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第一章 動乱前夜 / 第3話
乳を同じうして枝を連ねる
いささめに 時待つまにぞ 日は経ぬる
武者子も吾子も ともにはぐくむ
鵆屋は堺の今市町にあり、この辺りは住吉大社の社領である。今市町の西には宿院頓宮があった。
宿院頓宮は住吉大社の御旅所として設けられた社で、夏越の祓には住吉大社より神輿を迎えて、境内西側にある飯匙堀で荒和大祓神事が斎行されることで有名である。夏越の祓は現代のように新暦6月末に行うものではなく、旧暦六月の晦日に夏が終わり翌日から秋になる暦の区切りで行われる物だ。
今市辺りには納屋衆が多く住んでおり、鵆屋や本家の斗々屋だけでなく、親しい天王寺屋も割合近く、皮屋は通りを挟んだ向かいにある。また納屋助右衛門の邸も皮屋と軒を並べていたし、天王寺屋の向こうには、錺屋や木屋なども軒を並べていた。
その鵆屋に、ひっそりと訪れた客人があった。そのため、離れに近づかぬよう父に言われた多呂丸は義母の許に来ている。その義母の許にも小さな可愛らしい客が迎えられていた。
そして、多呂丸は昼過ぎからずっと二人の赤子を眺めている。赤子というのは、泣いては乳を貰い、泣いては襁褓を変えてもらい、キャッキャキャッキャと笑っては、紗衣を独り占めしていた。
紗衣は多呂丸からすると継母ではあるが、これまで紗衣に子がなかったこともあり、実の母子のように仲睦まじい。先日の出産の折には実の母のように死んでしまうのではないかと、子供ながらに心配して、いつでも手伝えるようにと産屋の前から離れなかった。
二人の赤子のうち、一人は十日ばかり前に生まれたばかりの弟・志郎丸である。もう一人は客人に連れられて来た赤子だ。但し、客人の子にしては歳が離れている気がする。名前はたしか千熊丸といった――と思い出していた。
千熊丸は豪奢な御包みを纏い、乳母に抱かれて鵆屋に連れてこられた。どうやら、その実母も乳母も乳の出がよろしくないようで、やってきてからというもの、志郎丸の分も飲んでいるのではないかと多呂丸が心配するほどに、紗衣は千熊丸に乳をやっている。
「あれ、多呂や……多呂もほしいかぇ?」
紗衣は多呂丸がじっと見ているのに気付くと、手招きしてみせた。多呂丸はカッと頬を紅く染めて大きく頭を振る。
「多呂は赤子ではありませぬ! 志郎の分が無ぅなりはせんかと……」
ほほほと、紗衣は笑った。
微笑ましい兄弟愛に嬉しさがこみ上げる。この乱世では同腹の兄弟ですら争うことがあるというのに、異腹の弟を気遣う心が多呂丸にあることが嬉しいのだ。
「かぁさまはたんと乳が出るに、志郎の分など無ぅなりゃせんがね」
笑顔でそう紗衣がいうと、多呂丸はばつが悪そうにしょげ返ってしまった。もう一人の赤子への意地悪と思われたと心配したのだろう。
「多呂はいい兄さまになるねぇ。せやけど、これからは志郎だけやのぅて、千熊さまの兄さまにもならなあ」
そう言うと紗衣はクシャクシャっと多呂丸の頭を撫でた。多呂丸ははにかんで笑顔を紗衣に向ける。幼い童の笑顔に千熊丸の乳母も紗衣の侍女も安堵した表情を浮かべていた。
紗衣の言葉に多呂丸は気づいたことがある。千熊丸がこののちもずっと、鵆屋に滞在するらしいということだ。
武家の子弟というのは母親だけに育てられることは基本的にない。武家の妻というのは夫の留守を守る女主人であり、家臣の妻らの面倒をみる当主の代行者であり、奉公人の差配の役目がある。それ故、特に赤子に掛り切りになることは出来ないからだ。とはいっても、普通は子を外に出すことはない。
乳母に阿波訛りがあったから、父の取引先であろうことは幼い多呂丸にも察しはつく。乳母はここに留まらず、数日ののち国許に帰るのだ。千熊丸の乳母は阿波の豪族の女に違いなく、乳呑児を連れていない。これからは紗衣が千熊丸の乳母となるに違いなかった。それならば志郎丸と千熊丸が乳兄弟になる。
