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第3話 / 全14話
勇者アルクが私を追放したのは、魔王城が黒い雲を従えて王都の空に現れた、その三日前だった。
夜営の火は小さく、仲間たちの顔を半分だけ照らしていた。剣士のレオは黙り込み、弓使いのミナは視線を泳がせていた。誰もが、これから言われることを知っている顔だった。
「リゼ」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が冷えた。
「次の戦いに、君は連れていけない」
私は笑おうとした。冗談だと思いたかった。けれどアルクの目はまっすぐで、戦場で指示を出すときと同じ顔をしていた。
「……何を言ってるの」
「最終決戦だ。今までとは違う。魔王の結界は広域殲滅型に変わっている。君の治癒は優秀だが、詠唱が遅い。展開も狭い」
「それでも、私はずっと」
「分かっている」
分かっている、という言葉は慰めではなかった。ただ事実確認のように乾いていた。
「君はこれまで何度も俺たちを救った。だが、次は足りない」
足りない。
たったそれだけで、三年分の旅が音を立てて崩れた気がした。雪原で凍傷しかけた彼の指を温めた夜も、毒に倒れた仲間を三日三晩看続けたことも、聖堂都市で彼の背を庇って腹を裂かれたことも、全部「だが」の後ろへ追いやられる。
「代わりは、もう決まっている」
アルクがそう言ったとき、テントの外から足音がした。
白銀の法衣。月光みたいな髪。敵方の大神殿に属しながら、昨日、こちらへ寝返ったばかりの聖女セレナ。
彼女は私を見ると、少しだけ目を伏せた。申し訳なさそうですらあった。だから余計に惨めだった。
「彼女の浄化と再生は、魔王の呪詛に対して最適だ」
アルクは説明した。
「回復量、速度、対呪性能、いずれも君を上回る。私情を挟んで世界を危険に晒すことはできない」
私情。
その単語でようやく分かった。
私が期待していたものは、彼の中では切り捨てるべき不純物だったのだ。
「……私情って、何」
「君を連れていきたいと思う気持ちだ」
息が止まりそうになった。
それなら、と思った。
それなら、少しくらい迷ってくれてもいいじゃないか。少しくらい苦しそうにしてくれてもいいじゃないか。なのに彼は、淡々と続けた。
「だが、それで世界を滅ぼすわけにはいかない」
あまりに正しかった。
正しすぎて、私は泣くことすら許されない気がした。
「君は王都へ戻れ。後方の治療院なら、まだ君の力が役立つ」
まだ役立つ。
まるで壊れかけの道具を倉庫へ下げるみたいな言い方だった。
私は何も言えず、その夜のうちに荷をまとめた。止めてくれる者はいなかった。レオは一度だけ「悪い」と言ったが、それだけだった。ミナは最後まで私の顔を見なかった。
アルクも、見送りには来なかった。
王都へ戻る街道の途中、私は一度だけ振り返った。魔王城の方角に、黒い稲妻が走っていた。あの中へ、彼はもう私のいないパーティで進んでいる。
彼の隣には、私より強い聖女がいる。
それが世界のために正しいのだと、頭では分かっていた。
だからこそ、どうしようもなく苦しかった。
最終決戦の日、私は王都の外れの丘にいた。治療院へ行けと言われたのに、行けなかった。遠くに見える魔王城の空だけを見上げていた。
黒い雲を裂いて、金色の光が何度も走る。あれはアルクの聖剣の軌跡だ。銀の柱みたいな光がそれに重なる。セレナの大聖浄だろう。私にはあんな広域展開はできない。詠唱短縮も、同時多重治癒も、彼女の域には届かない。
やがて空を覆っていた闇が、静かに割れた。
魔王城が崩れ、光があふれた。
丘の上で膝から崩れ落ちた私は、泣いていたのか笑っていたのか分からない顔で、その眩しさを見上げていた。
世界は救われた。
アルクの判断は正しかった。
私がいたら、あの一瞬の連携は生まれなかったのかもしれない。
彼が剣を振るう隙を、セレナは完璧な浄化でこじ開けたのだろう。
私では届かない速度で、私では支えきれない規模で。
数日後、王都は祝祭に包まれた。
吟遊詩人たちは新しい歌を作った。酒場へ行けば、どこでも同じ旋律が流れていた。
――勇者は剣を掲げ、白き聖女は祈りを捧ぐ
――二つの光は重なりて、ついに夜を討ち払う
――世界を救うは、運命に結ばれし双星
最初にそれを聞いたとき、私は酒を吹きそうになった。
運命に結ばれし双星。
笑ってしまうくらいよくできた歌詞だった。酒場の客たちは盃を打ち鳴らし、彼らの勝利を称えた。白き聖女は勇者の伴侶になるだろう、と誰かが言った。別の誰かが、あれだけお似合いなら当然だと笑った。
私は隅の席で、安酒をあおった。
世界は救われたんだ。
これでよかったんだ。
そう思えば思うほど、胸の中の何かがじくじくと膿んでいく。
彼が正しかったこと。
私が不要だったこと。
セレナの方が、彼の隣にふさわしかったこと。
その全部が、酒で薄まるどころか、飲むたびに輪郭を増していく。
最初のころ、酒場の主人は心配してくれた。
「もうやめとけ、嬢ちゃん」
常連の傭兵が、明るい声で別の話題を振ってくれたこともある。給仕の娘が、黙って水を置いてくれた夜もあった。
でも私は毎晩同じように現れ、同じ歌が流れるたび顔色を変え、盃を重ね、最後には嗚咽を噛み殺した。
何度も何度も。
まるで壊れた鐘みたいに。
そうしているうちに、誰も何も言わなくなった。
主人は無言で酒を置き、常連たちは私の席を避けるようになった。慰めは尽きたのだろう。あるいは、世界を救った英雄譚の陰で泣く女など、見慣れてしまえばただの湿った染みでしかない。
今夜もまた、歌が始まる。
――勇者は迷わず、白き聖女は微笑みて
迷わず。
その一語が、いつも私を刺す。
そうだ。彼は迷わなかった。
私を切り捨てるときも、セレナを選ぶときも、世界を救うために最適な答えを選び続けた。そこに私の気持ちが入り込む余地は、最初からなかったのだ。
私は盃を持つ手を見下ろした。少し震えている。治癒術を使うために鍛えた指先だ。何度も彼の血を止め、熱を下げ、傷を塞いできた手。
それでも最後の戦いには、届かなかった。
「……これで、よかったんだよね」
誰にともなく呟く。返事はない。
隣の席では酔客が笑い、歌に合わせて机を叩いている。
世界は救われた。
彼は英雄になった。
彼の隣には、私より強く、美しく、役に立つ聖女がいる。
これでよかったんだ。
これで、よかったんだ。
何度繰り返しても、胸の底では別の声が消えない。
――それでも、最後まで隣にいたかった。
――役に立たなくても、捨てないでほしかった。
――正しさより先に、私を見てほしかった。
そんな願いは、世界を救う物語には不要だ。
だから私は、祝歌が満ちる酒場の隅で、一人だけ救われないまま酒を飲む。
盃の底に映る顔はひどくぼやけている。涙なのか、安酒のせいなのか、もう自分でも分からない。
歌は続く。
英雄と聖女の輝かしい未来を、何度でも、何度でも。
そのたびに私は思い知る。
私が共に戦ってきた日々は、世界を救うための前座にすぎなかったのだと。
彼の物語から切り落とされた私は、もう誰にも呼ばれない名前のまま、空になった盃を握りしめていた。
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