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第7話 / 全14話
私が聖女の生贄に選ばれた日、村の井戸水は朝からひどく冷たかった。
冬でもないのに、指先が痺れるほどだった。桶を持つ手が震えて、水面に映る自分の顔がゆらゆら歪む。神殿からの使者はもう来ていて、村長の家の前には白い布が張られ、誰もが腫れ物に触るみたいな目で私を見ていた。
聖女の生贄。
魔王封印の楔を繋ぎ直すため、王都の大聖堂の地下へ一人、捧げられる。
名目は“尊い務め”。実際には、生きたまま魔力を吸われ続け、肉も心も削られて、最後には祈る機械みたいになるだけだと知っていた。
逃げたい、と言えなかった。
言えば、村ごと異端として焼かれるかもしれない。そういう時代だった。
だからただ、黙っていた。
「私が行くわ」
そう言ったのは、ルシアだった。
私の幼なじみで、親友で、そしてアレンの想い人だった。
「何言ってるの」
真っ先に怒鳴ったのはアレンだった。
彼は昔からそうだった。私が泣きそうな時には怒った顔をする。自分の怖さを、他人を守る勢いに変える人だった。
「ふざけるな、そんなの駄目だ」
「駄目じゃない」
ルシアは静かに言った。金色の髪を耳にかけて、いつものように穏やかに笑っていた。
「ミレイは神力が強すぎる。生贄にしたら封印の負荷に耐えきれず、もっとひどい形で壊れるって、神官さまが言ってたでしょう。私の方が適合するなら、その方がいい」
「いいわけあるか!」
アレンの声が震えていた。
怒っているのに、今にも泣きそうだった。
私は何も言えなかった。
言えるはずがなかった。
行かないで、と叫びたかった。けれどそれは、行ってくれと願うのと同じ意味だった。
ルシアは私を見た。
責める目じゃなかった。
ただ、どうか受け取って、と祈るみたいな目だった。
「ミレイ、生きて」
その一言で、私は地獄に落ちた。
ルシアが生贄となり、私とアレンは村を出た。
聖堂の連中は“封印は安定した”とだけ告げ、彼女がどうなったかは何も言わなかった。
アレンは変わった。
最初は、彼女を救い出すためだった。
王都の神官に頭を下げ、断られれば剣を取り、禁書を漁り、封印の術式を調べ、魔王を倒せば楔の仕組みそのものを壊せると知るや、ためらいなく討伐隊に加わった。
そのうち彼の中から、“ためらい”というものが消えていった。
敵の喉を裂く時の目が、死んでいた。
怪我をしても痛がらない。
眠らない。
食べない。
ただ前へ進む。強くなる。もっと強く。ルシアを奪ったもの全部を壊すために。
私もついていった。
彼を一人にしてはいけないと思った。
それに、私だってルシアを取り戻したかった。彼女を犠牲にして生き延びた自分のままでいたくなかった。
でも、アレンは次第に私を見なくなった。
「アレン、休んで」
「時間がない」
「そんな体で戦ったら??」
「お前に何が分かる」
低い声だった。
「ルシアは今もあそこで削られてる。お前は外で息をしてるだけだ」
反論できなかった。
私は外で息をしている。
彼女の代わりに。
「……私だって、救いたい」
「なら、黙ってついてこい。足を引っ張るな」
その言葉に、私は何度も傷ついた。
でもそれ以上に、少しだけ安堵していた。
怒られているうちは、まだ私が彼の視界にいると思えたから。
魔王城攻略の最後の戦いで、アレンは本当に鬼みたいだった。
黒い血を浴びても怯まず、折れた剣を拾い直してなお進む。魔王の瘴気で人が狂う中、彼だけが狂ったまま正気を保っていた。
執念だけで立っている人間だった。
私は後方で回復術を使い続けた。何度も倒れそうになりながら、彼の命綱みたいに魔力を流し込んだ。
あの日、ルシアが私に言った「生きて」を、今度は彼に向けるみたいに。
そして魔王は倒れた。
崩れかけた玉座の奥、大聖堂の地下に繋がる古い転移門が現れた。
その先で、私たちはルシアを見つけた。
白い石の祭壇に横たわる彼女は、生きていた。
けれど、それは“助かった”という意味の生ではなかった。
瞳は開いているのに、何も映していない。
肌は蝋みたいに青白く、呼吸だけが細く続いている。
魔力を吸われ続けて、心だけきれいに抜かれた抜け殻みたいだった。
「ルシア」
アレンが膝をついた。
その声だけで、胸が潰れそうになった。
私はそんな声を知らなかった。怒りでも絶望でもない、壊れた祈りそのものみたいな声だった。
彼は彼女を抱き上げた。ひどく丁寧に、砕け物に触れるように。
「連れて帰ろう」
私は泣きながらうなずいた。
これで終わると思いたかった。
魔王は倒した。ルシアは取り戻した。時間はかかっても、きっと少しずつ??
