読み込み中...
読み込み中...
第11話 / 全14話
彼と付き合い始めた頃、誠司は本当にどうしようもない男だった。
朝は起きない。約束の時間には遅れる。財布の中身も把握していないから、給料日から一週間で金欠になる。スーツはしわだらけ、シャツの襟には薄く皮脂が残っていて、提出書類の期限はぎりぎり、あるいは過ぎてから慌てていた。
最初は、そんな彼が少し可愛かった。
私がいないと駄目なんだ、と思えたから。
「もう、ネクタイ曲がってる」
「ありがとう、麻衣がいないと無理だわ」
笑ってそう言われるたび、胸の奥がやわらかく満たされた。私は彼の部屋を片づけ、冷蔵庫に食材を詰め、アイロンのかけ方を覚えさせ、クレジットカードの引き落とし日を一緒に確認した。寝坊しないようにモーニングコールをして、取引先への謝罪文を添削し、上司に怒られて落ち込んだ夜は電話越しに二時間でも三時間でも話を聞いた。
「麻衣って、ほんと俺の教育係みたいだな」
冗談っぽく彼が言ったその言葉を、私は悪く思わなかった。
教育係。母親よりはましで、恋人としても特別な感じがした。
実際、彼は変わっていった。
遅刻は減った。髪もきちんと切るようになった。靴を磨く癖もついたし、報連相の大切さもようやく理解したらしい。何度も失敗して、そのたびに私が一緒に原因を整理して、次はこうしようと手順を作った。面倒だったけれど、嫌ではなかった。彼が少しずつ“まとも”になっていくのを見るのは、園芸に近い喜びがあった。
枯れかけた鉢植えに水をやって、日当たりのいい場所へ移して、支柱を立てて、余計な枝を切ってやる。そうすると、ちゃんと伸びていく。
誠司は、そういう男だった。
転職が決まった時も、履歴書を直したのは私だった。職務経歴書の書き方を一から教えて、面接練習の相手もした。彼は最初、志望動機すらまともに言えなかったのに、三社目で内定を取った。
その夜、安い居酒屋で彼は珍しく泣いた。
「麻衣のおかげだよ。俺、一人じゃ絶対無理だった」
「そんなことないよ」
「ある。ほんとに。俺、麻衣に拾ってもらったんだ」
拾ってもらった。
それは、少し引っかかった。けれど酔っていた彼は私の手を握って、何度もありがとうと言ったから、その違和感を見なかったことにした。
彼の新しい職場は、前よりずっとちゃんとしていた。年収も上がったし、周囲のレベルも高かった。最初のうちは彼も苦戦していたけれど、今までみたいに泣き言ばかりは言わなかった。分からないなりに食らいついて、失敗しても持ち帰って、以前より自分で考えるようになった。
私はそれを、成長だと思っていた。
ただ、変化はそこから少しずつおかしくなった。
会う頻度が減った。電話をしても、「今ちょっと疲れてて」と早く切られることが増えた。私が彼の部屋に行っても、前ほど散らかっていない。洗濯物はたたまれていて、冷蔵庫には作り置きのタッパーが並んでいた。
「最近、ちゃんとしてるね」
そう言うと、彼は少し笑った。
「周りがみんなちゃんとしてるからさ。さすがに影響受ける」
その“周り”の中に、由梨という女がいることを知ったのは、そのすぐあとだった。
同じ部署の先輩で、仕事ができて、気が強くて、数字にもプレゼンにも強い人。彼の話にたびたび名前が出るようになった。
「由梨さんに資料見せたら、ロジックが甘いって全部赤入れされてさ」
「でも直したら通ったんでしょ?」
「うん。あの人すごいんだよ。感情論で慰めたりしないし、できてないところをちゃんと指摘してくれる」
それが何を意味するのか、その時の私はまだ鈍かった。
別れ話は、案外静かに始まった。
