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第2話 / 全8話
――鹿児島・鹿屋、昭和二十年四月二日。
昨日と同じように、春の風が吹いていた。
美桜は再び、勤労奉仕の作業で麦畑に立っていた。
手にする鍬の重みよりも、胸の鼓動の方が気になる。
あれから、あの青年の姿が何度も心に浮かんでいたのだ。
朝の光に照らされた麦の穂先は金色に輝き、風に揺れるたびにささやくような音を立てる。
遠くで小鳥がさえずり、土の匂いと麦の香りが混ざる。
見た目は、平和な春の光景だというのに、胸の奥には、昨日の出会いのざわめきがまだ残っていた。
昨夜、美桜は布団の中で何度も短歌帳を開いた。
そして、昨日拾ってくれた青年の事を思い出していた。
――少尉さん。
小さく呟いてみる。
誰にも聞かれないように。
けれど、自分で口にした瞬間、胸がまた少しだけ高鳴った。
美桜は慌てて短歌帳を閉じた。
そして今朝、畑に立ってからも、青年将校の事が頭から消えてくれなかった。
「……何を考えてるの、私」
自分に言い聞かせるように呟き、鍬を土へ打ち込む。
その時だった。
ふと、風の向こうに影が揺れた。
顔を上げると、そこに立っていたのは――あの軍服の青年、村瀬湊だった。
彼は海軍第三種軍装に身を包み、青褐色の略帽をかぶっている。
背広型のジャケットには胸と腰に四つのポケット。
襟元にはグレーのシャツが覗き、ネクタイを締め、少尉の徽章が光っている。
軍服というより、どこか作業着に近い質感だ。
それでも、彼の立ち姿には不思議な凛々しさがあった。
湊は麦畑の道をゆっくりと歩いてくる。
陽光が略帽の庇に反射し、影が彼の瞳を隠すたび、美桜の胸の奥がざわめいた。
心臓が早鐘のように打ち、手元の鍬が少し揺れる。
昨日会ったばかりなのに。
それなのに、また会えたことが嬉しかった。
湊は美桜の近くまで来ると、畑の様子を眺めた。
「お手伝いしましょうか」
低く穏やかな声だった。
美桜は驚いて鍬を持つ手を止める。
「いえ……大丈夫です。慣れていますから」
湊は少し笑った。
その笑顔は、戦争の影に閉ざされた日常の中で、不意に差し込む光のように柔らかかった。
「そうですか。ですが、見ているだけというのも、落ち着きませんね」
「では……少しだけ、お願いできますか?」
美桜がそう言うと、湊は目を細めた。
「喜んで」
湊は鍬を受け取り、慣れない手つきながら土を耕し始めた。
「軍人さんなのに、鍬も使えるんですね」
「軍人だからといって、他の事ができないわけではありませんよ」
「ふふっ」
美桜は思わず笑った。
昨日まで、遠い存在のように感じていた人が、今は目の前で土を耕している。
そのことが、なぜか可笑しかった。
湊もつられて笑う。
しばらく二人で作業を続けた。
やがて湊の額に汗が浮かんだ。
美桜はそれに気づき、作業道具の脇に置いていた水筒を手に取った。
「……あの」
「はい?」
「よかったら、飲みませんか?」
差し出したのは、家から持ってきた麦茶だった。
湊は一瞬、驚いたような顔をした。
「私がいただいても?」
「はい。たくさん入っていますから」
「でも……」
「暑いでしょう?」
美桜は少し笑った。
「少尉さん、玉のような汗をかいていらっしゃるから」
その言葉に、湊は目を丸くした。
そして、静かに笑った。
「ありがとうございます」
水筒を受け取り、一口飲む。
「……おいしい」
「ただの麦茶ですよ」
「いえ」
湊は水筒を見つめた。
「久しぶりに飲んだ気がします」
「麦茶を?」
「こういう、誰かが作ってくれたものを……です」
その声には、ほんの少し寂しさが混じっていた。
美桜は何も言わなかった。
ただ、湊が水筒を返す時、その手がほんの少し震えているのに気づいた。
故郷を思い出しているのだろうか。
母親を。
家族を。
美桜には分からなかった。
けれど、その寂しさだけは、なぜか自分にも分かるような気がした。
視線を下ろした先で、麦束が風に揺れる。
その動きに合わせ、湊も静かに立ち止まり、見守っている。
