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第7話 / 全8話
――昭和二十年四月七日、鹿児島・鹿屋。
朝の空は、雲ひとつなく晴れていた。
昨日まで吹いていた風も、今朝は不思議なほど穏やかだった。
けれど、鹿屋基地の滑走路には、朝から張りつめた空気が漂っていた。
滑走路の脇には、勤労奉仕隊の女学生たちが並んでいる。
その手には、桜の枝。
飛び立つ飛行機を見送るために、少女たちは笑顔を作っていた。
「頑張ってください!」
「ご武運を!」
「万歳!」
次々に声が上がる。
美桜も、その列の中にいた。
両手で桜の枝を握りしめている。
笑わなければならない。
笑って、送り出さなければならない。
そう思っていた。
けれど――胸の奥は、今にも張り裂けそうだった。
滑走路の向こうに、深緑色の零戦が並んでいる。
朝陽を受けた風防が、まぶしく光った。
その一機に、湊がいる。
美桜は目を凝らした。
小さな人影が、機体のそばを歩いている。
七生報国の鉢巻きを締めた青年。
その歩き方だけで、湊だと分かった。
美桜の手が、桜の枝を強く握る。
――昨日まで、一緒に笑っていた人。
――麦畑で風を眺めていた人。
――傷ついた手を、私が手当てした人。
――一緒に麦茶を飲んだ人。
たった七日間。
けれど、美桜にとっては、忘れることのできない七日間だった。
その七日間が、今日で終わろうとしている。
湊は整備兵から最後の確認を受けると、ゆっくりと操縦席へ身を沈めた。
胸元には二枚の写真があった。
一枚は母の写真。
そして、もう一枚は美桜の写真。
指先でそっと写真をなぞる。
「母さん……」
そして、もう一度。
「……美桜さん」
昨日の夜、美桜に手渡した封筒のことを思い出した。
あの手紙には、言葉にできなかったことを、すべて書いた。
直接言えば、きっと涙が出てしまう。
だから、文字にした。
本当は――
生きて帰りたかった。
それが湊の本当の気持ちだった。
国のために死ぬ覚悟を決めた。
恐れてはいなかった。
けれど、死にたくないと思わなかったわけではない。
美桜と出会ってしまったから。
美桜と過ごしてしまったから。
もっと話したかった。
もっと笑いたかった。
もっと、あの麦畑の風を一緒に感じたかった。
そして、いつまでも守ってあげたかった。
湊は小さく息を吐いた。
2枚の写真を計器盤に張り付け、そして操縦桿に手を置いた。
その脳裏に、昨日詠んだ短歌が浮かんだ。
散る命
花に宿りて 君待たん
春の桜に 風となりても
湊は目を閉じた。
「……約束します」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「必ず、君のそばへ帰る」
そのとき、滑走路に号令が響いた。
「発進準備!」
地上員が小旗を振る。
プロペラが回り始めた。
轟音が、静かな朝を一気に引き裂いていく。
美桜の身体が震えた。
もう時間がない。
「湊さん……」
唇から、名前がこぼれる。
機体がゆっくりと動き始めた。
美桜は必死に目を凝らした。
その瞬間だった。
操縦席の湊が、こちらを見た。
一瞬。
ほんの一瞬だった。
二人の視線が重なった。
湊の目が大きく揺れる。
そして――
にっこりと笑った。
敬礼。
美桜の目から涙がこぼれた。
「湊さん……!」
思わず一歩、滑走路へ踏み出す。
そして、声の限り叫んだ。
「湊さん!」
エンジンの轟音が、その声を飲み込んでいく。
湊も何かを叫んでいる。
美桜には聞こえない。
けれど、唇が動いた。
――美桜さん。
そう言っているように見えた。
そして最後に、
――ありがとう。
湊の機体が加速する。
美桜は走った。
桜の枝が手から落ちる。
「湊さん!」
何度呼んでも、声は届かない。
零戦が滑走路を駆け抜ける。
そして――
大地から離れた。
深緑色の機体が、春の青空へ舞い上がっていく。
その後を、直掩機(護衛)が追っていった。
美桜は立ち止まった。
空を見上げる。
小さくなっていく機影。
涙で滲んだ空の中へ、それは吸い込まれるように消えていった。
美桜は胸の前で両手を握った。
「……湊さん」
届かない言葉を、空へ送った。
約二時間半後。
上空を飛ぶ十五機の零戦の前方に、海が広がっていた。
直掩隊を率いる平田大尉が、隣を飛ぶ湊の機体へ手を向ける。
その指の先。
水平線の彼方に、灰色の巨影が浮かんでいた。
敵艦隊。
その中心に、空母がいる。
湊は目を細めた。
「……見えた」
その瞬間だった。
空を切り裂くような音が響いた。
敵機。
P-51マスタングが、太陽を背にして急降下してくる。
「敵機!」
次の瞬間、機銃の閃光が空を走った。
湊の左前方を飛んでいた高木少尉の機体が激しく揺れた。
主翼の付け根から火花が散り、黒煙が噴き出す。
「高木!」
高木機はなおも編隊を保とうとしていた。
風防越しに見えた高木が、ちらりとこちらを振り返る。
そして手を上げた。
それは別れを告げるような、短い敬礼だった。
次の瞬間、敵弾が燃料タンクを貫いた。
機体が炎に包まれる。
「やめろ……!」
湊の叫びも届かない。
高木機は黒煙を引きながら大きくらせんを描き、青い海へ落ちていった。
やがて白い水柱が立ち、親友の乗る零戦は海面の向こうへ消えた。
湊は奥歯を食いしばり、操縦桿を強く引いた。
機体が大きく傾く。