多呂丸は自分の推察が間違っていないと確信した。
紗衣を二人に取られてしまうという一抹の寂しさはあるが、それ以上にこの仲睦まじく眠る二人の赤子が離れ離れにならずに良かったという不思議な感情が多呂丸の心を占めていた。
志郎丸が生まれた大永二年は穏やかな年である。昨年の帝の代替わりから続いた一連の大騒動が片付いたからだろうか。
ことの発端は永正十八年三月七日、細川右京大夫高国と反目した室町幕府第十代将軍権大納言足利義稙が京を出奔したことだった。これに激怒した後柏原帝は延び延びになっていた即位の礼を同月廿二日に執り行う。そのため、即位の礼に武門の棟梁たる征夷大将軍が欠席し、管領ではない細川高国が警護を代行するという異例の事態となった。これにより、細川高国は事実上の天下人となったと諸大名は受け取っている。しかも、高国は幕府の要職に就かず、管領家として幕府そのものを影響下に置いた。
即位の礼は国の内外に天皇の即位を知らせる儀式であり、践祚とは異なる。践祚の儀とは「皇太子が嗣ぐことを御祖神に告げる」ものだ。また、この二つの儀礼を警護するのは武門の棟梁たる将軍の重要な務めである。それを怠ったというのは、朝廷の信頼を損ねることに他ならなかった。
室町幕府というのは、成立からして中央の権勢が強くなかった。鎌倉幕府と異なり、内乱に次ぐ内乱を武力よりも政略によって解決した大名連合政権であり、応仁の乱以後、細川氏の専横で将軍権威は揺らいでいる。かろうじて朝廷と有力大名らの支持によって命脈を保っているに過ぎなかった。
人望のある者や政治力の高い者が将軍であれば、然程問題とはならぬことも、後継者を定めぬまま歿してしまうと内紛の火種を抱えることにもなるし、政治に関心のない者が就けば、私心ある有力大名らに政治が左右されてしまう。ましてや、室町幕府は遠方に奥州探題・羽州探題・九州探題を据え軍事指揮権を与えていた。さらに関東には鎌倉府を置いて分割統治をしている。元々、分裂しやすいのだ。
幕府と鎌倉府の確執は何代にも渡って常態化し、鎌倉公方と関東管領の対立から享徳の乱が起こった。鎌倉府は戦火に飲まれ、古河公方と堀越公方が対立する。しかし、堀越公方がわずか二代で伊勢新九郎盛時入道宗瑞――北条早雲に滅ぼされ、今度は古河公方の父子の対立が永正の乱を引き起こした。これによって伊勢宗瑞の子・左京大夫氏綱が関東を席捲する。
畿内も畠山金吾家の家督争いから起こった応仁の乱によって紊れ、幕府や鎌倉府の統制力は衰えてしまい、実力が問われる戦国の世が幕開けた。
その戦国の世にあって幕府を支えてきた細川京兆家と将軍の仲違いである。元々、高国は積極的に義稙を擁立したのではなかった。大内周防権介義興の軍勢と戦を回避する折衝をする中、疑り深く馬の合わぬ右京大夫澄元が讒言を取り上げたためである。先に高国を敵視したのは澄元だった。
それだけに実にあっさりと義稙追放を決めた高国は、播磨の浦上掃部助村宗と組んで先の将軍・義澄の遺児・亀王丸を京に招くことで、敵対勢力の取り込み政権の安定を図った。赤松義村と播磨各地を転々としてきた亀王丸は、ようやく安住の地を手にする。
永正十八年四月六日、京に入った亀王丸は、細川高国に迎えられ、将軍就任の準備に入った。
七月廿六日には将軍家学問始である「読書始」が始まる。同月廿八日、高国と文章博士・東坊城権大納言和長が選んだ義晴の名乗りを与えられ、従五位下に叙された。
八月九日には、元服前の儀式である涅歯を終え、同月廿三日、称元、永正を大永に改む。同月廿八日、内裏に代始めの参賀を行った。ちなみに、称元とは天皇即位に際して元号を変えることで、在位中に改めることを改元という。
これを受けて、浦上村宗は大永元年九月十七日、赤松義村を暗殺した。
高国の意向を受けた朝廷は、十一月廿五日、将軍継嗣に与えられる左馬頭に亀王丸を任じた。
