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第9話 / 全14話
彼が壊れていくのを、私は何もできないまま見ていた。
大学を辞めかけた、と人づてに聞いた。父親の会社が倒産して、奨学金も生活費も、自分でどうにかしなければならなくなったらしい。もともと真面目で、何でも一人で抱え込む人だったから、きっと限界まで誰にも頼れなかったのだろう。
講義棟の裏口で、彼がうずくまるように座っているのを見つけた日のことを、今でも忘れられない。膝の上には未開封のパンがひとつ。買ったのに食べる気力もないみたいに、ただ握り潰していた。
声をかけたかった。
大丈夫ですか、と。
私でよければ、と。
でも、できなかった。
彼とは同じゼミなだけで、ろくに話したこともない。そんな私が突然近づけば、かえって惨めな姿を見られたと思わせるだけかもしれない。そう思うと、足が竦んだ。
だから私は、卑怯なやり方を選んだ。
彼のロッカーに、差出人のない封筒を入れた。図書カードを三千円分。それから、学食の安い日替わりメニュー表を切り抜いて、「食べられる時に食べて」とだけ書いたメモを添えた。
次の日、封筒は消えていた。
それから私は、時々そうした。余ったレポート資料を入れるふりをして、バイト情報を忍ばせる。彼が落とした学生証を事務室へ届けておく。ゼミの出欠が危ない時は、教授にそれとなく体調不良だと伝える。匿名のまま、見つからないように、でも彼が本当に沈みきらない程度に。
見返りなんて求めていない、と自分に言い聞かせた。
ただ彼が、死なないでいてくれればそれでよかった。
けれど本当は、一度くらい想像したことがある。
いつか彼が「助けてくれていたのは君だったんだ」と気づいて、泣きそうな顔で笑ってくれたら、と。
そんな都合のいい奇跡が起こるはずもないのに。
転機は、あまりにくだらない勘違いから始まった。
彼が階段で貧血を起こして倒れた日、私は踊り場の陰から様子を見ていた。駆け寄ろうとして、また足が止まった。そんな私を追い越して、同じゼミの美鈴が彼のところへ走っていった。
「大丈夫!? しっかりして!」
美鈴は迷いなく彼の肩を抱き、ペットボトルの水を口元に当てた。彼の鞄からこぼれた封筒やメモが床に散った。その一枚を、美鈴が拾う。
「……これ、あなたの?」
彼はかすれた声で答えた。
「うん。ずっと、誰かが助けてくれてて……」
そこで美鈴は、一瞬だけ黙った。
たぶん、否定する時間はあった。自分じゃないと、言えたはずだった。
でも彼は、美鈴の手の中のメモと、目の前で自分を支えている彼女の顔を見て、すべてを繋げてしまった。
「もしかして……君、だったのか」
その声は、ひどく救われた人の声だった。
美鈴は困ったように笑ってから、否定しなかった。
「……今は、そう思ってていいよ。立てる?」
その瞬間、私の喉の奥で何かが固まった。
違う。
それは、私が。
そう言えば済む話だった。
でも私は、踊り場の陰から一歩も出られなかった。
それから彼は、目に見えて持ち直した。美鈴がそばにいたからだ。彼女は明るくて、強くて、私みたいにうじうじしていない。食事に連れ出し、バイト先を紹介し、レポートも一緒に片づけた。最初は勘違いだったとしても、今の彼を立たせているのは、確かに彼女だった。
私はそのたびに、自分のしてきたことが過去形にされていくのを感じた。
ある日、美鈴に呼び止められた。人気のない廊下だった。
「あのさ」
「……なに」
「もしかして、あの手紙とか封筒とか、あなた?」
息が止まりそうになった。
否定も肯定もできない私に、美鈴は小さくため息をついた。
「やっぱり」
責める口調ではなかったのが、余計につらかった。
「言ったほうがいいんじゃない? あの人、完全に勘違いしてるよ」
「……でも」
「でも?」
「今さら言って、何になるの」
美鈴は少し黙ってから、困ったように笑った。
「私も、そう思う」
優しさなのか、ずるさなのか分からない顔だった。
数日後、私は偶然を装って、彼の前で口を開いた。美鈴も一緒だった。
「あなたを助けていたの、美鈴さんじゃないよ」
言えたのは、それだけだった。
本当は「私だ」と続けるべきなのに、その先が出てこなかった。嫌われたくなかった。卑怯なやり方で近くにいた女だと知られて、軽蔑されるのが怖かった。
彼は驚いた顔で美鈴を見た。
美鈴はすぐに視線を伏せた。
「……ごめん。最初、否定できなかったの。あの時、あなたがあまりにつらそうで」
「じゃあ、本当に違ったんだ」
「うん。でも」
美鈴はそこで彼をまっすぐ見た。
「でも、勘違いからだったとしても、私はそのあと本気であなたを放っておけなくなった」
彼はしばらく黙っていた。怒るかもしれないと思った。私なら怒る。勝手に救済を名乗られて、奪われたようなものだから。
でも彼は、責めなかった。
「……たしかに最初は勘違いだった」
彼は静かに言った。
「でも、苦しい時にそばにいてくれたのは君だ。今の俺を支えてくれたのも、君だ」
そして、少しだけ笑った。
「きっかけは間違ってた。でも、今たしかに君が好きだ」
その言葉を、美鈴は泣きそうな顔で受け取った。
私はその場に立っていられなくなりそうだった。
真実は、半分だけ明るみに出た。けれど全部は届かない。匿名で差し入れをしていた時間も、震えながら見守っていた日々も、「今たしかに君が好きだ」の前では、何の効力も持たなかった。
それでも私は、最後まで言えなかった。
私が最初だった。
あの封筒もメモも私だった。
本当は、あなたの救いになりたかった。
その一言で、彼の幸福は少し壊れるかもしれない。美鈴との間に、いらない棘を残すかもしれない。
そして何より、私は怖かった。真実を告げても選ばれない未来を、正面から見せつけられるのが。
だから私は黙った。
「……よかったね」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
美鈴が泣きながら笑って、彼が照れたように視線を逸らす。その二人のあいだには、もう私が入り込めない温度ができあがっていた。
きっとこれでよかったのだ。
彼は幸せになれる。
私が壊すべきじゃない。
そう思うたび、胸の奥で別の声が囁く。
違う、壊したくないんじゃない。
嫌われたくないだけだ、と。
廊下の窓に映った自分の顔は、妙に静かだった。泣きもしないで、ただ少しだけ青ざめている。
私は祝福の形をした沈黙を選んだ。
その沈黙の中でだけ、私はまだ「彼を想う善人」でいられた。
名乗り出る勇気も、奪い返す覚悟もないまま。
誰にも知られない功績を抱えたまま、私は二人の背中を見送った。
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