「お前は触るな」
凍るような声だった。
私は顔を上げた。
アレンはルシアを抱いたまま、私を見ていた。
その目にあるのは憎しみだった。濁りのない、磨き上げられた憎悪だった。
「……何、言って」
「お前が行くはずだったんだ」
私は息を呑んだ。
「ルシアはお前の代わりにここへ来た。お前はそれを受け入れて、外で生きた」
「私は……でも、あの時は……!」
「見捨てたんだよ」
はっきりと、言い切られた。
「ルシアはお前を守った。お前は守られたまま、俺と一緒に英雄ごっこをしていただけだ」
英雄ごっこ。
その言葉で、私が戦場で流した血も涙も、全部玩具みたいに軽くなった。
「違う……私だって、ずっと」
「黙れ」
アレンは立ち上がった。ルシアを抱いた腕が、ひどく穏やかだったのに、私を見る目だけが鋭かった。
「俺はこの人を一生かけて守る。もう二度と、誰にも奪わせない」
「私も、ルシアを??」
「お前に、その資格はない」
資格。
親友だった。
助けられた。
だから取り戻したかった。
でも彼の中では、私は最初の一度で永遠に失格していた。
王都に戻ってから、アレンは本当にすべてを捧げた。
魔王を倒した英雄として称えられても、宴には出ない。勲章も領地も受け取らない。人里離れた修道院を買い取り、そこをルシアの療養所にした。
彼は毎日、彼女の髪を梳き、体を拭き、スープを匙で口に運び、眠れぬ夜にはただ手を握り続ける。
彼女は何も返さない。
笑わない。
喋らない。
もう彼の名も、私の名も知らないかもしれない。
それでもアレンは満たされた顔で彼女の傍にいる。
私の入り込む隙なんて、爪の先ほどもない。
一度だけ、修道院の門を叩いたことがある。
せめて謝りたかった。せめて、ルシアの顔を見たかった。
扉を開けたアレンは、昔の面影がないほど静かな顔をしていた。
「帰れ」
「お願い、少しだけでいいから」
「この人の聖域を、お前で汚すな」
静かな声だった。怒鳴りもしない。そのぶん、永遠に覆らない判決みたいだった。
私は門前で立ち尽くし、閉ざされた扉を見ていることしかできなかった。
私は間違っていなかった。
あの時、私が死ぬべきだったとは限らない。ルシアが自分の意志で選んだのだ。私は彼女に強いたわけじゃない。
そう、自分に言い聞かせる。
でも別の声が消えない。
それでも、お前は止めなかった。
行かないでと言わなかった。
生きたいと願って、彼女の献身の上に立った。
その事実だけは、どうしても消えない。
夕暮れの修道院は遠く、窓辺に灯る明かりが小さく揺れていた。
あの中で彼は、今日もルシアの額に触れているのだろう。目覚めることのない彼女に、届くかも分からない言葉をかけているのだろう。
私はその外にいる。
正しかったはずの私と、裏切った私。
そのどちらにもなりきれないまま、閉ざされた聖域の前で、ずっと立ち尽くしている。
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