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第1話 / 全8話
――鹿児島・鹿屋、昭和二十年四月一日。
春の風が、麦畑をやさしく撫でていた。
陽は高く、空はどこまでも澄み渡り、遠く桜並木の枝先には、ほのかに色づいた花が揺れている。
戦の影が町を覆っていても、季節は確かに巡っていた。
鹿屋の春は、静かに、そして確かにそこにあった。
白石美桜は、麦束を抱えて畑の端に立っていた。
鹿屋生まれ鹿屋育ちの彼女は、女学校に通いながら勤労奉仕隊に志願し、毎日農作業に励んでいる。
父は出征中、兄は戦地で命を落とし、母と祖母と三人で暮らしていた。
それでも、美桜は笑顔を忘れなかった。心の奥底で抱える孤独や不安を、決して表には出さなかった。
短歌帳は、制服の胸ポケットにいつも入っている。
ほんの小さな帳面だった。
紙も上等なものではない。何度も開いた跡があり、表紙の端には擦り切れたところもある。それでも美桜にとって、それは大切なものだった。
誰にも言えない想いも、口にすることのできない寂しさも、その小さな帳面の中だけには書くことができた。
春風に
麦の波立ち 君を待つ
声なき想い 空にとけゆく
小さく口ずさむ声は、風に紛れて消えていった。
美桜は短歌帳を胸ポケットに戻すと、再び麦束を抱え直した。
その時だった。
麦束の端が制服に引っかかった。
「あっ……」
美桜が慌てて抱え直した拍子に、胸ポケットから小さな短歌帳が滑り落ちた。
けれど、彼女はそのことに気づかなかった。
そのまま数歩、畑の中へ歩いていく。
風が吹いた。
地面に落ちた短歌帳の表紙が、風に煽られてわずかに開いた。
そこへ、一人の青年の影が差した。
「……これは」
青年は足を止め、地面に落ちていた帳面を拾い上げた。
その時、美桜の視界の片隅に、商店街から歩いて来たであろう青年の姿が入った。
彼は軍服を着ていた。
襟章には帝国海軍少尉の印。
濃紺の詰襟に、きっちりと折り目のついた濃紺のズボン、黒革の革靴が陽の光を受けて鈍く光っている。
制帽の庇の下からのぞく瞳は鋭く、それでいてどこか哀しげだった。春の風が、彼の軍服の裾をかすかに揺らす。
その姿は、戦場へ赴く若き将校というより、風に溶けてしまいそうな儚い影のようでもあった。
彼の歩みは静かで、しかし一歩一歩に重みがあった。
村瀬湊――本名はキム・ヨンファ。
京城帝国大学から学徒出陣し、筑波教育航空隊で半年の訓練を経て、鹿屋基地に配属されたばかりの特攻隊員だった。
彼の瞳は、どこか遠くを見ていた。
この町に初めて降り立ったはずなのに、風景に懐かしさを感じていた。
それは、故郷の春を思い出していたからかもしれない。
――京城(現ソウル)の春。
漢江のほとりに並ぶ柳の若葉、石畳の路地に差し込む淡い陽光、母が縫ってくれた学生服の匂い。
大学の講堂で聞いた哲学の講義、友と語り合った未来。
そのすべてが、遠い幻のように胸をよぎる。
美桜は、麦束を胸に抱えたまま、動けずにいた。
青年の姿に、なぜか目が離せなかった。
その瞳の奥には、言葉にならない哀しみと覚悟が宿っているように見えた。
美桜は、自分でも理解できない胸のざわめきを感じた。
戦時下で生きる者たちの背負う重荷に、ふと共鳴したのかもしれない。
青年は、手にしていた小さな帳面へ目を落とした。
表紙には、丁寧な文字で「短歌帳」と書かれている。
そして、開いた頁に目をやる。
そこには、先ほど美桜が口ずさんでいた短歌が記されていた。
青年の指が、ほんの一瞬止まった。
「……短歌」
小さく呟く。
その声に、美桜は、青年の手元を見た。
「あ……」
青年が手にしているものを見て、美桜はようやく気づいた。
「それ……」
青年は帳面を差し出した。
「落とされました」
「ありがとうございます」
美桜は慌てて駆け寄り、両手で受け取った。
胸ポケットへしまおうとしたが、なぜか手がうまく動かない。
「……読まれましたか?」
美桜が恐る恐る尋ねた。
青年は一瞬だけ目を伏せた。
「申し訳ありません。開いてしまいました」
「いえ……」
美桜は帳面を胸に抱いた。
恥ずかしさで頬が熱くなる。
誰かに読まれるつもりで書いたものではなかった。
まして、初めて会った軍人に見られるなど、考えたこともない。
「短歌を……お好きなんですか?」
青年が尋ねた。
「はい……。好きというほどのものではありませんけど」
「でも、書かれている」
「書かないと……消えてしまいそうな気がするんです」
美桜はそう言ってから、自分でも驚いた。
どうして初めて会った人に、こんなことを話しているのだろう。
青年は、しばらく黙って美桜を見つめていた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「……それは、大切なことだと思います」
「え?」
「言葉にできる想いがあるというのは……羨ましいことです」
その言葉には、どこか遠い響きがあった。
まるで、もう言葉にすることのできない何かを抱えているようだった。
美桜は、青年の顔を見つめた。
鋭いと思っていた瞳の奥に、深い寂しさがあることに気づいた。
「少尉さんは……」
そこまで言って、美桜は言葉を止めた。
何を尋ねようとしたのか、自分でも分からなかった。
青年もまた、何も言わなかった。
二人の間を、春の風が静かに通り抜けていく。
やがて青年が軽く頭を下げた。
「失礼します」
「あの……」
美桜の声に、青年が足を止めた。
「鹿屋は……初めてですか?」
青年は振り返った。
「ええ」
少しだけ間を置いて答える。
「今日、来たばかりです」
「そうですか……」
「あなたは、この町の方ですか?」
「はい。ずっと鹿屋です」
美桜がそう答えると、青年は麦畑を見渡した。
「……きれいな町ですね」
その言葉に、美桜は小さく笑った。
「戦争が終われば、もっときれいになります」
青年は何も答えなかった。
ただ、空を見上げた。
その横顔を見て、美桜はなぜか胸の奥が締めつけられるような気がした。
彼がどこへ行くのか。
なぜ、そんな顔をしているのか。
その時の美桜には、まだ何も分からなかった。
「それではまた」湊はそれだけを告げると、静かに歩き始めた。
美桜は、軽く会釈をした。
湊は一瞬目を見開き、そして唇の端をわずかに上げた。
その仕草だけで、美桜の胸は不思議なほど高鳴った。
麦束の重さも、土の匂いも、すべてが遠くなっていくようだった。
美桜は、目の前の青年がただの訪問者ではなく、何か特別な存在であることを直感していた。
湊もまた、美桜の清らかな佇まいに、戦場で忘れかけた何か温かい感情を思い出していた。
彼女は歩き出す。湊もまた、静かに背を向け歩き始める。
振り返ることはなかった。
けれど、二人の心には、確かに何かが芽吹いていた。
戦争という影の下で、芽吹いた小さな光。
それは、誰にも壊されない、確かな希望の予感だった。
その日の夕方、麦畑に残る風の匂いは、日常の中のほんの一瞬の安らぎを運んでいた。
遠くで揺れる桜の枝先も、戦時下の町のざわめきも、すべてが春の光に溶けていくようだった。
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