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第8話 / 全14話
ルシアが「私が行くわ」と言った瞬間、アレンは世界の音が一度止んだ気がした。
村長の家の前には白布が張られ、神殿の使者は事務的な顔で立っていた。選ばれたのはミレイだった。聖女の生贄。封印の楔。そういう言葉が頭の上を滑っていく中で、アレンは一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、安堵していた。
ルシアではなかった。
その事実に、胸の底がゆるんだ。
次の瞬間、その自分を殺したくなった。
「何言ってるんだ」
怒鳴った声は、ルシアのためというより、その醜い安堵を塗り潰すために出た。ルシアは穏やかに笑っていた。ミレイは顔色をなくして立ち尽くしていた。誰も壊れていないみたいな顔で、その場だけが静かに進んでいくのが許せなかった。
神力の適合だとか、封印の負荷だとか、神官は何か説明していた。アレンには何も入ってこなかった。ただ、ルシアが行くのだということと、自分がそれを止めきれないのだということだけが、喉に焼けついていた。
行くなと言えばよかった。腕を掴んででも逃がせばよかった。村が焼かれようが知るかと叫べばよかった。
そのどれもできないまま、ルシアはミレイに向かって「生きて」と言った。
あの一言を、アレンは一生赦せないと思った。ルシアをではない。その言葉を受け取って、生きる側に立ったミレイを。そして、その場で何も壊せなかった自分を。
ルシアが奪われたあと、アレンは前に進むしかなくなった。
王都へ行き、神官に頭を下げ、断られ、剣を取った。禁書を漁り、封印の理を知り、魔王を倒せば楔ごと壊せると知ったときには、もう躊躇いは残っていなかった。ルシアを取り戻す。そのためだけに強くなる。それ以外の理屈は全部、どうでもよかった。
ミレイもついてきた。
最初は意外だった。逃げるか、泣き崩れるかするものだと思っていた。だが彼女は荷を背負い、泥にまみれ、夜には火を起こし、傷つけば治癒を使った。真面目に、必死に、置いていかれまいとするみたいに食らいついてきた。
その姿を見るたび、胸の底が煮えた。
戦いのあと、自分の傷を塞ぐ彼女の手は温かかった。そのたびに思う。ルシアは今、この温もりから遠い場所で削られている。眠れぬ夜に水を差し出す彼女を見ると、喉の奥で声がした。お前は守られた側だろう。どうしてそんな顔で、自分も傷ついた側みたいに振る舞える。
理屈ではなかった。ミレイが直接ルシアを突き飛ばしたわけではない。そんなことは分かっていた。分かっていて、なお腹が立った。彼女が献身的であればあるほど、怒りは強くなった。善人ぶるな、と心のどこかで何度も思った。
それは八つ当たりなのだと、アレンは知っていた。
知っていて、やめられなかった。
もしミレイにも事情があったのだと認めれば、あの日の理不尽は宙に浮く。誰も悪くないなら、ルシアはただ一方的に壊されただけになる。それに耐えるには、自分はあまりに弱かった。
だから剣を振った。眠らず、食わず、強くなった。ミレイの治癒がなければ何度も死んでいたはずなのに、その事実さえ腹立たしかった。助けられるたび、ルシアの代わりみたいで吐き気がした。
魔王城の最後の戦いで、アレンはもうほとんど祈っていなかった。執念だけが体を動かしていた。魔王を斬り、崩れた玉座の奥に転移門が現れたとき、ようやく終わると思った。
ルシアを連れて帰れる。遅すぎても、まだ戻せる。三人で笑うところまでいかなくても、せめて彼女が彼女として息をするところまでは。
その幻想は、白い石の祭壇の前で砕けた。
抱き上げた体はあまりに軽かった。細い呼吸はあった。瞳も開いていた。けれど、そこにルシアがいないことは、触れた瞬間に分かった。温度だけが残っていて、中身はどこか遠くへ削り取られていた。
アレンの中で、何かが音もなく壊れた。
「連れて帰ろう」
そう言った声は、自分でも驚くほど静かだった。ミレイが泣いて頷く気配がした。その気配が、どうしようもなく耐えられなかった。
何を泣く。誰の隣で泣く。お前はここに横たわる側ではなかったのか。
口をついて出た言葉は、もう止まらなかった。
「お前が行くはずだったんだ」
ミレイの顔が凍る。
その表情を見た瞬間、どこかで理解していた。これは真実そのものではない。自分が立っているための杭だ。これを打ち込まなければ、ルシアがこんなふうに壊れた意味が消えてしまう。自分が間に合わなかった事実だけが残ってしまう。
だから、言った。
見捨てたのだと。守られたまま生きたのだと。英雄ごっこだったのだと。
ひとつひとつ言うたび、自分の中の泥が固まっていく気がした。汚れているのに、形だけは整っていく。最低だと思った。思いながら、止めなかった。
王都へ戻ってから、アレンは修道院を買った。人里から離れた、静かな場所だった。そこなら誰にも邪魔されない。英雄と呼ぶ声も、勝利を祝う宴も、ルシアの耳に届かない。
毎日、髪を梳いた。体を拭いた。匙でスープを運んだ。夜には冷えた手を握った。何も返ってこない。まばたきひとつ、奇跡みたいに待ちながら、それでも手を離さなかった。
これを幸福と呼ぶのは、たぶん間違っている。
それでも外のどこより静かだった。ここでは誰も、ルシアの苦しみを自分の涙で飾らない。ここでは自分だけが、この人の失われた時間のそばにいられる。
門が叩かれたのは、秋の終わりだった。
ミレイの声は少しかすれていた。謝りたい、と。少しだけでいい、と。
アレンは扉を細く開けた。昔の面影を残した顔が、向こうで泣きそうに揺れていた。その顔を見て、胸の奥に一瞬だけ暗い満足が走った。ようやく苦しんでいる。ようやく外に立っている。そう思った自分に、すぐ吐き気がした。
それでも、扉は広げなかった。
「帰れ」
「お願い……」
「この人の聖域を、お前で汚すな」
静かな声だった。怒鳴れば、自分のほうが崩れそうだったからだ。
ミレイは何か言いかけて、言えずに唇を噛んだ。あの日と同じだ、とアレンは思った。言えないまま、生きる側に残った女。自分もまた、壊せないまま守る側を気取っている男。誰もきれいではない。だからこそ、この扉だけは閉じなければならなかった。
鍵をかける音が、小さく響く。
アレンは振り返り、ベッドのそばへ戻った。ルシアはいつものように静かだった。細い指を取ると、冷たさが掌に馴染む。
「もう来ない」
返事はない。
アレンはその手に額を寄せた。
ミレイを責めることでしか立っていられない自分を、ルシアが知ったら軽蔑するかもしれない。こんなふうに閉じた場所で、この人を守っているつもりの自分は、ただ壊れた番人にすぎないのかもしれない。
それでも、外へ返すことはできなかった。
憎しみも、罪も、間に合わなかった悔いも、全部この部屋に置いておくしかなかった。そうしなければ、ルシアが奪われたあの日から続く時間に、自分は形を与えられない。
窓の外では夕暮れが落ちていた。修道院の壁は厚く、外の風も声も遠い。
アレンはルシアの手を握ったまま、目を閉じた。
聖域は静かだった。救いに似ていて、墓所にも似ていた。
そのどちらであってもいいと、彼はもう思っていた。
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この作品は第4話『聖域の外で』のアレン視点の補完物語です。
もし、未読でしたら。ぜひご一読いただければと思います。
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