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第一部 ルー=ガルーの邂逅 / 第9話
診察を終えたイオリは、真壁と共に部屋を出た。背後には、真壁の足音。首筋が落ち着かない。
逆重力の浮遊感に、白昼夢のような錯覚をおぼえる。
「なあ」
背筋が溶けたかと思った。甘く低い声が、イオリにだけ聞こえるよう、耳元を撫でる。
「アイツに嫁が居るのは、知ってるか」
……アイツ。
――先生。
身体の温度が、一気に下がる。
『一階 です』
扉が開くが、イオリの足は床に張り付いたままだった。イオリと真壁を抱えたまま、エレベーターの扉が閉まる。
『行き先ボタンを、押してください』
煙の香りが染みついた指先が、首に近付く。
パンッ!
「さ…さわら、ないで……ください」
「……へえ」
真壁の手を叩き払い振り返る。
首輪を自分の手で覆い隠しながら後退った。
「せ……先生の奥さんが、何か、僕に関係ありますか」
「知ってるのか、知らねえのか、どっちだ」
「……知ってます。先生から…聞い、て」
後ろの壁に、追い詰められる。
足の間につま先を捻じ込まれ、腿の間に膝が割り込まされる。
普通なら、喜んだ方が良いんだろうか。
いや、首輪を守る方が大事だ。
顎を掴まれ、グッと上を向かせられた。
「お前、アイツの何になりてえんだ?」
「……何、って…別に、僕は」
「お前はアイツと結婚できねえし、ガキも作れねえ。セフレなら出来るかもな? やりてえか?
違うんだろ、伊織」
自分の名前を口にされ、唇と手が震えた。
「あ、当たり前じゃ……」
「アイツに伝えてやろうか、お前の本音」
「やめて下さい!」
「ッ――と……目の前ででけえ声出すなよ」
「……やめて、ください……」
「わかった、悪かった。巫山戯すぎたよ」
真壁の手が離れ、太腿を割っていた膝を退く。
急に心臓がバクバク鳴りだして、汗が噴き出す。
――そんなに、分かりやすかっただろうか。
「そんなカリカリすんなよ。行こうぜ」
「……はい」
扉が横に滑り、開く。
真壁の視線は、もう外へ向いていた。イオリも、外へ顔を向けて、エレベーターを降りた。
駐車場の隅に、一台の黒いミニバンが停車していた。
表通りからは死角になる位置。窓には、濃いスモーク。
その脇に、男が三人。
ミラーサングラスを掛けた腹の太い男が、しゃがんだまま煙草をくわえていた。
アロハシャツを着た壮年の男も煙草をくわえ、バックドアに凭れながら腕時計を確認している。
もう一人は仁王立ちのムサシ。腕組みをして、足先だけが落ち着かない。
駐車場を進みミニバンへ近付くと、真壁が一歩先に出て片手を上げた。
「車出せ。こいつも乗せる」
「うっす」
返事と共に、ぞろぞろと車に乗り込んでいく。
今度は、誰もイオリを見ていない。
ただ一人を除いて。
彼とまた、目が合う。
イオリは、力を抜いて微笑んだ。
彼――ムサシは、眉間に皺を寄せた。
苦い物を飲み込んだような顔だった。
イオリを置いて、男達がドアを閉める。最後にムサシがイオリの前へ進んで、立ち止まった。
「――……」
「……あの」
睨まれた。
その視線が、外れない。
イオリは視線を下へ落とした。すると、キツく握り締められた拳が目に入った。皮膚が白くなるほど、力が込められている。
――殴る側も、痛いんだろうか。
「おいムサシ、ビビらせてんじゃねえぞ」
車内から酒焼けした声。
「……すんません。乗れるか、イオリ」
ムサシの舌打ち。
「……小倉」
それから渋々、ムサシがイオリの背後に回った。
イオリを覆うほどの影が、後ろに行ったことで尚更存在感を増した。
カバンを抱え直して、歩き出す。
「待て。開けるから」
「はい」
逃げる理由が、無い。
ムサシの太い腕が、ドアを開ける。前からも、後ろからも煙草のにおいが濃い。
後部座席の奥には、既に太った男が陣取っていた。
「お邪魔します」
力を抜いたまま笑って、イオリは車に乗り込んだ。続いてムサシが乗り込み、乾いた音を立ててドアが閉まる。
太い男の膝が、イオリの方へはみ出す。逆側で、ムサシの腿が動いた。空気が、少しだけ狭くなる。
イオリは膝を閉じたまま、逃げ場を探さなかった。鞄を抱え、シートベルトを引く。
「痛くねえか」
妙な質問だ。だが、ムサシはすぐに言い直した。
「狭くねえか」
「大丈夫、ですよ」
口答えしたら、また、舌打ちされるだろうか。
カチン、と音を立てて、イオリはシートベルトをロックした。
でも、
舌打ちの音はしなかった。
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