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第5話 / 全14話
式場の控室は、白と金で整えられていた。柔らかな照明、磨かれた鏡、花の匂い。どこを見ても幸福のために用意された場所で、私だけが場違いな染みみたいに椅子へ浅く腰かけていた。
「ネクタイ、曲がってるよ」
言うと、彼は鏡越しに困ったように笑った。
「ほんとだ。頼んでいい? 昔から、お前のほうがこういうの上手いし」
昔から。
その一言だけで、胸の奥がじくりと痛んだ。私は立ち上がって彼の前へ回り、ネクタイに触れる。指先が少し震えたけれど、彼は気づかない。気づかれないように、生地を整え、結び目を少しだけ上へ押し上げる。
何度も見てきた首元だった。学生のころ、文化祭のあとで制服のネクタイを緩めながら「苦しい」と笑っていた顔も、就職祝いの席でスーツ姿に照れていた横顔も、私は全部知っている。
知っているだけだった。
「ありがとう。やっぱりお前に頼んで正解だった」
そう言って笑う彼の左手には、もう指輪があった。新婦と揃いの、静かな銀色。光が当たるたび、私の視界のどこかが焼けるみたいだった。
正解だった、なんて。
私だって一度は、その“正解”になれたはずなのに。
高校三年の冬、駅前のコンビニの前で、彼はたしかに言ったのだ。
「俺、お前といると落ち着く」
雪の気配がする夜で、白い息が彼の言葉を曇らせていた。あのとき私は、冗談めかして笑ってしまった。
「なにそれ、お父さんみたいってこと?」
彼は少し黙って、それから「まあ、そういうのでもいいや」と笑った。
よくなかったのだ。
あれは、あの不器用な人間なりの告白だったのだと、ずっと後になってから分かった。
素直になっていればよかった。
怖がらずに、私も好きだと言えばよかった。
たったそれだけのことをしなかったせいで、人生はこんなにも遠くまでずれてしまう。
「緊張してる?」
私が尋ねると、彼は少し照れくさそうにうなずいた。
「そりゃするよ。でも、あいつの顔見たら落ち着くと思う」
「あいつ、って」
「嫁さん。すげえんだよ。俺が失敗しても笑ってくれるし、だめなとこも込みで信じてくれる」
悪気なんてひとつもない声だった。
だから残酷だった。
ああ、この人は幸せなんだ。
心の底から、この先を楽しみにしているんだ。
もし彼が不幸なら、どこかで救いがあった。選択を間違えたのは私でも、まだ何かが壊れる余地があるような気がした。でも彼は違う。彼は、ちゃんと愛されて、ちゃんと愛して、その先で家庭を作っていく。来年には子どもが生まれるかもしれない。休日には小さな手を引いて公園を歩くのかもしれない。熱を出した夜に夫婦で慌て、運動会のビデオを何度も見返し、そうやって、私のいない時間を積み上げていくのだ。
私が欲しかった日常を、別の女が当然みたいな顔で受け取っていく。
「お前には感謝してる」
ふいに彼が言った。
「え?」
「昔、お前がいてくれたから、俺、結構救われてたんだと思う」
やめて、と思った。
そんな優しい言い方をしないでほしかった。
「……そっか」
「昔はさ」
彼は少し懐かしそうに笑った。
「昔は、ほんとお前に夢中だったんだけどな」
時間が止まった気がした。
昔は。
夢中だった。
その過去形は、刃物より綺麗に私を刺した。
ああ、やっぱりあったのだ。私が手を伸ばせば届いた未来が。私の名前を呼び、私のために花を選び、私との子どもの名前を考えたかもしれない男が、たしかにいたのだ。
でもそれは、もう終わっている。
終わったと本人の口から告げられてしまった。
「今は、ちゃんとあいつのことが好きだよ」
「……うん」
「だから、今日ここに立ててる」
知ってる。
見れば分かる。
その穏やかな顔を、私は一番見たくなかった。
控室の外からスタッフが呼ぶ声がした。式が始まる。彼は「行ってくる」と言って、私の肩を軽く叩いた。昔と同じ、親しい友人に向ける距離感で。
「来てくれてありがとう」
「おめでとう」
「幸せになるよ」
「……うん。幸せになってね」
ちゃんと笑えたと思う。
彼が背を向けて扉を出ていくまでは。
扉が閉まった瞬間、喉の奥から熱いものがせり上がった。吐きそうだった。鏡の前に駆け寄ると、祝福用に整えた笑顔が崩れて、ひどく醜い顔が映っていた。
「どうして……」
声が掠れる。
「どうして、私じゃないの……」
答える人はいない。
控室には花の匂いだけが満ちていて、それすら甘すぎて気分が悪かった。
私はポーチの中から、小さなキーホルダーを取り出した。昔、彼がゲームセンターで取ってくれた不格好なマスコット。鎖は少し錆びて、塗装も剥げている。あのころは宝物だった。今はただ、手放せない呪いの証拠みたいだった。
ぎゅっと握ると、硬い輪っかが掌に食い込む。
この痛みくらい、もっと早く知っていればよかった。
言えなかった一言の代償が、こんな一生ものになるなんて知らなかった。
外から拍手が湧いた。
きっと彼が、光の中へ出ていったのだ。
私は誰もいない控室で膝をつき、祝福の音を聞きながら、声を殺して泣いた。
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