互いに言葉は少ないが、沈黙の中に確かな呼吸のリズムが流れていた。
やがて、風がまた吹いた。
美桜の髪が頬にかかる。
湊は無意識に手を伸ばしかけて――途中で止めた。
彼女の黒髪に触れることが、あまりにも許されないことのように思えたからだ。
戦地で任務を背負った自分が、ここで一瞬の安らぎを得ることの罪深さを、心のどこかで感じていた。
「……お名前を、うかがっても?」
沈黙を破ったのは湊だった。
美桜は少し迷ってから、微笑みながら、胸元の名札をそっと指先で示した。
「白石美桜です。美しい桜で“みお”と読みます」
その響きに、湊の瞳が柔らかく揺れた。
「いい名前ですね」
湊の声には、どこか懐かしさが滲んでいた。
遠く京城で過ごした日々、母の手仕事、友と語り合った春の光景――それらの記憶が美桜の名とともに胸をかすかにくすぐる。
「私の名は――村瀬湊。“湊”は港の湊です」
美桜は瞬きした。
「港……?」
湊は微笑む。
「ええ、人や船が集まる場所。あなたの“美桜”も、人を惹きつける花の名前でしょう。どちらも、誰かを迎える名前だと思いませんか?」
「でも、少尉さんの字は“港”ではないですよね……」
美桜が少し困ったように言う。
湊は一瞬きょとんとし、それから声を立てずに笑った。
「なるほど。確かにそうですね」
ふたりは顔を見合わせ、初めて自然に笑い合った。
その笑顔の中に、昨日の緊張感や戦争の影は一瞬消えたように感じられた。
麦の穂が金色の波を描き、光がふたりを包む。
「村瀬さんは……鹿屋の方ではないのですか」
「ええ。京城から来ました」
「京城……遠いところですね」
湊の瞳が、ほんの少しだけかげった。
遠く離れた故郷。
そして、会えない母のこと。
胸の奥に押し込めた孤独が、春の光の中でほんのかすかに顔を出した。
「ええ、遠い。でも、似ています。春の匂いも、風のやわらかさも」
「……ご家族は?」
「母がひとり。もう会えないかもしれませんが、それでも……この空の下で同じ季節を感じられれば、それで十分です」
その言葉に、美桜の胸が熱くなった。
自分も父を戦地へ送り、兄を戦地で失っている。
だからこそ、その言葉の重さが分かった。
何かを言いたかった。
けれど、言葉は出なかった。
代わりに、そっと短歌帳を取り出す。
少し迷ってから、一枚の紙を破り、湊に差し出した。
「昨日、詠んだ歌です」
春風に
麦の波立つ 丘の上
名も知らぬ人の 瞳思へり
湊は紙を両手で受け取り、しばらく黙って見つめた。
やがて穏やかな笑みを浮かべる。
「……名も知らぬ、ですか。もう、知ってしまいましたね」
美桜の頬が赤く染まった。
「そう……ですね」
風に揺れる麦の穂と同じように、ふたりの影が寄り添う。
その瞬間――
「ウーッ! ウーッ!」
空襲警報のサイレンが町に響き渡った。
美桜は息を呑み、麦束を落とした。
遠くの空に黒い影。
編隊を組んだ爆撃機が、ゆっくりと近づいてくる。
「伏せて!」
湊の声が鋭く響いた。
次の瞬間、彼の腕が美桜の肩を強く引き寄せ、地面に押し倒すように伏せた。
耳に爆音が轟き、土が跳ね、風が唸り、空が裂ける。
湊の体温がすぐそばにある。
軍服の硬さと腕の力強さ。
「動かないで」
低く、震える声。
美桜は目を閉じた。
怖かった。
けれど、それ以上に、すぐそばにいる湊の存在が心を支えていた。
やがて爆撃の音が遠ざかっていく。
サイレンも、しばらくして途切れた。
静寂が戻った。
湊はゆっくりと体を起こし、美桜に手を差し出した。
「……お怪我はないですか」
美桜は小さくうなずいた。
「私は……大丈夫です」
そう答えてから、美桜は湊の腕を見た。
軍服の袖に、小さな裂け目があった。
その下から、赤いものが滲んでいる。
「村瀬さん……」
「はい?」
「腕……」
湊は自分の腕を見下ろした。
「ああ……これですか」
まるで他人事のように笑う。
「たいしたことありません」
「でも、血が出ています」
「かすり傷です」
「動かさないでください」
美桜の声が思いのほか強くなった。
湊が驚いたように美桜を見る。
