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第12話 / 全14話
麻衣と付き合い始めたころの自分は、本当にどうしようもなかったのだと思う。
朝は起きられない。約束には遅れる。財布の中身も把握していないから、給料日から数日で金が消える。スーツはしわだらけで、提出物はいつもぎりぎり、あるいは間に合わない。社会人になったくせに、中身は学生の延長みたいなものだった。
そんな自分を、麻衣は呆れながらも見捨てなかった。
「ネクタイ、また曲がってる」
「まじで? ありがとう」
「ありがとうじゃなくて、自分で見なよ」
「いや、麻衣がいると安心して油断する」
そう言うと、麻衣はため息をつきながら結び目を直してくれた。
あの指先の迷いのなさに、何度助けられたか分からない。
部屋を片づけられ、冷蔵庫に食材を詰められ、アイロンのかけ方を教えられ、カードの引き落とし日を確認される。上司への謝罪文まで添削されたときは、さすがに情けなさが勝つかと思ったが、不思議と少しほっとしていた。
麻衣といると、自分は失敗しても見捨てられない。
叱られるけれど、切り捨てられない。
その安心は、恋人というより、揺りかごに近かったのかもしれない。
「麻衣って、ほんと教育係みたいだな」
冗談のつもりでそう言ったとき、彼女は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、自分はたぶん甘えていたのだと思う。教育される側でいることに。駄目でも面倒を見てもらえる立場に。
けれど、そういう日々の底のほうで、いつも小さな焦りがあった。
このまま一生、彼女にネクタイを直される側の人間でいるのか。
自分で立っているつもりで、実は首輪を持たれて歩いているだけなんじゃないか。
そういう感覚が、ときどき息苦しかった。
転職が決まった夜、安い居酒屋で泣いたのは本当だ。
「麻衣のおかげだよ」
「そんなことないよ」
「あるよ。俺、一人じゃ無理だった」
それは嘘じゃなかった。履歴書を直したのも、職務経歴書を教えたのも、面接の練習相手をしたのも彼女だ。あのときの自分は、本当に麻衣に拾われたのだと思っていた。
でも、新しい職場に入ってしばらくしてから、胸の中に別の感情が生まれた。
恥だった。
周りはみんな、普通に朝起きて、普通に身だしなみを整えて、普通に締切を守っていた。そんな当たり前のことに、いちいち誰かの手を借りていた自分が急に恥ずかしくなった。
最初のうちは必死だった。
自分でシャツにアイロンをかけた。
前日のうちに持ち物を揃えた。
スマホに予定を入れ、締切を逆算した。
やっていること自体は、全部麻衣に教わったことだった。
けれど、それを自分一人で再現できた朝、胸の奥に妙な快感が走った。
起こされなくても起きられた。
怒られなくても間に合った。
その小さな成功が、ひどく甘かった。
同時に、嫌な記憶もついてきた。
寝坊して麻衣に電話で起こされた朝。
しわだらけのシャツを着て笑ってごまかした夜。
自分で何も回せず、彼女に整えてもらっていたころの情けない自分。
今の自分がまともに見えれば見えるほど、前の自分の惨めさがくっきりした。
そして、その惨めな自分を一番よく知っているのが麻衣だった。
由梨は、そういう意味で都合の悪い人だった。
仕事ができて、厳しくて、ミスをしても慰めたりしない。資料を見せれば容赦なく赤を入れるし、「で、次はどう直すの?」とだけ聞く。できていないところはできていないと言う。変に持ち上げたりしない。
最初は怖かった。
でも、少しずつその怖さが心地よくなった。
由梨の前では、甘える余地がない。
そのかわり、できた時には短く認められる。
その一言が欲しくて、自分で考え、自分で立て直し、自分で形にしようとした。
麻衣の前では、どこかで「駄目でも受け止めてもらえる」と思ってしまう。
由梨の前では、そうはいかない。
そこに立つ自分は、不格好でも、少なくとも“自分の足で立とうとしている大人”に思えた。
