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第10話 / 全14話
父の会社が倒れたとき、世界は案外静かだった。
電話が増えるわけでも、誰かが駆けつけるわけでもない。ただ家の空気だけが目に見えない水みたいに重くなって、気づけば息をするのもしんどくなっていた。学費の振込期限、奨学金の継続手続き、家賃、食費。数字ばかりが頭の中を回って、講義の内容は何一つ入ってこなかった。
大学を辞める、という言葉が現実味を帯びはじめたころ、ロッカーの中に封筒が入っていた。
差出人はない。中には図書カードが三千円分と、学食の安い日替わりメニューを切り抜いた紙。それから、小さなメモが一枚。
――食べられる時に食べて
最初は悪質な悪戯かと思った。
けれど、紙を持つ手が震えた。そういうことをする誰かが、この世界にまだいるのだと信じたくなった。
その日、久しぶりに学食へ行った。
それからも、ときどき何かが届いた。短期のバイト情報。ゼミの参考資料に紛れた、教授の機嫌がいい日のメモ。落とした学生証が、なぜかすぐ事務室へ戻っていたこともあった。露骨ではない。けれど、自分が本当に沈み切る寸前だけ、見えない手が底を支えてくる。
神様か、幽霊か、気まぐれな守護者か。
本気でそんなことまで考えた。
夜、ひとりで封筒の文字をなぞることがあった。
知らない筆跡。知らないはずの優しさ。顔も名前も分からないその誰かに、自分はたしかに救われていた。
たぶんあのころ、もう恋みたいなものだったのだと思う。
顔のない善意に向かって、縋るみたいに心を伸ばしていた。
階段で倒れた日、何日まともに食べていなかったのかも覚えていない。
踊り場で視界が暗くなって、次の瞬間には床の冷たさが頬にあった。遠くで誰かの靴音がして、すぐ近くで声が落ちてくる。
「大丈夫!? しっかりして!」
肩を抱かれて、上体を起こされる。唇に水が当たる。冷たいはずなのに、やけにやさしい温度だった。
ぼやける視界の向こうに、美鈴の顔があった。
同じゼミの、明るくて、誰とでも臆さず話せる女の子。名前と顔はもちろん知っていたけれど、自分とはまるで違う種類の人間だと思っていた。
その彼女が、床に散らばったものを拾う。鞄からこぼれた封筒。折れ曲がったメモ。彼女の指先が、あの見慣れた紙片に触れる。
「……これ、あなたの?」
その瞬間、頭の中でばらばらだったものが一気に繋がった。
今、目の前で自分を抱き起こしてくれる手。
見つめてくる目。
拾い上げられた、あのメモ。
「……君、だったのか」
かすれた声でそう言ったとき、自分でも半分は願っていたのだと思う。証拠なんてなかった。ただ、この温かさに顔があってほしかった。見えない奇跡ではなく、手を伸ばせば届く誰かであってほしかった。
美鈴は少し困ったように笑った。
否定しなかった。
「……今は、そう思ってていいよ。立てる?」
その言葉が、許しみたいに胸に落ちた。
そこから立ち直るのは、驚くほど早かった。
美鈴は放っておくということを知らない人だった。昼を食べたかと聞き、講義に来いと怒り、バイト先を紹介し、レポートを一緒に片づけた。自分が卑屈になれば笑って頭を小突き、どうでもいいことで笑わせた。
あんなに前から自分を見てくれていた人を、これ以上がっかりさせたくない。
その思いだけで、少しずつ体が前を向いた。
朝起きる理由ができた。
食べる理由ができた。
単位を落とさずに済んだら、彼女が喜ぶ気がした。
自分を見捨てなかった人の期待に応えたくて、必死で生き直した。
周囲には「最近明るくなった」と言われた。
そのたび、心のどこかで誇らしかった。救われたのだと思った。誰かがずっと見ていてくれたのだと。
だから、あの日の言葉は少しだけ世界を揺らした。
「あなたを助けていたの、美鈴さんじゃないよ」
人気のない廊下で、彼女――同じゼミの、あまり目立たない静かな子がそう言った。隣には美鈴が立っていて、視線を伏せていた。
一瞬、耳鳴りがした。
「……どういうこと」
美鈴が小さく息を吐く。
「ごめん。最初、否定できなかったの。あの時、あなたが本当につらそうで」
では、違ったのか。
あの封筒も、メモも、図書カードも。
頭の中に、あの知らない筆跡が浮かぶ。
その横に、目の前の彼女の横顔が重なりかける。たしかに彼女は、いつも少し遠いところからこちらを見ていた気がしなくもない。言われてみれば、辻褄が合うこともある。
けれど、すぐに別の事実がそれを押し戻した。
苦しい時に、実際に手を握ってくれたのは誰だった。
あの日、床から起こしてくれたのは誰だった。
そのあと、一緒に食べて、一緒に笑って、今の自分を立たせてくれたのは誰だった。
答えは、もう体に染みついていた。
「……たしかに最初は、勘違いだったのかもしれない」
自分の声が妙に静かに響く。
「でも、苦しい時にそばにいてくれたのは君だ」
美鈴が顔を上げる。泣きそうだった。
「今の俺を支えてくれたのも、君だ」
その瞬間、もう一人の彼女が何か言いたそうに唇を動かしたのが見えた。けれど、最後まで言葉にはならなかった。
もし、と思う。
もし本当に、最初の封筒が彼女だったのなら。
だったら自分は、顔のない善意に恋をしていたのかもしれない。
あの細い筆跡に、何度も救われていたのかもしれない。
けれど同時に、あの日倒れた踊り場で、自分の隣に立つ勇気があったのは誰だったのかとも思う。名乗らない優しさはたしかにあった。けれど、自分の人生を現実に引き戻したのは、目の前で息をして、怒って、笑ってくれた手のほうだった。
「きっかけは間違ってた」
そう言ってから、美鈴を見る。
「でも、今たしかに君が好きだ」
それは誰かを切り捨てるための言葉ではなかった。
自分が今つかんでいる現実を、偽りにしたくなかっただけだ。
美鈴は泣きながら笑った。
その横で、もう一人の彼女は、驚くほど穏やかな声で「……よかったね」と言った。
その声が、少しだけ胸に残った。
それからも時々思う。
あの封筒の最初の差出人は、本当は誰だったのかと。
遠くからこちらを見ている彼女の視線に、一瞬だけ何かの答えが揺らぐこともある。
けれどそのたびに、美鈴が隣で笑う。手のひらの温度が伝わる。そうすると、自分の選ぶべきものはいつも同じ場所に戻る。
最初の善意を、なかったことにはしない。
たぶん自分は、誰か知らない人に確かに救われていた。
けれど、今の自分の手を握っているのは美鈴だ。
暗い階段の踊り場で、名前のない奇跡に顔を与えてくれたのも、今こうして隣で未来の話をしてくれるのも、彼女だった。
間違った鍵で開いた扉だったのかもしれない。
それでも、その向こうで灯った明かりは本物だった。
だから彼は、もう振り返らない。
窓の向こう、廊下の先で誰かが静かに立ち止まっていても、その痛みの意味を最後まで確かめることはしないまま、美鈴の手を握り直して歩いていく。
幸福とは、時々こういう盲目の上に立っているのだと、知らないままで。
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この作品は第5話『救済の横取り』の彼視点の補完物語です。
もし、未読でしたら。ぜひご一読いただければと思います。
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