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第一部 ルー=ガルーの邂逅 / 第14話
ムサシは数分で戻ってきた。
「おかえり」
両手に袋を持ったムサシの代わりに、イオリがドアを開いた。
「半分持つよ」
「いい」
ムサシは一度だけ首を横に振った。外は涼しいのに、額には汗が滲んでいる。
「走ってきたの?」
「いつも」
短い返事のあと、荒い呼吸が一度だけ混じった。
「二郎、まだ便所掃除終わんねえのか」
大森の声が奥へ呼びかける。
ムサシはそれぞれの机に、黒い仕出し弁当を並べていく。一人一つ。大森だけ二つ。最後にイオリの分は、応接スペースのローテーブルに。
「さっきの」
上から、突然ムサシの声が降った。
「えっ……はい」
イオリの声に男達が顔を上げる。するとムサシは、一段階声量を落とした。
「……さっきのお願いって、何だ」
瞬きを数度。その間も、ムサシは上から見つめていた。
「あ……一度、家に。ちゃんとここに戻ってくるので、一度帰りたいな、って」
「わかった」
「あ……ありが――」
「何時」
「え?」
「戻る時間」
「……一時間ぐらいで。あ、でも移動時間…」
「――なら、六時半。駅前」
ぬるい緑茶のペットボトルが、胸に押し付けられた。
「俺が迎えに行く」
ムサシが手を離す。
落としかけたペットボトルを受け取り、イオリはぎこちなく頷いた。
「腹減ったー」
奥から掃除を終えた二郎が現れ、立ったまま弁当の蓋を開けた。大森が顔を顰め、煙草をもみ消した。
「座って食え二郎、焼豚にするぞ」
「うっす、すんません」
次々に輪ゴムが捩れ、割り箸が割られる音が響く。イオリも座って、彼らに倣った。
冷めた白米の、ほのかに甘い香り。
蓋を開けた弁当には俵型の白米が並び、焼売と筍、塩鮭にインゲンのゴマ和え、卵焼きが隙間なく収まっている。おかず同士の間に、緑色のバランが几帳面に挟まれていた。
特にごま塩を振られた白米が、みッちりと窮屈そうだった。
焼売のとなりに、見覚えのある小さな醤油差しが入っていた。地元で有名な店のマスコットだ。
弁当箱を持ち上げると、ずしりと重い。
――あれ、多いな、と思う。
ソファに座ったまま顔を上げると、パーテーションに遮られ男達の姿は見えなかった。
やがて食べ終わったのか、ゴミ箱に何かを投げ入れる音。二郎の盛大なゲップ。
まだイオリの手元には、弁当が半分以上残っている。味の濃いおかずが、ゆっくりでも箸を進ませる。
「マッサン、後で書類一式出しとけ」
食事中は無言だった真壁の声が事務所に響いた。
「ああ、わかった」
「二郎……いや、ムサシ」
「うす」
「アイツのメンターな」
イオリは、背中で会話を聞いていた。俵を一つ、口に運ぶ。
「俺が?」
「お前以外にムサシはいねえだろ」
「……うす」
ぬるい緑茶で、流し込む。
カバンからスマートフォンを取り出して、「メンター」で検索した。
――日本語で、「指導者、助言者」と訳される。業務よりも、新人個人の成長やメンタルをサポートする。
と、書かれていた。
鷹のような目と、手の火傷痕を思い出す。
成長、と音も無く呟いた。
変化を美しく言い換えただけだ。
そう、思ってしまう。
梅干しの種が、歯に当たった。
「足りたか、坊主」
酒焼けした声。アロハシャツの裾が目に入る。大森がパーテーションの向こうから来た。
「あー、まだ飯食ってたか、すまんな。まあ、ゆっくり食え」
「ありがとうございます。美味しいです」
「で、だ。飯食いながらでいい、聞け。坊主のバイトは立場上、俺の補助ってことになる」
「……」
口を動かしながら、頷く。
大森が向かいにどっかりと腰を下ろした。
「書類は後でな。一時まで俺は寝る」
ずし、とソファが軋む。大森はそのまま横になり両脚を投げ出した。
太い足。太い腕。だが、白髪のわりに弛んでいない。この人が、直属の上司になるのだろう。……形の上では。
イオリは黙って、弁当を食べ進めた。
米の俵が一つ、最後に残る。
腹は重い。箸が止まった。
こんなに食べたのは、久しぶりだった。
「はぁ……」
「真壁さんに、許可取った」
影と共に、頭上から低い声が降った。
顔を上げる。ぬるいお茶を一旦口に留める。
「……――僕が、家に帰る話……ですか?」
ムサシは黙って頷いて、顎で何か示した。
「もし腹の具合悪いなら残せよ」
テーブルの上、食べきれない弁当箱。イオリは眉尾を下げて苦笑いを漏らした。
「いや、お腹いっぱいになっちゃって」
「マジか」
その言い方と、驚いた顔。
本当に不思議そうだった。
気付いたら、自然に笑っていた。
「なるよ。……大盛りでしょ」
「大盛り」
ポケットに入れた手を抜いて、ムサシはイオリに手のひらをさしだした。
「食っていい?」
「食べかけだよ」
「いい。気にしねえ」
ムサシは手のひらを上に向けたまま、待っていた。いや、流石にそこに乗せるのは嫌だった。
使っていた箸を差し出す。ムサシは一度首を傾げて、受け取った。
残っていた俵の米は、一口で食べられた。
「ありがとう」
「ゴミ、捨てとけよ」
「うん」
「じゃあ」
ほんの少し、昼下がりの一時間を思い出した。
机を寄せた感触。
いつもの顔。
コロッケパンのにおい。
ムサシという同級生がいた。
――でも、違う。
髪の色も、体格も。
空になった弁当箱の蓋を閉じて、全部ゴミ箱に捨てた。
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