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第4話 / 全21話
とりあえずネットの速度のことを聞こうにも、黙々と仕事に打ち込む総務課の皆さんに気圧されて聞けそうになかった。僕は仕方なく出されたお茶と和菓子を戴きながら、手渡された『ご利用案内』に目を通すことにした。
ぷるぷるとしたわらび餅が口の中で蕩け、添えられたきな粉と黒蜜が濃厚で素朴な甘味のアクセントを加える。
そこに梅昆布茶を口に含めば、口の中が酸味と旨味、ほのかな塩味でさっぱりとしていく。
ふと、持ってきてくれた千穂さんのことが脳裏によぎる。まるであの人みたいな和菓子だなぁ。また話す機会はあるだろうか。なんてほのかな希望を思い起こす。
僕は『ご利用案内』に書かれた「湯女泣川」の伝承に目が留まった。
「湯女泣川」とは、ホテルの前から温泉街を流れる川のことだ。
『湯女泣川の伝説』
昔、温泉街で働く湯女がひとりの侍と叶わぬ恋に落ちた。
秘めた想いを手紙にしたため、叶わぬ恋に涙を流すと、その涙が川の流れとなった。
それから、お盆になると亡くなった愛する人への恋文をしたため、川に流す風習が生まれた。
ここでいう湯女とは、遊女のことだろう。
口減らしに遊郭に売られ、出会った侍と叶わぬ恋に嘆く。
よくあるおとぎ話だ。
頭の中で、儚い雰囲気の遊女が千穂さんの姿で再現される。
なんだか眠くなってくる。
運転疲れか、緊張からか・・・抗えない眠気に意識が遠のいていく・・・
・・・
・・
・
「—佐藤さん、佐藤さん」
鈴のような囁きが、耳元で僕の名前を呼んだ。
ふと目を開けると、千穂さんが枕元に正座して僕を見下ろしている。
「あれ?ここは?」
「客室ですよ。佐藤さんいきなり机に突っ伏して倒れたんです、お加減はいかがですか」
机に突っ伏して倒れた?
そういえば急に眠くなって・・・
「えっと、今何時ですか?」
「ええと、22時です」
千穂さんは左腕の時計をちらりと見て時間を教えてくれた。って22時!?
「すみません、とんだご迷惑を」
僕は身体を起こした。
畳部屋の客室に布団が敷かれ、僕は布団の中で寝ていたらしい。
上着は脱がされ、ネクタイも解かれていた。
ただ、ワイシャツは黒蜜ときな粉で汚れていた。
「あの、今日はここで泊まっていかれて良いそうです。鈴木課長が仰ってました」
「そうですか、すみません。課長は?」
「もうお帰りになられてますよ」
「そうですか、初日からやらかしちゃったなぁ・・・」
「ふふふ。そうですね。こんな事は初めてです」
千穂さんはくすくすと笑い、僕を見て少し安心した様子だった。
「あの、よければお風呂にも入られてください。ワイシャツ、洗っておきますから」
「え?そんな、これ以上ご迷惑を・・・」
といいかけた僕を、千穂さんが止めた。
「大浴場にご案内します。今夜はお客様もおりませんから」
千穂さんに促されて、僕は布団から起き上がり、千穂さんに手を引かれて客室を出た。
客室を出て気付いたが、ここは高級客室のある別館の方だ。
間接照明に照らされた廊下を進み、大きな男湯の暖簾をくぐり、専用の大浴場の中へ通された。
「こちらにタオル、バスタオルがありますから」
とカウンターにあるタオルとバスタオルを手渡された。
「ごゆっくり、のちほど伺います」
千穂さんは優しく微笑んで、僕を脱衣場へ送り出した。
僕は促されるまま脱衣場のロッカーで服を脱ぎ、タオルで前を隠して大浴場の扉を開けた。
薄暗い間接照明で照らされた大浴場は、日本庭園のような厳かさと高級感に溢れている。
大きな楕円状の黒い御影石で作られた浴槽に、滾々と湯が湛えられている。
