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第6話 / 全8話
――鹿児島・鹿屋、昭和二十年四月六日
鹿屋基地の空は、春の気配を孕みながらも、どこか重苦しい雲に覆われていた。
湊は軍服の裾を整えながら、ゆっくりと歩き出した。
胸の中で何度も言葉を繰り返す。
――美桜さんに伝えなければ。
後悔を残さないように。
その思いが、足取りを自然に早めていた。
美桜の家にたどり着くと、障子越しに灯る柔らかな明かりが湊を迎えた。
薄く漏れる光の向こうに、縁側に座る美桜の姿が見える。
湊の気配に気づいた美桜が振り向いた。
驚きと喜びが入り混じった笑みが浮かぶ。
「湊さん……こんな時間に?」
「少しだけ……お邪魔してもいいですか」
「もちろんです」
美桜は立ち上がり、湊を迎え入れた。
二人が向かい合って座る。
しかし、湊はすぐには話さなかった。
膝の上で握った手に力が入っている。
やがて、懐から小さな封筒を取り出した。
「これを……美桜さんに預かってほしいんです」
美桜が受け取る。
封筒には、丁寧な文字で宛名が書かれていた。
李・玉順様へ
「……お母さま?」
湊は静かにうなずいた。
「僕の母に宛てた手紙です」
美桜の指が震える。
「軍の規則に反するかもしれません。でも……どうしても残しておきたくて」
「私が届けます」
美桜は迷わず答えた。
湊が顔を上げる。
「まだ、何も言っていないのに」
「わかります」
美桜は手紙を胸元に抱いた。
「必ず届けます。湊さんのお母さまに」
湊はしばらく美桜を見つめ、それから小さく頭を下げた。
「ありがとう……」
そして、もう一通の封筒を取り出した。
「これは……美桜さんへ」
美桜の目に涙が浮かぶ。
「今、読まなくてもいいです。ただ……言葉にできない大切な想いを書いておきました」
「はい」
美桜は両手で大切に受け取った。
「大切にします」
湊は少し照れたように笑った。
しばらくして、湊がぽつりと言った。
「……一つ、お願いしてもいいですか」
「はい」
「美桜さんの写真が欲しい」
美桜は息を止めた。
「最後に……持って行きたいんです」
その言葉に胸を締めつけられながら、美桜は立ち上がった。
箪笥の奥から、一枚の写真を取り出す。
春の日差しの下で撮った写真だった。
湊はそれを両手で受け取った。
しばらく写真を見つめてから、そっと胸元へしまう。
「……大切にします」
「私も……」
美桜は言葉を詰まらせた。
湊もまた懐から小さな封筒を取り出した。
「僕の写真です」
美桜が受け取る。
中には、真っ白な第二種軍装に身を包み、日本刀を両手で前に持って立つ湊の写真が入っていた。
凛とした表情。
けれど、その瞳にはどこか少年のような優しさが残っている。
美桜の目から涙がこぼれた。
「帰ってきて……お願い、湊さん」
湊は何も言わない。
「魂じゃなくて……本当に帰ってきて」
湊は微笑んだ。
けれど、その笑顔の奥にあるものを、美桜は見てしまった。
恐怖だった。
湊もまた、怖いのだ。
死にたくないのだ。
それでも、彼はそれを口にはしなかった。
美桜は涙を拭い、震える声で短歌を詠んだ。
港路に
散らぬ桜の 祈りあり
君を待ちつつ 春は暮れぬる
湊は目を閉じた。
その歌を胸の奥へ刻み込むように。
「……ありがとう」
そのとき、襖の向こうから美桜の母の声がした。
「美桜。お客様に、お茶でも出しなさい」
「はい、お母さん」
美桜が立ち上がろうとすると、母はすでに湯気の立つ椀を運んできた。
味噌汁と漬物。
決して豪華なものではない。
けれど、戦時下の食卓に用意された精一杯のもてなしだった。
「米があったらよかですが……せめて、これだけでも」
美桜の母は湊の前に椀を置いた。
湊は深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
湊が味噌汁を口に運ぶ。
その瞬間、目の奥が揺れた。
故郷の台所。
忙しく働く母の背中。
春の畑。
土の匂い。
そして、桃の花。
昨日、美桜に話した記憶が、一気に胸へ押し寄せてくる。
――花を飾ると、家の中にも春が来るね。
母の声が聞こえたような気がした。
湊は箸を置いた。
俯いたまま、小さく呟く。
「……돌아가고 싶어」
帰りたい。
続いて、さらに小さな声が漏れた。
「죽고 싶지 않아……」
死にたくない。
その言葉は、誰にも届かなかった。
いや――美桜だけが、聞いていた。
美桜は何も言わなかった。
ただ、そっと湊の手に自分の手を重ねた。
湊は顔を上げた。
