃなかったのか」
赤い魂は答えない。レイは一歩前へ出た。
「助けるってのは、閉じ込めて消費することかよ」
フローリアの体が震える。
「帰してやることじゃないのかよ」
沈黙が落ちた。大魂魄炉の唸りだけが、遠くで響いている。赤黒い触手が宙で止まった。完全に止まったわけではない。先端はまだ震えている。けれど、迷っていた。
その時だった。フローリアの片目が、大きく開いた。青い光が、赤黒い泥の奥から滲む。フローリアの口が震えた。
「メイガス……」
今度は、フローリアの声だった。メイガスが息を呑む。
「母上!」
フローリアは赤黒い触手を、自分の腕で押さえつけるように身を折った。喉の奥から苦しげな声が漏れる。
「今よ!」
レイが顔を上げる。フローリアはアビスを見た。
「アビス! 私を殺しなさい!」
メイガスが叫ぶ。
「嫌です!」
フローリアの体から赤い魚が吹き出す。主導権を奪い返されまいと、赤い魂が暴れている。メイガスは首を振った。
「母上を助けてください!」
涙が床に落ちた。
「兄上!」
アビスの目が、メイガスを見る。その呼び方に、通路の空気が少しだけ変わった。兄上。礼儀でも、皮肉でも、血筋を知らないままの呼称でもない。助けを求める声だった。だが。
「メイガス!」
フローリアが叫んだ。
「受け入れなさいメイガス」
「母……上?」
「メイガス。これは私の受けるべき罰なのです」
「罰?」
「見て見ぬふりをし、知るべきことを知ろうともしなかった。その罪への報いなのです」
「でも……」
「でも、あなたは違う。生きなさい。生きて、この間違った世界を終わらせなさい」
アビスはフローリアへ向き直った。そして、一歩踏み出す。漆黒の光が、掌に集まる。しかし、次の瞬間、膝が落ちた。黒い床に、鈍い音が響く。アビスは片膝をつき、片手を床についた。肩が大きく上下している。指先に集まっていた漆黒の光が、霧のようにほどけて消える。
「兄上……」
メイガスは泣いていた。それでも、目は逸らさなかった。
アビスは立ち上がろうとした。だが、足が動かない。何度も力を使い続けた体が、もう限界だった。
フローリアが、苦しげに息を吸った。
「立ちなさい!」
その声は、王妃の声だった。
「アビサリウス!」
アビスの指が床を掴む。フローリアは赤黒い束に首を締められながら、それでも言った。
「私は、あなたが嫌いでした」
メイガスが顔を上げる。レイも、思わずフローリアを見る。アビスは動かない。ただ、床を掴む指先だけに力が入った。
「怖かった」
フローリアは吐き出すように言う。
「憎かった。あなたがいる限り、メイガスは王になれないと、そう思っていた」
赤黒い魚が、彼女の頬を這う。フローリアはそれを振り払えない。
「けれど」
声が震えた。
「その力は、信頼しています」
アビスが顔を上げた。フローリアは彼をまっすぐに見ていた。
「壊しなさい。私ではなく、私を縛っているものを」
アビスは立とうとする。腕が震える。膝はまだ床についたままだった。レイは、その横へ歩いた。
「立てよ」
アビスが睨む。
「命令するな」
「命令じゃねぇよ」
レイは手を差し出した。煤と傷と赤黒い汚れの残る手。
「まだ終わってねぇだろ」
アビスはその手を見た。レイは続ける。
「一人じゃ無理だ。だから使え。俺の力も」
アビスはしばらく黙っていた。それから、レイの手を掴んだ。
白金色の光が、二人の手の間で弾ける。同時に、漆黒の力がレイの腕へ伝わった。冷たく、重く、底の見えない力。
レイは息を呑みそうになる。だが、手を離さなかった。
アビスの方も、白金色の光を受け止めていた。眩しさに顔をしかめる。それでも、拒まない。
破壊と再生。漆黒と白金。
二つの力が、互いを押し潰すことなく、絡み合っていく。
アビスが立った。まだふらついていた。それでも、立っていた。彼はレイを見た。
「行くぞ、レイスティン!」
レイの胸が、一瞬だけ詰まった。そして、歯を食いしばって笑った。
「ああ、アビサリウス!」
二人は同時に踏み込んだ。フローリアの体が暴れる。赤黒い触手が無数に伸びようと蠢く。だが動かない。
「させま、せん!」