浴槽の向こうには、間接照明を当てられた青々とした竹林が並ぶ。
露天風呂はないが、その代わりに洗い場の向こうに、簾でひと間ずつ間仕切りされた、黒御影石で出来た寝床がある。
岩盤浴用の寝床のようだ。
僕はひとまず洗い場で髪の毛、全身をくまなく洗い流した。
シャンプーもボディソープも、ひと目で高級品と判る。
洗い流したのに、ほのかな花の香りが全身を包んでいた。
かけ湯をして、大理石の浴槽に首まで浸かる。
すこしぬるめだが、しっとり、ぬるりとした柔らかい湯が全身をゆっくりと温めてくれる。
「ハァァァ~」思わずおっさんのようなため息が漏れた。
「くすくすっ」
入口の方から、鈴を揺らすような含み笑いが聞こえた。
振り向くと、白い湯浴み着を着た千穂さんが入口に立っていた。
薄い透けるような湯浴み着は、彼女の白い肌をうっすらと映し出している。
「えっ!?ちょっ!??千穂さん??」
僕は慌てて前へ向き直す。
湯舟の湯が激しく音を立てて揺れる。
「お背中、お流しできないかと。でももう湯舟に浸かられてますね」
ひたひたと大浴場の中を歩いて来る足音が近づく。
そして、手桶を湯舟に入れる手が伸びて、かけ湯の音がしたかと思うと、僕の隣にするりと千穂さんが身を寄せてきた。
やわらかい感触と、肌の温もりが右腕に伝わる。
肩に、まとめられた千穂さんの結い髪の感触が伝わる。
「佐藤さん、今日初めてお会いしたばかりなのに、こんなはしたない私でごめんなさい・・・」
「えっ?いえ・・・あの・・・どうしたんですかいったい」
僕の心臓は飛び出しそうに鼓動を早めている。むしろ止まりそうだ。
「貴方のような方が来るのを、私はお待ちしておりました」
彼女は僕の肩にもたれたまま、僕の顔をじっと見つめる。
びっくりしすぎて、ちらちらとしか目を合わせられない僕がいる。
「どうか、私の想いを受け止めてくださいませ。それが、佐藤さんの為でもあるんです」
「え・・・」
「私を見てください。私のすべてを受け入れてください」
するりと彼女の右手が伸びて、僕の頬を支えて彼女の顔へ向けさせた。
目を合わせると、うっとりとした彼女の目に妖艶な光が宿っているのが判った。
吸い込まれるような目に、目の前がくらくらとして、なすがままを受け入れていく。
「さあ、こちらへおいでになって」
千穂さんは僕の手をとり、湯舟から立ち上がった。
湯浴み着は濡れて肌に張り付き、ぼんやりと白い輪郭だけを浮かび上がらせていた。
彼女は浴槽を出て、そのまま岩盤浴の床へ僕の手を取り、誘っていく。
ひたひたという僕と彼女の足音だけが、浴槽のせせらぎの中で響く。
僕は促されるまま、岩盤浴の床に横たわる。
千穂さんは間仕切りの簾を降ろし、ふたりだけの空間を作ると、仰向けに寝る僕の傍らへ膝をつき、静かに身を寄せた。
柔らかな唇が触れた。
心臓が跳ねる。
なのに、身体には力が入らない。
むしろ心地よかった。
――いや。
これは、何だ?
心地よいのに、怖い。
千穂さんの瞳を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
妖艶な光を宿した瞳から、目を逸らせない。
甘い花のような香りが鼻をくすぐり、全身から力が抜けていく。
――気持ちいい。
そう思った瞬間、胸の奥から何かが抜けていくような感覚がした。
「……え?」
千穂さんの身体に触れているはずなのに、逆にこちらから何かを吸い取られているような――。
急に、ひどい眠気が襲ってきた。
(佐藤さん、ごめんなさい)
最後に、千穂さんのすすり泣くような声が聞こえた気がした。
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