十二月廿四日、亀王丸は元服して義晴となり、翌廿五日、征夷大将軍に任じられ、政務が始まる。勿論、十一歳の義晴が政務を行える筈もなく、政所執事の伊勢備中守貞忠、飯川山城守国信や大舘左衛門佐尚氏ら義澄を支持していた御供衆や、播磨国に所領を持つ奉公衆・三淵弥二郎晴員の姉で大舘尚氏養女の佐子局らが政務の補佐を行った。
伊勢貞忠は足利義澄・義稙に仕えた伊勢守貞陸の子で伊勢備中守家の当主で、将軍家に代々仕える政所執事の家柄であった。八月に家督を継いだばかりではあったが、父・貞陸は祖父・伊勢守貞宗が義澄の後見をしていたことからも心情的には義澄派であり、義稙に仕えて庶務を取り仕切っていた実務を買われていた。
飯川国信・大舘尚氏はともに奉公衆であり、幕府直属の軍事や代官などを務めている。特に大舘尚氏は父・兵庫頭教氏同様、有職故実に詳しく、御供衆・申次衆も兼務しており、北陸方面を担うほどの将軍側近であった。
その将軍を支えていた細川氏は永正の錯乱から起こった両細川の乱という内訌の只中にある。
其処に阿波守護代三好筑前守之長が登場する。
三好之長は阿波守護・細川讃州家に仕える阿波の豪族で、元々は守護代小笠原家に仕えていた久米氏の一族である。久米氏は伊予の国造を拝命した久米直の後裔で、伊予国久米郡を領していた。この一族が阿波へ入り、三好郡に土着して勢力を伸ばし、小笠原家に仕えた。
三好孫七郎義長が小笠原氏の姻戚となり、細川讃州家当主の信を得てさらに伸張する。父・式部少輔長行の代には讃州家の家宰となった。之長は澄元付の筆頭家臣として京兆家に入ったが、一門衆や古参の内衆に嫌われ、高国に敗れ撤退する。
だが、大内義興が山口に帰郷し、高国の兵力が弱まった隙を突いて畿内へ進出。之長は摂津に拠点を設け、澄元の家督も取り戻し、政権運営も順調かと思われた。が、之長を支持していた讃州家先々代当主の成之、当代当主之持が相次いで亡くなると、四国勢の諸豪族から反発されるようになる。また、澄元と仲が悪く、家中はバラバラであった。
そして、永正十七年等持院の戦いで局地的な勝利を収めたものの、久米氏・河村氏・東条氏などが高国に降ったため、三好勢は大敗する。
高国勢の包囲を破れなかった之長は曇華院に身を潜めたが、高国の知るところとなり、謀られて次子・孫四郎長光、三子・芥川次郎長則、越後守長当の子・新五郎長久と共に斬首された。
千熊丸の父は三好主膳正長基といい、当年廿一歳の若武者だ。細川澄元に仕えた之長の四男であり、嫡子の修理大夫長秀の同母弟である。のちに古今無双の武将として名を馳せる男であるが、現在は病死した澄元の遺児とともに阿波に逼塞していた。
「与右衛門殿、孫四郎様はそなたを大いに頼みにしとると申されとった。頼んだぞ」
親しげに与右衛門に話す人物は六十を少し過ぎたばかりの老人で、物腰も柔らかく人当りも良さそうである。それでいて小兵の割にはガッチリとした体躯をしている。相好を崩して話し入る様子から、与右衛門とは旧知の仲であることが察せられた。
「いやいや、蔵人様こそ、御当代様の御後見。私なぞ微力にもなりゃしまへん」
蔵人とよばれた好々爺は、三好長基の叔父で彦四郎之秀という三好家の長老である。その物腰は飄々としており、一見して戦人とは思えなかった。三好家の人々というのは、文化の匂いのする者が多いのが、与右衛門の好ましきところであった。商人だからと見下げぬところがさらに良い。
「蔵人などと呼んでくれるな与右衛門殿。昔のように気安く彦四郎でよい。それにな、千熊を預かってもらえること以上に、今の大事はあるまいよ」
高々と笑い声を挙げる三好之秀につられて与右衛門も笑い声を挙げた。その裏に、阿波での逼塞が困難を極めることが分かる。
商人として何ができるかなどという気はない。ただ、出来ることをする――与右衛門にはそれしかなかった。
