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第7話 / 全9話
重圧。ただ、重圧。奴の掌が五つの指の山へと姿を変え、俺を地の底に縫い付けてから、どれほどの月日が流れたか。肺は潰れ、呼吸をするたびに肋骨が軋みを上げる。報いだ、と風が嗤う。天を焦がし、神を罵った猿への、永遠に続く罰だと。
感覚が、死んでいく。指先はすでに岩の肌と同化し始めていた。毛皮は抜け落ち、肉は硬い石へと変質していく。俺という個の輪郭が、山の重みに削られ、ただの不恰好な岩塊へと溶けていく。
――それでいい、と思っていた。あの「足音」を聞くまでは。
ペタ、ペタと。肉を焼く熱い風と、亡者の呻きしかないこの地獄に、場違いなほど軽やかな足音が響く。俺の目の前、岩の隙間からわずかに見える視界に、一対の小さな足が現れた。
泥に汚れ、血に濡れた、だが白く柔らかな足。
「……あ……」
声にならない音が漏れる。俺の目の前にしゃがみ込んだのは、十に満たないであろう幼い少女だった。白い衣を纏い、この世の誰よりも澄んだ瞳をした少女。
「……見つけた。私の、お猿さん」
鈴を転がすような声。その幼い唇が、妖艶な曲線を描いて吊り上がる。
「石になるのは、痛いでしょう? 一人で消えるのは、寂しいでしょう?」
俺の石化した頬にそっと手をのばす。と、指先が触れた場所から、心臓を直接握り潰されるような、おぞましい熱が逆流してきた。
「うふふ…」
その幼い少女は、自ら白い衣の紐を解き、胸元を左右に大きく開く。 そして、 露わになった白磁の胸板へ迷うことなく自らの爪を立て、肉を裂いてその細い手をめり込ませた。
びちゃり、と生々しい音がして、はだけた胸元から鮮血が溢れ出す。
だが少女は笑みを崩さない。まるで自身の心臓を掴み取るかのように胸の奥深くまで腕を突き入れ、そこから引きずり出したのは、錆びついた鉄の輪だった。 彼女の血に濡れたそれは、手中で意志を持っているかのように、赤黒く脈打ち始める。
「これを嵌めれば、あなたは再び歩ける。……私の声がある限り、あなたはあなたでいられる」
届いたのは、五百年を生きた俺の魂をも凍てつかせる、業深い女の声だった。
深い「無」の瞳が、女の貌(かたち)となって俺を射抜く。
瞬時に、何故かこの女の言ってることが嘘ではないと理解した。
「選びなさい。このまま静かに山の一部として死ぬか。それとも……この輪を嵌めて、私の“お猿さん”として地獄を歩くか」
俺の全身の毛が逆立った。奴に叩き伏せられた時、俺が感じたのは力への敗北だった。だが、このガキは何だ。この女の瞳は。地獄の最底辺に立っていながら、その瞳の奥には、地獄よりも深い「無」が広がっている。こいつは、人ではない。神でも、魔王でもない。この世に存在してはいけない、あまりにも美しく、あまりにも歪ななにかだ。
「どうしたの、選べないの。五百年の時を生きながら、たかが鉄の輪っか一つが怖いなんて、かっこ悪いね・・・」
女の姿をした何かは、嘲るように笑う。その声は、深淵から響くように冷たい。
「ねぇ、孫悟空」
「怯えてなどいねぇ……」
俺は全身の震えを抑え、掠れた声で返す。
「私はいいのよ。このまま放っておけば、あなたはいずれ、この山の岩となる。それもまた、一つの安息。うふふ」
「安息?冗談じゃねぇ……!俺が、クソガキの足元で、静かに朽ちていくたぁ……想像もできねぇな!」
「なら、選んで」
再び、その選択を突きつける。
「この輪を嵌め私の奴隷となり、この世の苦しみを味わい尽くすか、それとも、生まれる前の岩に戻るか」
