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第6話 / 全14話
式の直前だというのに、ネクタイがどうしてもうまく結べなかった。
鏡の前で何度やり直しても、結び目は妙にずれるし、長さも合わない。指先が汗ばんでいるせいだと分かっていても、ますます焦る。背後ではスタッフが慌ただしく行き交い、廊下の向こうからは参列者のざわめきがかすかに届いていた。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
今日結婚するのだ。何度も想像してきた日だった。祭壇の向こうで笑う彼女の顔を思い浮かべるだけで、胸の奥が熱くなる。ここまで来たのだという実感と、もう後戻りできないのだという緊張が、同時に喉元までせり上がってくる。
そのとき、控室の扉が静かに開いた。
振り向くと、彼女が立っていた。
「あ、ちょうどよかった」
思わず、ほっとした声が出た。
「ネクタイ、やばい?」
「やばい。全然だめ」
「見れば分かるよ」
呆れたように言いながら、彼女は近づいてくる。その口調が昔と変わらなくて、肩の力が少し抜けた。
昔からそうだった。自分が変な方向へ焦ると、彼女は横からさっと手を出して、黙って整えてしまう。文化祭の準備のときも、卒業式の日も、就職祝いで慣れないスーツを着た夜も、そうだった気がする。
「ほんと、お前のほうがこういうの上手いし」
そう言うと、彼女の指先が一瞬だけ止まった気がした。だがすぐに、何事もなかったように結び目を整えていく。近くで見る横顔は少し強張って見えたが、今日は自分の式なのだ。緊張しているのは自分だけではないのかもしれない、と思った。
白い指が首元を直していくのを見ながら、ふと昔のことを思い出した。
高校三年の冬。駅前のコンビニの前。寒くて、自販機の温かい缶コーヒーを両手で持っていた夜だった。
――俺、お前といると落ち着く。
あのときは、あれで精いっぱいだった。もっとちゃんと、好きだと言えばよかったのかもしれない。けれど彼女は笑って、「なにそれ、お父さんみたいってこと?」と返したのだ。
少しだけ傷ついた。
少しだけ、終わったと思った。
でも今になって思えば、あれでよかったのだろう。あのとき彼女が曖昧に笑って流してくれたから、気まずくならずにここまで来られた。友情のまま、長くそばにいられた。今日だってこうして、人生のいちばん大事な日に、控室まで来てくれている。
あのときの彼女の返事は、優しさだったのかもしれない。
「はい、できた」
彼女が少しだけ身を離す。鏡を見ると、さっきまでの惨状が嘘みたいに整っていた。
「ありがとう。やっぱりお前に頼んで正解だった」
そう言うと、彼女はかすかに笑った。うまい笑い方だった。昔からそうだ。感情をしまうのがうまい。
「緊張してる?」
「そりゃするよ」
正直に答えると、自分でも少し可笑しくなった。
「でも、あいつの顔見たら落ち着くと思う」
「あいつ、って」
「嫁さん」
口にしただけで、胸のあたりがやわらかくなる。
彼女は本当にすごいのだ。自分のだめなところを責め立てるんじゃなくて、笑いながら受け止めてくれる。うまくいかない日も、格好悪い失敗も、全部ひっくるめて「まあ、あなたらしいよね」と言う。その明るさに、何度救われたか分からない。
「俺が失敗しても笑ってくれるし、だめなとこも込みで信じてくれるんだよ」
話しながら、自然と頬が緩むのが分かった。
たぶん今、自分はひどく分かりやすい顔をしている。けれど、それでよかった。今日はそういう日だ。
彼女は「……そっか」とだけ言った。
そこで、なぜだか昔のことを口にしたくなった。
懐かしさと、感謝と、もう終わった話だという安心とが、一緒くたになっていた。
「昔はさ」
彼女が顔を上げる。
「昔は、ほんとお前に夢中だったんだけどな」
言った瞬間、彼女の表情がわずかに固まった。
しまった、と思う。さすがに結婚式当日に言う話じゃなかったかもしれない。昔のこととはいえ、変に気まずくさせたか。
けれど、それでも伝えておきたかった。
自分の中ではもう、とっくに整理のついた大切な過去だったからだ。
「今は、ちゃんとあいつのことが好きだよ。だから、今日ここに立ててる」
それは彼女への言い訳ではなく、自分の今の気持ちを確かめるような言葉だった。
本当にそうだった。過去に彼女を好きだったことと、今、別の人を心から愛していることは、どちらも嘘ではない。人生はそういうふうに続いていくのだと、ようやく分かる年になった。
「……うん」
彼女は小さく頷いた。
少し顔色が悪い気もしたが、式の前なのだから無理もない。自分のことみたいに緊張してくれているのだろう、と都合よく思う。
控室の外から、スタッフが名前を呼んだ。
いよいよだ。
「行ってくる」
そう言って、彼女の肩を軽く叩く。触れた肩は、思ったより少しだけ強張っていた。
「来てくれてありがとう」
「おめでとう」
「幸せになるよ」
「……うん。幸せになってね」
ちゃんと笑ってくれたので、少し安心した。
やっぱり彼女はいいやつだ、と思う。昔も今も、肝心なときにいてくれる。
扉を開けて、廊下へ出る。
数歩進いたところで、さっきの彼女の表情がふと頭をよぎった。何か、ほんの少しだけ変だった気もする。昔の話をされたのが気まずかったのだろうか。あとでちゃんと謝ったほうがいいかもしれない。
でも、その考えは次の瞬間にほどけて消えた。
扉の向こう、祭壇の先に新婦の姿が見えたからだ。
白い光の中で立つ彼女は、驚くほどきれいだった。目が合うと、少し照れたように、けれどまっすぐ笑う。その笑顔を見た瞬間、胸の奥にあった細かな迷いや違和感は全部さらわれていった。
ああ、自分はこの人と生きていくのだと思った。
この先、失敗もするだろう。喧嘩もするだろう。それでも一緒に歳を取って、小さな日常を積み重ねていくのだ。その未来が、ただ眩しかった。
拍手が湧く。
祝福の音の中を、一歩ずつ進む。
そういえば、と歩きながら思う。
さっきのお礼を、披露宴が終わったらちゃんと言わないといけない。ネクタイを直してくれたことも、今日来てくれたことも。彼女にも、いつかこんなふうに笑える相手ができたらいいと思う。そのときは、自分もちゃんと祝おう。
きっと彼女は少し呆れた顔で笑うのだろう。
相変わらずネクタイもまともに結べないんだから、と。
新婦の前までたどり着く。
彼はそこでようやく、世界でいちばん幸せなのは自分かもしれないと、何の疑いもなく思った。
背後の控室に残された嗚咽のことなど、想像もせずに。
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この作品は第3話『祝福の手』の彼の視点の補完物語です。
もし、未読でしたら。ぜひご一読いただければと思います。
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