そもそも与右衛門は三好之長と付き合いがある。しかし、之長が堺には進出した折、これをいち早く支援したのは他でもない天王寺屋助五郎――津田宗柏であった。天王寺屋助五郎を引き入れたのは、皮屋新五郎――武野紹晋である。
天王寺屋助五郎と皮屋新五郎の繋がりは本願寺だった。天王寺屋助五郎は本願寺の御用商人であり、皮屋新五郎は熱心な浄土真宗の信徒であった。
当時、まだ納屋衆に名を連ねていなかった与右衛門は、細川京兆家の御用商人である会合衆・備中屋新兵衛に憚らねばならなかった。だが、大店の天王寺屋が率先して動けば、与右衛門も追従できる。備中屋を出し抜いた天王寺屋助五郎と皮屋新五郎、与右衛門は利を独り占めすることなく、会合衆と利を共有した。
このことで、与右衛門は納屋衆に名を連ねることができた。天王寺屋が細川讃州家の御用を担い、皮屋が三好本家、鵆屋は分家を受け持ったが、細川讃州家が阿波に逼塞してから天王寺屋は手を退いている。皮屋は元々三好家のお抱えの兵粮商として付き合いを続け、鵆屋は阿波の特産品を取り仕切って身代を成した。
それ故、三好之秀とは深いつきあいで、与右衛門としては三好家を恃みにしていた。しかし、昨今の情勢はそうもいかない。之長が敗死し、長基が逼塞している現状は与右衛門とて面白くなかった。
「これからな、讃岐の十河まで足伸ばそうと思っての」
十河は讃岐東部の西端に位置する山田郡の中央東部にある。古代に讃岐に下向した神櫛皇子の流れをくむ植田氏の裔が治めていた。現在は七代当主左衛門尉存景が細川高国にも澄元にも属さず中立を保っている。
「ほう、十河殿と申しますと、左衛門尉殿ですかな」
商売のネタになりそうなことであれば、聞き逃すまいと、心の居住まいを正した。
「そう、それよ。あそこに若いのがいてな。孫四郎様の小姓にどうであろうかと思っての」
十河存景には金光丸という十二歳になる男子があった。中立を保つ十河に阿波から楔を打つことで、畿内への進出を容易くしたい意図が明らかである。東讃の最西部に三好の影響が及べば、摂津との経路が一つではなくなり、孤立する危険性が減るのだ。
四国から畿内へと手をのばすには淡路だけの経路では心許ない。最短経路の淡路以外にも補給路や退路は確保しておかねばならぬ。また、軍勢を養う拠点となる摂津にも近い東讃は抑えておきたい重要な土地である。
「なるほど、これはなかなかの買い物でんなぁ」
十河氏は植田氏の中でも庶流であり、元々は神内氏、三谷氏らとともに讃岐守護代安富氏の麾下であった。中立の十河氏が三好氏の後盾を得られれば、郡の中で一つ頭が抜きん出ることになる。
つまり、存景が山田郡の惣領を狙っていることを之秀は知っていた。
「ふぉっふぉっふぉっふぉ、そうであろう、そうであろう」
大仰に頷き返す之秀。与右衛門にもこれで、三好宗家の長老がワザワザ当主の子を伴い堺まで出てきた理由が分かった。
一つは阿波に逼塞する長基の周辺に刺客の危険性が高くなっているということだ。刺客を送りつけているのは高国一派ならやり手の細川右馬頭尹賢辺りだろう。
その一方で、長基も調略の手を讃岐に伸ばし、同族の伊予の久米氏にも阿波へのさらなる移住を呼び掛けていた。ここで十河氏が三好に通じれば安富氏を三好氏の下風に置ける。ならば――
「良き土産が要りますな?」
にっこりと人好きのする笑顔で商売人の顔となった与右衛門に、一頻り之秀が大笑いをした。
「それよ、それ! 与右衛門殿はそうでなくてはならぬ」
「いつも鵆屋をご贔屓にありがとうございます」
与右衛門が態とらしく畳に額を擦り付ける。
さらに高笑いをする之秀に、顔を上げた与右衛門が戯けた表情を見せると、二人で見合って高笑いを挙げた。
一頻り笑い合ったあと、与右衛門は身を正して三好之秀に相対した。畏まった姿に之秀も笑いを収めて真顔を見せる。
「彦四郎様、手前そろそろ身代を譲ろうかと思っておりました」
「ほう。与兵衛殿にか」
「はい。そのつもりで準備も進めておりましたが、彦四郎様のお話を聞くところによりますると、あと数年は先延ばしにしなければならないようでござりますな」