その言葉に、俺の胸に燻っていた炎が、再び燃え上がった。
「奴隷、だと?この俺が……お前の奴隷になるだと?」
「うん、そう。それが貴方という“お猿さん”にお似合いよ。うふふふ」
「ふざけんな!」
と、体に再び激痛が走る。鋭い石の結晶が血管を、筋肉を、臓器を食い破るかのような耐え難い痛みが、全身の神経を焼き尽くす。
それは単なる痛みではない。自身の存在が、生きている証が、根本から否定され、固い、冷たい無機物に置き換えられていく過程だ。意識の深奥で、自分の魂の輪郭が、硬質な岩石の形に歪められていくのを、はっきりと感じた。まるで、生きたまま石膏で型取りされるように、自由と生命力が奪われていく。
その時、はじめて恐怖を感じた。これまで、どんな絶望的な状況に直面しても抱かなかった、根源的な、破滅の恐怖だ。それは、死への恐れではない。死よりも恐ろしい、自己の消滅、喪失、そして、意識だけがその硬い牢獄に閉じ込められ、永遠に続くであろう「生きた化石」としての未来への絶望だ。
息が詰まり、皮膚の下でゴリゴリと石が擦れる音が聞こえる錯覚に陥る。このままでは、俺はただの岩塊になってしまう。思考も、感情も、記憶も、全てが石の中に封じ込められてしまう。その圧倒的な非情さと、抗う術のない無力感に、俺の精神は凍りついた。
「……は、めろよ……」
掠れた声で、俺は言った。
「その代わり……いつか、あんたのその首を、俺が噛みちぎってやる」
その言葉は、その時の俺にできる精一杯の反抗だった。
奴は満足そうに目を細め、その赤い鉄の輪を俺の額に押し当てる。
「さあ、これを自分で頭にはめて。そう、あなたの意思で」
俺は、動かないはずの手を、岩盤を割りながら無理やり引きずり出し、震える手でその鉄の輪を掴み取った。重い。これまでのどんな武具よりも重い。それを、自分の額へと押し当てる。
パキリ、と、石に戻りかけていた俺の魂が、鉄の楔によって強引に繋ぎ止められる音がした。脳髄を焼くような激痛。それは、冷たい石の檻から、熱い生の螺旋へと引き戻される、苦悶の産声。
感覚を失いかけていた四肢の末端から、ドロドロと溶けた鉛のような熱が奔流となって駆け上る。皮膚を覆っていた鈍色の硬質な殻が、内側から弾け飛び、砕け散る。石の破片が飛び散る度に、凍っていた血潮が再び脈動し、生命の熱を帯びていく。
目の奥で、永劫の暗闇に沈みかけていた視界に、紅蓮の炎のような鮮烈な光が灯る。五感全てが、錆びた機械のように軋みを上げながら、容量越え寸前の鋭敏さで蘇る。呼吸する肺に、熱い空気が流れ込む。骨の一本一本、細胞の一つ一つが、忘れかけていた「生」という名の呪文を思い出し、激しく震える。
俺は、この痛みと共に生きることを選んだ。全身を貫く激痛は、俺が確かに今ここに存在しているという証だった。
「このままじゃすまねぇぞ」
声を絞り出すのがやっとだった。
「うふふふふ、やっぱり、お猿さんは可愛いいね」
女の姿をした何かは、赤く盛り上がった胸元の傷をさすりながら、淡々と紡いだ。
「あなたはこれから天竺へ向かう。そして、この世の地獄を味わうの。私といっしょにね。だから、天竺までは私の奴隷……天竺に着けたらあなたは自由よ。あとは好きにすればいい。天竺に着けたらね。うふふふふ」
俺の頭を愛おしそうに撫でる手のひらの感触に、俺は屈辱と、そして、何故か名付けようのない「悦び」を覚えた。
これが、俺があの時交わした『契約』だ。
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