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第一部 ルー=ガルーの邂逅 / 第15話
一時を過ぎると、大森がのそりと起き上がった。
イオリも立ち上がる。それを見て大森は眉を上げた。
「真面目だなぁ坊主。おい、二郎起きろ」
「ふがっ」
「お前バイト以下じゃねえか……」
「や、俺便所掃除で、昼休み入るの遅く――」
「極道が言い訳すんな!」
「すんませんっした!」
大森に怒鳴られ、二郎が即座に立ち上がり頭を下げた。
イオリの喉が、一瞬で冷える。
「よし、仕事始めろ」
「うす」
固まっているイオリに気付かず、何事もなかったかのように、二人とも座った。
「で、坊主。いや、小倉か」
大森は下の引き出しからファイルを取り出し、中から数枚の書類を引き抜いた。そして、机に置かれた眼鏡を掛け、ペンを手に書類に幾つか書き込みをする。
最後に、大きな四角い判を押した。
「小倉、お前今日ハンコ持ってるか」
怒鳴り声の残響から漸く意識が身体に戻る。イオリは首を横に振った。
「いえ、無いです」
「そうか」
「ごめんなさい……普段使わなくて」
机の上に置かれた大森の大きな左手。金色の指輪。
その小指が、短い。
視線を逸らすのが、ほんの一拍遅れた。
目の前に、数枚の書類が差し出される。
「読め。わかんねえところは聞け。で、読んだらココとココとココにサインしろ」
「はい」
一枚目の紙を手に取る。
コピーを繰り返して、少し字が掠れている。書類には、雇用契約に関する事が書かれていた。イオリの名前や時給は、大森の手書き。そこだけがくっきりしている。
他に、誓約書、通知書。
バイトの経験はあったが、こんなにちゃんとした書類を渡されるのは初めてだった。
「オレ、そんな書類貰ってねえなぁ。なぁムサシ?」
「俺達には必要ないんじゃねっすか、ジロサン」
ムサシ達の言葉に、指先が強張った。
細かい文字を、もう一度最初から読む。
心臓がうるさい。集中できない。
さっきの怒鳴り声。次は自分だと、どこかで思っている。
でも、しっかり読まないと危険だ。
万が一、先生を巻き込んじゃ駄目だ。
「お前ら馬鹿だからな。書類、渡しても読まねえだろ」
小さく笑いながら、真壁が立ち上がった。
イオリの肩に軽く手を置き、そのままドアへ向かった。
――お前は違うよな、と言われた気がした。
「二郎、車出せ。マッサン、夜には戻る」
「わかった」
「車回しゃす」
いってらっしゃい、とイオリが顔を上げたのは、とっくに二人が出て行ってからだった。
大森が笑った。
「書いたか?」
「はい」
署名の済んだ書類を渡すと、大森は眼鏡をかけ直し、目を通した。
「おー……字ィ小せえな。じゃあ今書いた書類、コピー取っとけ。それで原本は俺に寄越せ」
「大森サン、コイツ今日は上がらせて良いっすか」
斜向かいの席から、ムサシが立ち上がった。
「あ? あぁ……そういやお前、なんか話してたな」
「うす」
「若はなんて?」
「許可貰いました」
「じゃ、好きにしろ」
「ありがとうございます」
ムサシが頭を下げる。
一拍遅れて、イオリも彼に倣った。
「……ありがとうございます」
『ドアが閉まります。お立ちの方は、手摺り、吊り革にお掴まり下さい』
昼時を過ぎたバスの車内は、空いていた。
初めて乗る路線だったが、スマートフォンを出すより先に、ムサシが「あっちだ」と顎でしゃくった。バス停の看板にはイオリの最寄り駅も書かれている。
これなら、乗り換えもいらない。
ムサシは腕時計を乗り口で翳し、奥へ進む。イオリは定期入れを翳し、追い掛けた。
「スマートウォッチだったんだ」
「ん」
「便利そう」
「ああ。もらいモンだけど」
奥の二人がけ座席に進むと、ムサシは振り返り先にイオリを座らせた。カバンを抱え直すのを待って、隣に腰を下ろす。
「へー……真壁さん?」
ムサシは、前の座席の手摺りを掴んでいた。
「や、大森サン」
納得と疑問が半々浮かぶ。
首元のスカーフを直した。事務所で、大森がくれたものだった。
「ちょっと意外」
「……なにが」
「スマートウォッチとか、使わなさそうだから」
「ああ……そっちか」
ムサシは手摺りから手を離し、一見するとアナログ式に見える腕時計を撫でた。笑ってはいないが、車内のように怒っている空気もない。
もしかしたら、車内では、腹が減っていたのかもしれない。
「大森サン、すげえ色々くれる」
「うん」
「コレは、使い方分かんねえって、くれたヤツ」
ムサシの視線が、イオリの襟元に落ちた。
「……それは若の…真壁サンの」
「えっ」
「大森サン、クリーニングに出してた」
「い……いいのかな、それ」
その時、バスがきついカーブに差し掛かった。車体が揺れ、イオリの体は窓に押し付けられる。
しかし、それ以上の重さは、のし掛からなかった。
ムサシの左手が、再び手摺りを力強く掴んでいた。
カーブを抜けて、重さは感じなくなる。細い道を抜け、見覚えのある通りに出た。
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