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第3話 / 全21話
「佐藤さん、佐藤さん?」
ぱたぱたと草履で近づいて来る足音が聞こえ、僕は振り向くと、さっきの仲居さんがお盆を持って立っていた。
「これからよろしくね、接客係の千穂です。これ良かったらどうぞ」
と、小さな萩焼の湯呑と、ぷるんとした瑞々しい桜色した水餅のような和菓子が載った小皿をデスクの上に出してくれた。
「ほんとはね、入社手続きのときにお出しするはずだったんだけど、遅くなってごめんなさい」
「あ、そうだったんですか。わざわざありがとうございます」
「これ、このホテルの名物のわらび餅。お茶は梅昆布茶です。ごゆっくり」
僕は小さな湯呑の中を覗き込む。すると温かな湯気に乗ってふわりと梅と昆布の香りが鼻をくすぐった。
お茶の上に、ちいさな金粉の煌きが輝く。
ホテル名物というわらび餅、わらび餅といえば丸っこい白く透明なものが思い浮かぶが、目の前にあるのは桜色したゼリーのような、ぷるんとした瑞々しい四角く切り出された寒天に、上からきな粉と黒蜜がかかった素朴な和菓子に見えた。
デスクに置かれたことで、ぷるぷるとそのなだらかな表面を揺らし、思わず千穂さんと名乗った彼女のお尻のことを思い出させる。
「梅昆布茶と合うので、ごゆっくりお召し上がりになってね」
「千穂さんていうんですね。いろいろとお世話になります」
僕は立ち上がり、彼女に向き合って会釈を返し、改めて正面から千穂さんを見つめた。
美しい黒髪を後ろにシニョンに結い、美しい額の下に少したれ目気味のぱっちりとした優し気な眼差し。
すっと通った鼻筋の先には、薄紅色の可愛らしい唇。
すっとまとまった清廉な顔立ちに、耳の前に伸びる後れ毛が艶っぽく、少しドキっとさせられる。
千穂さんは口角を上げて白い歯を覗かせて微笑み返すと、「器はそのままにしておいてくださいな。後ほど下げに参ります」と一礼してぱたぱたとフロントの方へ去って行った。
「いやぁ~佐藤さん、千穂ちゃんいい子だったでしょう?」
気が付いたら鈴木課長がすぐ横に立っていてびっくりした。
「あのコも何かと苦労してますから、良かったら仲良くしてやって」
と、東条英機のようなメガネの奥の目を細めて笑い、僕の肩をトントンと叩いた。
「あ、そうだ、鈴木課長、WiFiのパスワード、教えて頂けませんか?」
僕は思い出したように尋ねたら、
「あ~パスワード、何だったっけなぁ~、ちょっと待ってて」と言ってフロントの方へ小走りに向かい、棚から小さく折られた案内を持って戻って来た。
「これ、お客様用の館内案内だけど、見取り図もあるから渡しておくね。WiFiのパスワードも入ってるから」と僕に差し出した。
受け取ってみると、「ご利用案内」と書かれた表紙に、フロントカウンターで微笑む千穂さんの姿が印刷されていた。三つ折りにされた案内を開くと、内側に館内の見取り図と、外側に館内での過ごし方ガイドと注意事項、館内インターネットと書かれたWiFiのSSIDとパスワードがあった。
「QRコードは載せてないんですね」ふと気になって鈴木課長に訊いてみた。
「きゅーあーる・・・ああ、あの四角い模様みたいなやつね。あれって作れるの?」
「ええ、ネットで簡単に作れますよ?」
「おおーそうか、じゃ今度作ってもらおう!佐藤さんさすがだねー!」
と鈴木課長はさらに目を細めて僕の肩を叩き、無邪気な子供のように喜んでいた。
「あーそうそう、これ、制服一式と、作業用の白衣ね。明日は白衣を着て出社してね。研修があるから」
そう言って、制服一式の入った大きな紙袋を手渡された。
明日は白衣か、どんな研修だろう?
「佐藤さんこの業界初めてみたいだから、明日から1か月間、全部署の仕事を少しずつ体験してもらうので頑張ってね。大丈夫、皆田舎者だけど優しいから心配いらないよ。じゃ」
鈴木課長はそう言ってスケジュールが書かれた1枚の紙を机の上に置いて戻って行った。
僕は受け取った紙袋の中身を確認する。
紙袋にはメモで「情シス 伊藤さん」と書かれている。
伊藤さん?
「鈴木課長、制服ですが、『伊藤さん』ってありますけど、間違ってないですか?」
「ん?見せて?ああーごめんね、たぶん用度係が間違えたんだと思う。中途入社は佐藤さんだけだから、これで間違いないよ、ごめんね」
なんだ間違いか、びっくりした。
改めて紙袋の中を確認する。
新品のビニール包装に包まれた、3ピースの制服のスーツ一式、替えのスラックスに、白い前開きの白衣?が入っていた。白衣というより、野球のユニフォームを真っ白にしたような上着だった。
それぞれサイズをチェックし、問題ないことを確認できたので、デスクの傍らに紙袋を置かせてもらった。
まずはWiFiのパスワードだ。
って、パスワードが「seseragi1234」って・・・まぁ客室用だからこんなものか。
とりあえずパスワードをスマホに入力し、WiFiにつないでみた。
電波はしっかり届いてるようだ。
エンジニアの癖で、つい回線の速度テストを実行してしまう。
ゲーゲルのスピードテストを検索して測定ボタンを押す。
・・・1.62Mbps?
【インターネット速度テスト】
インターネットの速度は非常に低速です。
ウェブの閲覧には支障ありませんが、動画の読み込みは遅くなるおそれがあります。
・・・まさかね。
もう一度測定ボタンを押す・・・
結果は1.72Mbps。
どういうことだ?
僕は周囲を見回す。
総務課にもパソコンはある。例のずっと入力し続けている経理さん、向かい側の人事さん、鈴木課長の席にもパソコンはある。そういえばフロント裏の事務所にだって数台あった。
なのに、ネットの速度は令和のこの時代にありえない、僕がまだ小さかった頃くらいのインターネットが普及しはじめた頃のような回線速度。
田舎ってこれがデフォなのだろうか?
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