たぶん、惹かれていたのは由梨そのものだけじゃない。
由梨の前で発動する、自分の新しい形に惹かれていた。
最低だと思う。
麻衣が教えたこと全部を使って、別の場所で別の女に認められようとしているのだから。
それでも止まれなかった。
もう、よちよち歩きを褒められる場所には戻りたくなかった。
カフェで別れを告げる日、麻衣はいつも通りだった。
少なくとも最初は。
コーヒーを前にして、静かにこちらを見る顔に、昔みたいな世話焼きの気配はなかった。それなのに、向かいに座っただけで、ひどく息苦しくなった。
「話があるんだ」
その一言で、彼女は何かを察したらしかった。
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「……由梨と、付き合うことになった」
麻衣の顔から感情がゆっくり引いていく。
それを見て、今すぐ撤回したくなった。嘘だと言ってしまいたくなった。ここで手を伸ばしたら、たぶん彼女はまた受け止めてくれるだろう。
だからこそ、伸ばせなかった。
「私じゃ、だめだった?」
その問いに、すぐ答えられなかった。
だめだったわけじゃない。救われていた。助けられていた。今の自分の土台は、たしかに彼女が作ったものだ。
でも、土台の上に立つたび、埋め込まれている過去の自分まで一緒に見えてしまう。
「麻衣には感謝してる」
ありきたりで、たぶん最悪の言い方だと思った。
それでも本当だった。
「俺を立て直してくれたのは、ほんとに麻衣だよ」
「じゃあ、なんで」
かすれた声だった。
「なんで、私じゃないの」
逃げずに言わなければならないと思った。
ここで曖昧にしたら、それこそまた麻衣に甘えるだけだ。
「君といると」
一度、息を飲む。
「駄目だった頃の自分を思い出して辛いんだ」
言った瞬間、自分で自分を殴りたくなった。
こんなの、ほとんど恩を仇で返す言葉だ。
けれど、それでも一番近い本音だった。
麻衣の前にいると、助けられていた自分、拾われていた自分、面倒を見られていた自分にすぐ戻ってしまいそうになる。
実際に戻るわけじゃなくても、その輪郭が濃くなる。甘えたくなる。許される側でいたくなる。
由梨といると、背筋が伸びる。
もっとまともなことを言いたくなる。
できる自分でいたいと思う。
それはきっと、立派な恋と同時に、かなり卑怯な逃避でもあった。
「麻衣のせいじゃない」
そう言いながら、自分でも分かっていた。
彼女のせいじゃない、で済ませていい話ではない。彼女に教わったことを全部持って、自分だけ先へ行こうとしているのだから。
それでも席を立った。
ここで立たなければ、また彼女の前で“未完成の自分”に戻ってしまう気がした。
店を出て、ガラスに映る自分を見る。
しわのないシャツ。整った髪。曲がっていないネクタイ。
全部、麻衣が教えたものだ。
アイロンの折り目も、結び目の位置も、締切の逆算も、報告の言葉遣いも。今の自分を形作る手つきの中に、彼女の痕跡は嫌になるほど残っている。
ありがとう、と心の中で言う。
そして同時に、もう戻らないとも思う。
感謝しているから一緒にいる、ではたぶん駄目なのだ。
それは誠実さの顔をした依存だ。
そう考えなければ、自分がただ彼女の献身を持ち逃げしただけだと認めることになる。
誠司は一度も振り返らずに歩き出した。
由梨のいる職場へ。
自分で立っていると思える場所へ。
その背中には、麻衣が育てた痕跡がまだ整ったまま貼りついていた。
脱ぎ捨てたつもりの皮膚の裏側に、いちばん深く残っているのが誰の手だったのか、知りながら見ないふりをして。
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この作品は第6話『教育の果実』の誠司視点の補完物語です。
もし、未読でしたら。ぜひご一読いただければと思います。
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