美桜は自分のポケットから白い手拭いを取り出した。
「これを……」
「白石さん、いいですよ。これくらい――」
「いいえ」
美桜は首を振った。
「兄も……戦地で怪我をしていたのに、何も言わない人でした」
その言葉に、湊の表情が変わった。
美桜は一瞬、言い過ぎたと思った。
けれど、もう手を止めることはできなかった。
そっと湊の袖をめくり、傷口の周りについた土を拭う。
傷はそれほど深くはなかった。
それでも、血はじわじわと流れていた。
美桜は手拭いを細く折り、傷口に当てる。
「少し、きつくしますね」
「……はい」
二人の距離が近くなる。
湊は黙って美桜の横顔を見ていた。
長い睫毛。
風に揺れる黒髪。
そして、鍬を握り続けた手にできた小さな豆。
「あなたの手も……」
「え?」
「痛そうです」
美桜は自分の手を見た。
確かに、掌には小さな豆ができていた。
「これくらい、大丈夫です」
「そうですか」
湊は少し笑った。
「では、お互い様ですね」
美桜もつられて笑った。
さっきまで空を覆っていた爆撃機の影は消えていた。
けれど、二人はまだ地面に座ったままだった。
美桜はふと空を見上げた。
青い空。
そこには、何事もなかったかのように白い雲が浮かんでいる。
戦争は、そんな空の下で人の命を奪っていく。
それなのに、今この瞬間だけは、不思議なほど穏やかだった。
「……ありがとうございました」
美桜が言った。
「何がですか?」
「守ってくださって」
湊は答えなかった。
しばらく空を見上げていた。
「……あなたが無事でよかった」
それだけを、静かに言った。
美桜の胸が強く締めつけられた。
それが恋なのかどうか、その時の美桜には分からなかった。
ただ、この人には生きていてほしい。
そんな思いが、初めて胸の中に生まれていた。
――その夜。
美桜は眠れなかった。
布団の中で何度も寝返りを打つ。
昼間の出来事が、何度も頭の中によみがえってくる。
麦茶を飲んだ湊の顔。
柔らかな笑顔。
空襲の時に自分を抱き寄せた腕。
そして、自分がその腕に手拭いを巻いた時の、あの静かな眼差し。
美桜はそっと布団から起き上がった。
家族を起こさないよう、月明かりの差し込む窓辺へ座る。
そして、短歌帳を開いた。
昨日までは、ただ名前を知りたいと思っていた。
今日は、その人が無事でいてほしいと思っている。
美桜はしばらく白い頁を見つめた。
やがて、鉛筆を手に取る。
一度書いて、消す。
また書いて、消す。
そして、ようやく言葉を選んだ。
春風に
君と出会いし 麦畑
明日も会えよと 月に願えり
書き終えると、美桜はしばらくその歌を見つめた。
「……明日も、会えるかな」
小さく呟く。
短歌帳を閉じようとして、ふと手を止めた。
昨日、湊が拾ってくれた帳面。
今日、その人の名前を書いた帳面。
そして今、その人を想う歌を書いた。
美桜は短歌帳を胸に抱いた。
その頃、鹿屋基地の一室でも、湊は眠れずにいた。
机の上には、昼間、美桜から渡された一枚の紙。
そこに書かれた短歌を、何度も読み返していた。
春風に
麦の波立つ 丘の上
名も知らぬ人の 瞳思へり
湊は静かに目を閉じた。
京城の母。
大学で語り合った友。
もう戻ることのできない日々。
そして――今日、麦畑で出会った少女。
「……美桜さん」
その名を口にした瞬間、胸の奥に温かなものが広がった。
けれど、それと同時に、ひとつの現実が重くのしかかった。
自分は特攻隊員なのだ。
この先に待っているのは、十死零生(じゅっしれいしょう)。
だからこそ、この想いを育ててはいけない。
そう思うのに――
昼間の美桜の笑顔が、どうしても消えてくれなかった。
春の夜は静かだった。
麦畑を渡る風だけが、遠くから基地へと吹き抜けていた。
二人はそれぞれの場所で、同じ夜空を見上げていた。
まだ知らない。
この出会いが、自分たちの人生を大きく変えていくことを。
そして、この春が、二人にとってどれほど短い時間になるのかを――。
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