与右衛門は掴んだという顔をした。調略には贈物が必要であり、堺と東讃の商人らには繋がっている。そして、堺の塩は芸予諸島を通って来ており、塩飽水軍や村上水軍との伝手もあった。鵆屋とて納屋衆の端くれ、ここで大商いを捨てる手はない。
「そうしてくれるかの?」
之秀は間髪を入れず答えた。
その眼差しは真剣そのもの。それもそのはず、三好氏は細川讃州家内での発言力を落としている。三好之長か嫡子・長秀が健在ならば、阿波衆も対立するようなことはしなかっただろうが、現在の讃州家に於いて三好への風当たりは厳しかった。味方は一族と寄騎の篠原氏らだけである。ほとんどの阿波衆は之長の強引な遣り口に反対で、それが之長敗死の原因でもあった。本来なら甥の長基を支えるべき次兄・三好越後入道宗安も嗣子・新五郎長久を失って帰参することなく、高国陣営に付いたままだ。とはいえ、之秀とは連絡を取っている。
だからこそ、長基を推戴する之秀は既存の遣り方に拘らなかった。商人と強く結びつこうというのも、その現れである。戦には金が要るのだから、商人を蔑むことなくともに栄えればよいのだ。そして、今は当主を取り巻く側仕えの層を厚くすることである。力ある若者を集めねば、三好家の飛躍の時に人が居らぬとなりかねない。さらには、長基を守れねば意味がなかった。
長基とて若いが、三好は今、赤子の当主を戴く訳にはいかない。長秀が之長に従って上洛した時もそうだった。永正六年六月には、長秀の正室はまだ懐妊の気配すらなく、長基を長秀の養子にするよう推したのは之秀だった。翌年の三月に産まれた長秀の遺児は之秀が引き取り養育している。ゆくゆくは長基に許しを得て一家を立てさせてやるか、子のない之秀の跡を継がせても良いやも知れぬと思っていた。
「勿論でございますとも。彦四郎様と御当代様が再起する手助け、身代が傾かぬ限りさせていただきましょう」
「恩に着る」
今度は之秀が頭を下げた。
之長もそうだったが、三好家の人々は商人とも対等に付き合ってくれる。これは与右衛門でなくとも嬉しいことだった。
「彦四郎様、頭を上げてくだされ」
「儂の頭で済むものなら、いくらでも下げようほどに、な」
長基の頭は下げさせぬつもりなのであろう。与右衛門とてそこを求める気はなかった。過ぎたるは猶及ばざるが如しである。
「お顔をお上げくだされ。鵆屋は武家に頭を下げさせるなどと評判になっては困りまする故」
「これは失敬、そうなっては大事よな」
再び二人は笑い合い、与右衛門は下女を呼んで酒の支度を命じた。
「これは助かる。新五兄上は風流で茶を好むが、儂はよう好かん。酒に限ろうて」
生粋の武人でありながら、連歌や能楽にも通じる之秀であったが、抹茶は苦手であった。その割には甘い物に目がなく、唐物菓子である「桂花糕」という金木犀を用いた琥珀糖を好んでいる。
当然ではあるが、今も高坏に盛られて之秀の前に出されていた。高坏とは菓子器の一つで、主に干菓子を載せる高い一つ脚の台が付いている。坏と呼ばれる皿の部分と盤と呼ばれる土台を裾拡がりになった脚が繋いでいた。下女が運んで来たそれは奈良塗四方高坏で坏と盤が二層の四方形となった珍しい物である。
与右衛門の妻の実家である斗々屋では唐人の料理人を雇っていて珍しい菓子などを作らせている。之秀が来ると分かっていれば桂花糕などを作らせるのは難しくなかった。
「では、酒が入る前に又甥の顔でも見てくるかの」
「今時分は孫と一緒に寝ているかも知れませぬが」
之秀は高坏から一つ摘まんでは口に放った。
「酒臭うては赤子に嫌われるでな」
寝顔だけでも良いからと、之秀が立ち上がると、与右衛門が先導して母屋へ連れ立って行く。穏やかな五月の一日が過ぎ去ろうとしていた。
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