いつものカフェだった。彼は遅刻せずに来て、しわのないシャツを着ていて、髪も整っていた。注文したコーヒーに砂糖を入れないことすら、昔の彼からしたら見違えるようだった。
「話があるんだ」
その言い方で全部わかった気がした。
それでも私は、最後まで聞かなければならなかった。
「……由梨さんと、付き合うことになった」
胸の奥で、何かがひどくゆっくり壊れた。
「そう」
「ちゃんと伝えなきゃと思って」
「いつから?」
「まだ最近だよ。ただ……前から、惹かれてたのは事実で」
誠実ぶった言い方だと思った。
けれど怒鳴る気力もなかった。私はカップの縁を見つめながら、せめて声だけは震えないようにした。
「私じゃ、だめだった?」
彼はすぐには答えなかった。
その沈黙が、もう十分答えだった。
「麻衣には感謝してる」
ありがとう、で始まる言葉がろくな結末にならないことくらい、知っていた。
「俺を立て直してくれたのは、ほんとに麻衣だと思う。生活も、仕事への向き合い方も、いろんなこと教えてもらった」
「じゃあ、なんで」
掠れた声が出た。
「なんで、私じゃないの」
彼は苦しそうに眉を寄せた。
その顔さえ、昔みたいに頼りないものではなかった。ちゃんと自分で選んで、自分で残酷になれる大人の顔だった。
「君といると」
一度、彼は言葉を切った。
「君といると、駄目だった頃の自分を思い出して辛いんだ」
頭の中が、真っ白になった。
「由梨といると、背筋が伸びる。ちゃんとしたことを言おうって思うし、もっとできる自分でいたくなる。あの人といる時の自分が、僕は好きなんだ」
それは、ほとんど全否定だった。
私が育てた。
私が教えた。
私が、何度も何度も拾い上げて、立たせて、歩かせた。
その結果できあがった“今の彼”は、私の前にいると過去の失敗作を思い出してしまうから嫌なのだという。
私の献身は土台になった。でも、土台は見えない場所に埋まっているべきで、その上に建つ家にふさわしいのは、もっと洗練された誰か。
「……そっか」
それしか言えなかった。
「麻衣のせいじゃない」
「でも、私といると駄目だった頃を思い出すんでしょう」
彼は黙った。否定しない。
それがいちばん痛かった。
もしかしたら私は、彼を救いながら、同時に甘やかしていたのかもしれない。転ばないよう先回りして、失敗を減らして、傷つく前に庇っていた。彼が自分で立つべき場面まで、私が手を出していたのかもしれない。
正しい指導のつもりだった。
でも本当は、“私が必要な彼”を手放したくなかっただけではないのか。
その疑いが、一度生まれると消えなかった。
彼は最後に、「今までありがとう」と言って席を立った。
その後ろ姿は、もう私がネクタイを直してやる必要も、書類を見てやる必要もない男のものだった。
窓の外を、スーツ姿の人たちが流れていく。みんなちゃんとして見えた。彼もあの中に混ざっていくのだろう。由梨と並んで、対等な顔をして、仕事の話をして、休日には少し背伸びしたレストランで笑うのだろう。
その横にいるのは、もう私じゃない。
テーブルの上には、彼が口をつけなかった水だけが残っていた。
私はそれを見つめながら、ふと思う。
彼を救ったのは、たしかに私だったはずだ。
でも、彼が置いていった言葉を信じるなら、彼の中に“駄目な自分”をいつまでも飼い続けさせたのも、私なのかもしれない。
教育の成果を、私は受け取れなかった。
実った果実は、もっと高い枝に手を伸ばせる女のところへ落ちた。
それでも、もし時間を巻き戻せたとして。
まだしわだらけのシャツを着て、情けなく笑う彼が玄関に立っていたとして。
私はたぶん、また同じようにネクタイを直してしまう。
それが愛だったのか、支配だったのか。
今となっては、もう分からない。
この話はいかがでしたか?
この作品を評価する