二人の目が合う。
しばらくして、湊は静かに笑った。
「美味しいです」
「……そうですか」
「母の味を思い出しました」
美桜の母は、何も聞かずに微笑んだ。
「それなら、よかった」
短い言葉だった。
けれど、その言葉が湊の胸をさらに熱くした。
食事を終えると、湊は立ち上がった。
「お世話になりました」
玄関へ向かう。
美桜が後を追う。
「湊さん」
「はい」
「……明日は何時(いつ)」
湊は一瞬だけ黙った。
「明朝、出ます」
美桜の顔から血の気が引いた。
けれど、湊は笑った。
「だから……今夜は、ありがとうございました」
深く頭を下げる。
そして夜の闇へ消えていった。
美桜は縁側に座り込み、その背中が見えなくなるまで見つめていた。
やがて、遠くから軍靴の音が聞こえてきた。
一歩。
また一歩。
規則正しい音が、静かな夜に響いている。
その音が遠ざかるにつれて、美桜の胸の奥が締めつけられていった。
基地へ戻った湊を、一人の青年が待っていた。
「遅かったな」
湊が振り向く。
同じ隊の仲間、高木少尉だった。
「少し……会ってきた」
高木は何も聞かず、湊の顔を見た。
「女か?」
湊は少し照れたように笑った。
「うん」
高木は笑った。
「そうか」
二人はしばらく並んで歩いた。
やがて高木が言った。
「……写真、持ってるだろ」
湊は驚いたように彼を見る。
「どうしてわかった?」
「お前、帰ってきてからずっと懐を気にしてる」
湊は苦笑した。
そして、ポケットから美桜の写真を取り出した。
月明かりの下で、写真を見る。
「大切な人なんだ」
高木は写真を覗き込まず、ただ静かにうなずいた。
「そうか。お前にも、帰りたい場所ができたんだな」
湊は空を見上げた。
「……うん」
少し間を置いて、
「母のところにも帰りたい」
と呟いた。
高木は黙った。
そして、
「俺もだ」
と答えた。
「俺も、母ちゃんに手紙を書いた」
二人は顔を見合わせた。
「何て書いた?」
「元気でいる、って」
「嘘だな」
高木が笑う。
湊も笑った。
「お前もだろ」
二人の笑い声が、夜の基地に小さく響いた。
しかし、その笑いは長く続かなかった。
高木が空を見上げる。
「なあ、村瀬」
「ん?」
「もし……帰ってこられたら」
「うん」
「酒でも飲もう」
湊は笑った。
「お前、酒弱いだろ」
「うるさい。お前よりは強い」
「じゃあ、俺は一杯だけ付き合う」
「それじゃ酔う前に終わるじゃないか」
二人はまた笑った。
けれど、互いにわかっていた。
「帰ってこられたら」という言葉が、どれほど遠いものなのか。
高木は笑顔を消し、湊の肩を軽く叩いた。
「……明日だな」
「うん」
それ以上、二人は何も言わなかった。
翌朝。
障子の隙間から差し込む光で、美桜は目を覚ました。
胸の奥が重い。
今日は、湊が出撃する日だった。
美桜は静かに起き上がり、湊から受け取った写真を手に取った。
写真の中の湊は、いつものように凛とした表情をしている。
その顔を見つめていると、昨日の声が蘇ってくる。
――ありがとう。
――また、春に。
美桜は写真を胸に当てた。
「……行ってきます」
まるで湊に告げるように呟いた。
身支度を整え、家を出る。
門の前では、千代が待っていた。
「美桜ちゃん」
「千代ちゃん……」
千代は美桜の顔を見ると、何も聞かずに隣へ並んだ。
「行こう」
「うん」
二人は並んで歩き始めた。
朝の鹿屋の町には、いつもと変わらない春の風が吹いている。
道端には桜の花びらが舞っていた。
けれど、美桜には、その景色が昨日までとは違って見えた。
「……怖い?」
千代が尋ねる。
美桜は少し黙ってから答えた。
「うん」
正直な言葉だった。
「でも……見送りたい」
「うん」
千代はそれ以上何も言わなかった。
ただ、美桜の歩幅に合わせて歩いた。
やがて、二人の前方に鹿屋基地へ向かう人々の姿が見えてきた。
同じように勤労奉仕へ向かう女学生たち。
その誰もが、今日が特別な日であることを知っていた。
遠くから、飛行機のエンジン音が聞こえてくる。
美桜の足が止まった。
「……湊さん」
基地の方角を見つめる。
胸の奥で、鼓動が激しくなる。
千代がそっと美桜の手を握った。
「行こう」
「……うん」
二人は再び歩き出した。
鹿屋基地の門が、少しずつ近づいてくる。
その向こうに、湊がいる。
そして今日――
美桜は、彼を見送る。
二人は春の朝の中を、静かに基地へ向かって歩いていった。
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