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第4話 / 全14話
魔王の結界に関する報告書を、アルクは焚き火のそばで何度も読み返していた。
広域殲滅呪詛。発動は速く、密度は高い。通常の治癒や防護では間に合わない。突破には、呪詛そのものを浄化しながら前衛を生かし続ける広域再生が必要になる――そう記されている。
リゼでは足りない。
その一文を、アルクは頭の中で何度も言い換えた。
届かない。間に合わない。守れない。
どれにしても意味は同じだった。
連れて行けば、彼女は死ぬかもしれない。いや、高い確率で死ぬ。最初の一撃をしのげたとしても、その次で崩れる。もし彼女が倒れれば、自分は魔王より先にそちらを見るだろう。剣を振るうべき一瞬に、彼女の名を呼ぶだろう。
それで世界が終わるかもしれない。
だから切るしかなかった。
そう自分に言い聞かせても、喉の奥に何か固いものが残った。
夜営の火を囲んで、リゼに告げたとき、アルクは戦場で命令を下す時と同じ声を作った。
「次の戦いに、君は連れていけない」
彼女の顔から血の気が引くのが分かった。
それでも目を逸らさなかった。少しでも迷いを見せれば、彼女は食い下がる。死んでもいいから行くと言う。その声を聞けば、自分はたぶん負ける。
「君の治癒は優秀だ。だが次は足りない」
口にした瞬間、三年分の旅路がその言葉ひとつで切り捨てられていく気がした。雪原で凍えた夜、毒に沈んだ仲間を眠らず看た朝、血まみれの自分の腕を押さえながら、それでも詠唱を止めなかった横顔。全部知っている。知っていて、足りないと言った。
テントの外から、白銀の法衣の衣擦れがした。
寝返ってきた聖女セレナが、静かに立っていた。
あの場でリゼの目に映ったものが何だったのか、アルクには分かっていた。上位の代替。より強く、より速く、より正しい聖女。自分が選んだ、新しい隣。
違う、と言えなかった。
違わない部分が、確かにあったからだ。
その夜遅く、セレナは一人でアルクの前に来た。
「あなたは、彼女を救ったつもりですか」
問いは柔らかかったが、刃のようだった。
「救う?」
「戦場から退けた。死なせないために」
アルクは火の向こうを見たまま、しばらく答えなかった。
やがて笑いとも息ともつかない音を漏らす。
「世界を救う勇者の権限で、ひとりの女を追い出した。立派な話じゃない」
「否定はしないのですね」
「できるか」
セレナは少し黙った。
その横顔に軽蔑はなかった。ただ、事実を受け取る聖職者の静けさだけがあった。
「それでも最適解は私です」
「分かっている」
「なら、明日は祈ります。あなたのためではなく、世界のために」
「十分だ」
それで話は終わった。
愛でも慰めでもなく、ただ役目の確認だけが残った。
最終決戦は、報告書の通りだった。
黒い呪詛は雨のように降り、地面は呻き、空気そのものが腐った。セレナの浄化は正確で速かった。銀の光が呪詛の層を裂き、アルクの剣がその隙間に叩き込まれる。何ひとつ間違えられない戦いだった。
この場にリゼはいられなかった、とアルクは何度も思った。
そうでなければ剣を振り切れないからだ。
それでも、ふとした瞬間に思い出すのは、リゼの手つきだった。戦闘前、肩の留め具が緩んでいれば黙って直してくれたこと。呼吸が浅くなると、腹で吸えと小さく叱ったこと。傷の程度を見て、無茶をする顔じゃない、と眉を寄せたこと。
セレナの光は完璧だった。
完璧すぎて、そこに積み重ねられた三年がないことだけが、妙に空虚だった。
魔王城が崩れ、闇が割れた瞬間、世界は救われた。
アルクは剣を突き立てたまま、しばらく立ち尽くしていた。
正しかった。
この選択でなければ届かなかった。
なのに勝利の中心には、ぽっかりと穴が開いていた。
王都へ戻ると、祝祭が待っていた。
花びらが舞い、金の盃が掲げられ、吟遊詩人たちが声を張る。
――勇者は剣を掲げ、白き聖女は祈りを捧ぐ
――二つの光は重なりて、ついに夜を討ち払う
――世界を救うは、運命に結ばれし双星
反吐が出る、と思った。
隣ではセレナが微笑んでいた。聖女らしく、非の打ち所なく。だがその横顔が歌に酔っていないことを、アルクは知っていた。彼女もまた、この歌に切り落とされた時間があることを理解している。
宴の最中、レオが酒の勢いで小さく漏らした。
「……リゼ、最近ずっと酒場にいるらしい」
その一言に、アルクの指先がわずかに止まった。
荒れている、と続ける者もいた。祝歌が流れるたび顔色を変える、と。まともに飲めもしないのに毎晩来る、と。
最低だと思いながら、アルクは安堵していた。
生きている。少なくとも、まだどこかで息をしている。
それだけでよかったはずなのに、その“よかった”が胸の奥を鈍く抉った。
祝宴を抜け出し、城下を見下ろす回廊へ出る。夜風の向こうに、歓声と歌がまだ流れていた。酒場の灯りが遠く連なっている。そのどこかに、彼女はいるのだろう。
アルクは自分の手を見た。
魔王を討った手。世界を救った手。
そして、ひとりの女の誇りを折って、物語の外へ押しやった手でもあった。
「リゼ」
呼んでも、もちろん届かない。
「許さなくていい」
独り言は夜に沈む。
役立たずだと思っていてもいい。冷たい男だと恨んでいてもいい。祝歌の届かない薄暗い席で、惨めに酒を飲んでいてもいい。そうしてでも、生きていてくれと思う。
英雄の隣で死ぬ栄誉なんて、君にはいらない。
欲しかったのは、世界を救ったあとのどこかに、君がまだ生きているという事実だけだ。
それがどれほど身勝手な願いか、アルクは知っていた。
知っていて、なお手放せなかった。
遠くでまた、祝歌が上がる。
勇者を呼ぶ声がする。
アルクはゆっくりと手を握りしめ、それから開いた。汚れはもう落ちないのだろうと思う。正しさでつけた傷は、たぶん正しさでは塞がらない。
それでも彼は、再び光の中へ戻っていく。
理想の勇者として、人々の前に立つために。
祝福の歌はなお高く響いていた。
そのどこにも届かない場所で、たったひとつ守りたかった名前だけを、胸の奥に押し込んだまま。
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この作品は第2話『祝歌のあとで』のアルク視点の補完物語です。
もし、未読でしたら。ぜひご一読いただければと思います。
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