弾丸が風防をかすめ、金属片が飛び散った。
「くっ……!」
悲しんでいる時間はない。
背後からさらに敵機が迫る。
機銃音が空を切り裂いた。
海面に白い水柱がいくつも立った。
湊は機体を急旋回させた。
遠心力で視界が暗くなる。
それでも、操縦桿を離さなかった。
そのときだった。
別の直掩機が、湊の後方へ回り込んだ敵機に向かって突っ込んでいった。
一瞬、炎の中に操縦席が見えた。
操縦士が敬礼している。
「村瀬!」
平田大尉が叫ぶ口元が見えた。
「行け!」
湊が前を見る。
「俺たちが盾になる!」
平田大尉が空母を指さした。
湊は一度だけ振り返った。
そして、操縦桿を前へ倒した。
「了解!」
機体が急降下する。
海がみるみる近づいてくる。
波頭が風防の向こうを流れていく。
空母へ向かう。
ただ、それだけを考えた。
その途中で、湊の脳裏に麦畑が浮かんだ。
風に揺れる麦。
麦茶の入った湯呑み。
笑う美桜。
そして――
「……七日間か」
湊は小さく笑った。
あまりにも短かった。
けれど。
あまりにも濃かった。
生まれてから今日までの人生よりも、あの七日間のほうが長く感じるほどだった。
もう一度、美桜の顔が浮かぶ。
「……会いたい」
思わず声が出た。
それは、軍人としての言葉ではなかった。
ただ、一人の青年としての願いだった。
生きて帰りたい。
美桜のいる場所へ。
もう一度だけ――
「美桜さん……」
その瞬間、背後から敵機が迫った。
機銃音。
湊は操縦桿を引いた。
弾丸が海面を叩く。
雲が目の前に迫った。
湊は迷わず、その白い壁へ飛び込んだ。
一瞬で視界が消える。
機体が大きく揺れた。
計器の針が激しく振れる。
湊は歯を食いしばり、機体の姿勢を立て直した。
右へ。
左へ。
背後の敵機を振り切る。
そして――
雲を抜けた。
青空が広がった。
敵影はない。
「……振り切った」
湊は小さく息を吐いた。
しかし、安堵したのはほんの一瞬だった。
眼下に、再び敵艦隊が見える。
空母。
その周囲を取り囲む艦艇。
甲板には無数の艦載機が並んでいる。
煙突からは黒い煙が立ち上っていた。
湊は電信機へ手を伸ばした。
指が震えている。
それでも、電鍵を握った。
「ホタ、ホタ、ホタ……ツー」
我、空母ニ体当タリ。
突入の合図。
鹿屋基地へ送られた信号が、電信室に届く。
「村瀬少尉殿、ホタ三連、確認!」
電信兵の声が響いた。
長音が続く。
湊は操縦席の前に貼った二枚の写真を見た。
母の笑顔。
美桜の微笑み。
湊はそっと写真に触れた。
「엄마(母さん)……」
そして、
「미오 씨(美桜さん)……」
胸の中で、最後に名前を呼ぶ。
空母が大きくなっていく。
対空砲火が始まった。
黒い煙が次々と湧き上がる。
機体が揺れる。
それでも湊は、操縦桿を握った。
恐怖は、不思議となかった。
ただ一つだけ。
心残りがある。
美桜に、直接伝えられなかった。
本当は――
大好きだった。
いや。
今も、好きだ。
湊は写真を見つめた。
「美桜さん」
そして、静かに笑った。
「ありがとう」
操縦桿を前へ押し込む。
空母の甲板が迫る。
甲板を走る兵士たちの姿が見える。
黒い砲煙が視界を覆う。
それでも、湊は目を逸らさなかった。
「約束は……果たします」
その瞬間――
白い閃光が、視界いっぱいに広がった。
鹿屋基地。
第一電信室。
長音が続いている。
誰も言葉を発しない。
ただ、電信機の音だけが響いていた。
「……長音、続行中!」
電信兵が叫ぶ。
その声の直後――
音が途切れた。
「……」
室内が静まり返った。
電信兵が、震える声で報告した。
「長音……途切れました」
誰も答えなかった。
ただ、その一言だけが地下壕の中に残った。
――突入。
その意味を、誰もが知っていた。
同じ頃。
滑走路では、美桜がまだ空を見上げていた。
青空に、一本の飛行機雲が伸びている。
それはゆっくりと薄くなり、春の空へ溶けていった。
美桜の頬を、風が撫でた。
一枚の桜の花びらが舞ってくる。
美桜は目を閉じた。
その花びらが、頬に触れた。
不思議だった。
まるで――
誰かの指先に触れられたようだった。
「……湊さん?」
風が吹く。
桜の枝が揺れる。
美桜の髪が、風に舞った。
胸の奥に、あの人の声が聞こえたような気がした。
――約束は、果たします。
美桜は目を開けた。
けれど、そこには誰もいない。
ただ、桜が咲いている。
美桜は花びらをそっと手のひらに包んだ。
「……来てくれたんですね」
涙が一筋、頬を伝った。
けれど、その顔には微かな笑みが浮かんでいた。
声は聞こえなかった。
最後に何を言ったのかも、分からなかった。
それでも。
あの目。
あの笑顔。
あの敬礼。
それだけで、十分だった。
美桜は空を見上げた。
「ありがとう、湊さん……」
風が、もう一度吹いた。
桜の花びらが空へ舞い上がる。
一枚。
また一枚。
まるで、春そのものが空へ昇っていくようだった。
美桜は、その中に湊の姿を探した。
見えるはずはない。
それでも――
どこかにいる気がした。
桜の中に。
風の中に。
そして、自分の胸の中に。
美桜はそっと、花びらを握った。
「……待っています」
誰にも聞こえない声で呟いた。
風が頬を撫でる。
その風は、どこまでも優しかった。
――春の風だった。
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