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第一部 ルー=ガルーの邂逅 / 第8話
「……え、あ、僕に……ですか」
ぱちぱちと瞼が瞬く。
息を吐いて、言葉を咀嚼する。
「ああ、勿論。伊織君」
黒い箱。
母のアクセサリー箱に、似ている。
中から取り出されたのは、銀色の輪と、錠。指輪よりもずっと大きく、ブレスレットよりさらに重い。
ちょうど、「首」の太さぐらい。
「ッ――……」
イオリではない。
壁際の男が、息を殺し損ねた。
頬の辺りに火を翳されるような熱を感じた。
瀬戸が壁際の動揺に苦笑した。そのまま銀の輪を手に、イオリの前で膝を突く。
「綺麗だね」
――綺麗。
特別な言葉に、喉の奥が詰まる。
目を伏せた瀬戸の顔の方が、綺麗なのに。
「せん、せい」
胸が痛くて、鼓動が早い。
「そんな顔をすることは無い、伊織君」
舌に、甘い痺れが薄く広がる。
瀬戸の手でス……と、輪が開かれた。
光が、水晶のように美しかった。
おくりもの。
それを持つ、清潔な手。
白衣の袖から覗く、ネイビーのスーツ。
やたら口が渇いて、唾を飲み込む。
「いい、ん……ですか?」
瀬戸の瞳に、イオリの姿が映り込む。視線が、頭の中から言葉を消した。
気付けば、
首を差し出していた。
それ以外の姿勢を、知らなかった。
また壁際から、床を擦る足音がほんの一度だけ聞こえた。
冷たい銀が、喉に触れた。
ぞわりと肌が粟立つ。
金属越しに瀬戸の温度を感じる。
呼吸の音さえ聞こえた。
ゆっくりと閉じる輪。自分の輪郭線が、そこで閉じる。
硬いはずなのに、ひどく滑らかだ。
「伊織君」
溢れた吐息が、喉に絡んだ。
瀬戸はイオリの手を取ると、首元へ誘導した。
指先に触れるのは、錠前の弧。
名残を断つように、瀬戸の手が離れた。
ゆっくり、強く押し込むと、
硬い小さな音がした。
息を吸うのが、楽になった。
「――……
ありがとう、ござい……ます」
……やっと、言葉が作れた。
「――わ……若」
低い声。
全員の視線が、黒いスーツの男へ刺さる。真壁が、声の主へゆっくりと振り返った。
「……何だムサシ」
ムサシの手が緩く開き、再びキツく握り締められるのがイオリからも見えた。
「…………便所、す」
俯いたまま、一拍、唇を噛み、息を吐いた。
「便所なら仕方ねえ。先に車戻ってろ」
真壁が鼻で笑い、顎で指示する。
「……うす」
ムサシは眉間に皺を寄せ、肩で風を切りながら部屋を出た。
診察室のドアが、強く閉まった。
「悪いな、瀬戸」
「いや、気にするな。……伊織君、苦しくはないかな」
瀬戸は目を細め、変わらない声と共に笑んだ。
首筋に、手の気配が近付く。
「せ――……」
「先生」
相馬の声。
瀬戸の手が首に触れる寸前で止まり、彼はそのまま立ち上がった。
呼べなかった。
呼ばれてしまった。
「鍵はどうしますか」
イオリは、贈り物についた、錠に触れた。
「ああ、箱ごと真壁に渡してくれ」
「わかりました」
息が、胸に引っ掛かった。
黒い箱を持った相馬。
彼とイオリの目が合った。しかし、相馬は唇を真っ直ぐに結んだまま、背を向ける。
「どうぞ」
「おう」
真壁へ箱を渡すと、相馬は奥の部屋へ向かう。扉が滑り、音も無く閉まった。
「大丈夫かい」
「え……」
胸の中心に、突き刺さる。
不安は、氷みたいだ。
冷たい。
「…か、ぎ……は」
「ああ、真壁が持つよ。大丈夫、その首輪は――」
「先生じゃ、ないんですか」
「……ああ。私にはその資格がないからね」
勝手に首が横に揺れた。
「そんな。……売られる、ん……ですか、僕は」
被害妄想が口を突いた。走ってもいないのに心臓が跳ねる。しかし瀬戸は、イオリの目を見つめて、真剣に首を横に振った。
「そんなことはしないよ」
「売られても、良いです」
「……悪い子だ」
瀬戸はテーブルの向こうへと戻り、腰を下ろす。ティーカップへと手を伸ばし、よどみない所作で紅茶を飲んだ。ソーサーを持つ左手に、首輪と同じ色の指輪。
小さな光が、痛い。
薄い隈をたたえた目が、イオリを見る。
「私は、君の所有者ではないだろう」
「…………はい」
目元に熱を感じる。
涙が零れそうで、せめて笑う。
喉に、見えない空気が詰まる。
それでも、笑って――
「僕に、首輪を……ありがとうございます、先生」
視線を、逸らさなかった。
「いいんだ、伊織君。礼なんて」
瀬戸の手元で、ソーサーとカップが小さく音を立てる。赤茶色の液体が、ゆらりと揺れた。
「アルバイトの事だが、相当煙草臭い事務所だ。彼らを見て分かるだろうが……すまないね」
「あ、いえ! 僕は吸わないですけど、他の人が吸うのは気にしないので」
視線を真壁へ向けると、態とらしく紫煙を吐き出した。
この屋の空気を汚しているのに、空間を作り替えるような圧。
「副流煙に君を曝すのも、私としては気が進まないんだがね。私の知る限り……君が一番、真壁が望む仕事に適していると思ったんだ」
「……仕事」
「このあと、真壁達が事務所まで連れて行ってくれる。初出勤だ」
寒いのに、手が温かい。意味も無く指先を擦り合わせる。
「……俺だ。もうすぐ下りる」
真壁は壁際へ戻り、誰かと小声で通話していた。瀬戸は引き出しから薬のシートを取り出す。
「さて、分量は変えないよ。いつもどおり。また一ヶ月後に」
相馬が薬袋を二枚、テーブルへ置く。そこには「小倉伊織」と既に記されていた。
「一ヶ月後……。先生、ポッキーの日が誕生日、でしたよね」
「ああ、覚えていてくれたのか」
「……はい、今年は何か出来たら」
「いいんだよ、患者はそんなことを考えなくて。気持ちだけで十分だ」
イオリが見ている前で、瀬戸が薬の数を数える。過剰も、不足も無く、いつもと同じ数。
「ありがとうございます」
二つの袋が、閉じられた。
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