フローリアの眼から血が流れる。
「王家の覚悟を……舐めるなァ!」
フローリアの動きが完全に止まった。アビスの手から輝く漆黒の螺旋が放たれる。破壊の漆黒だけではない。白金色に輝く光と、漆黒の二重螺旋。フローリアの体がビクンと跳ね、触手があふれ出し、螺旋とぶつかる。
「燃やされる」
「また、奪われる」
レイは叫んだ。
「だったら、俺たちが炉を止める!」
触手を飲み込んだ漆黒と白金の螺旋が、フローリアの胸へ届く。そこに、赤い核があった。喰われた魂たちの怒り、恐怖、執着が絡まり、固まり、赤黒く濁った塊になっている。それは、泣いているように見えた。レイは息を吐いた。
「もう、閉じ込めんな」
アビスの漆黒が、核の外殻へ触れる。慎重に。壊しすぎないように。それでも、逃がさないように。レイの白金色が、ほどけた隙間へ流れ込む。
「帰してやれ」
赤黒い核に、細いひびが入った。そこから、青白い光が漏れる。一匹。二匹。数えきれないほどの小さな魚が、核の中から溢れ出した。
「そして、お前も帰れ」
赤黒い色が剥がれ、青白い光へ戻っていく。最後に、ひときわ小さな魚が一匹、レイの目の前を通った。その尾びれには、まだ赤い筋が残っていた。レイはそっと手を伸ばす。触れる前に、その魚は自分で尾を振った。
「あとは俺たちに任せろ」
赤い筋がほどける。青白い光になって、上へ昇った。核が崩れた。赤黒い泥が床に落ちる。だが、それはもう蠢かなかった。光を失い、ただの黒い染みのように広がっていく。フローリアの体から、怪物の形が消えていった。残ったのは、王妃だった。白い衣は破れ、体は崩れている。胸には大きな穴が開いていた。そこから血ではなく、薄い青白い光が漏れている。メイガスが駆け寄った。
「母上!」
フローリアは倒れかける。メイガスが支えた。小さな体で、母の体を抱き止めようとする。到底支えきれない。それでも、メイガスは離さなかった。フローリアは手を上げかけた。指先に赤黒い汚れが残っているのを見て、途中で止める。メイガスは、その手を掴んだ。
「母上……」
フローリアの表情が歪む。
「メイガス」
「はい」
「泣かないで、と言うのは……無理ね」
メイガスは何度も首を振った。
「嫌です。僕は、まだ……」
「いいえ」
フローリアは微かに笑った。
「あなたは、生きなさい」
メイガスの喉が震える。フローリアは、視線を動かした。アビスを見る。アビスは立っていた。レイの隣で、息を切らしながら。それでも視線は逸らさない。フローリアは言った。
「こんなことを言える立場ではないのは」
ヒューと音が鳴り、一度、息が詰まる。
「分かっています」
アビスは黙っていた。
「ですが……」
フローリアの指が、メイガスの手を弱く握る。
「メイガスを……」
言葉が途切れる。メイガスが泣きながら叫ぶ。
「母上!」
フローリアは、もう一度だけアビスを見た。
「あなたも……生きなさい」
アビスの目が、わずかに揺れた。フローリアは最後に、メイガスとアビスを交互に見た。
「お願い……ね……」
手から力が抜けた。メイガスが抱きしめる。だが、フローリアの目はもう何も映していなかった。
──王宮の怪物は、消えた。
メイガスの泣き声が、通路に響く。
レイは拳を握った。急がなければならない。そう思う自分が嫌だった。この場で泣いている子供を置いて走ることが、ひどく冷たいことのように思えた。
だが、壁の奥を魂が流れている。青白い小魚たちが、まだ大魂魄炉へ引かれている。その流れのずっと先に、リサがいる。
レイは顔を上げた。
「時間がない」
声はかすれていた。アビスが頷く。
「ああ」
メイガスは母の体にすがったまま、こちらを見ない。アビスは一歩だけ近づいた。少し迷ってから、言った。
「メイガス。母上は頼んだぞ」
ただ、メイガスに預けた声だった。メイガスは泣きながら頷いた。
「……はい」
レイは走り出した。アビスも続く。背後で、メイガスの泣き声が遠ざかる。王宮の奥から、大魂魄炉の唸りが聞こえた。二人は、再び走った。リサを空へ帰すために。
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