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第5章 最初の悪 / 第14話
私の部屋に入ると、ローレンスは私をソファーへと下す。離れたくない。どこかに行くなんて一言も言っていないのに、ローレンスを引き留めようと手首を掴んだ。
「どこにも行かないでください」
涙でぐしゃぐしゃになりながら、首を大きく横に振る。ローレンスはにこっと微笑むと、もう片方の手で私の手に触れた。
「どこにも行きません。殿下のお傍からは離れませんよ」
跪きながら、目を細める。
誰が、どうしてこのようなことを。混乱の渦中にいながらも、疑問は浮かんでしまう。そして、疑問は怒りへと変わっていく。
「オスカーはいますか?」
私が声を張ると、扉の隙間からオスカーが顔を覗かせる。
「暴虐者を捕らえてきなさい」
「それは心配に及びません」
オスカーは引き締まった表情で、やはり笑顔は見せない。
「あんなことをして、逃亡できるはずがないのです」
その言葉に、心にのしかかった重りがすっと外れるようだった。しかし、オスカーは続ける。
「ですが、他にも仲間がいるかもしれません。警戒は解かない方がよろしいかと」
まさか、城内にも暴虐者がいるというのだろうか。解れかけていた緊張は、再び私の心を凍てつかせていく。
厳戒態勢はすぐには解けず、オスカーや侍女たちが扉付近を見張る。廊下からは「いたか!?」だとか「こっちはどうだ!」などと男性の声が漏れ聞こえてくる。
食事も侍女の手で運ばれてきたけれど、口を付ける気にはなれなかった。
「殿下、少しでもお食べになりませんと」
「毒が入っていたらどうするのです?」
震える声を絞り出すと、ローレンスはスペアのスプーンを手に取り、スープを掬う。それを自分の口へと運んでしまった。
「ローレンス……!」
「毒は入っていないようですね」
そういう問題ではない。仮に毒が入っていたら、ローレンスの命はなかったのだ。私を一人きりにしないで欲しい。感情は雫となって瞳から零れ落ちる。
「殿下、私のために涙など流さないでください」
ローレンスは苦笑いをすると、私にスプーンを握らせた。その手の温もりを離したくなくて、思わず握り返してしまう。
「殿下?」
「貴方は私にとって特別なのです」
初めて私に微笑みかけてくれた。初めて私を窘めてくれた。初めて私から花を贈った。初めて私の命を心配してくれた。私に初めてをたくさんくれた人なのだ。
絶対に失いたくない。この気持ちに名前は付けられないけれど、今はそれでいい。
人目をはばからず、ローレンスの胸に飛び込んだ。鎧を着けているので、手に触れた質感は硬い。
「殿下、いけません。私のようなものに、そのようなことは――」
「いいのです。私がこうしていたいのです」
最初はうろたえていたローレンスだったけれど、私の涙が収まっていくのを見たのだろう。ゆっくりと、大きな手が背中に回った。
ずっとこんな時間が続けばいいのに。願いは風に乗って、父王の元へは届かなかったらしい。
数日後、隣国の役人が父王の元を訪れた。
「聞いた? あの暴虐者、隣国の者だったんでしょう?」
「処罰はどうなるの? 我が国で裁けるの?」
「隣国で極刑らしいよ。しかも、公衆の面前で」
部屋に閉じこもる私の耳にも、侍女たちの噂話は舞い込んでくる。私はどうすればいいのだろう。私を襲ったものが裁かれ、命を落とそうとしている。確かに憎い。でも、それだけでは片付けられない感情があった。
私の様子を見に来たローレンスに、小さく問う。
「私はあの時、どうして襲われなくてはいけなかったのでしょう」
ローレンスは私の前で跪くと、儚い微笑みを湛えた。
「あれは、資源の少ない隣国を憂いて起こした行動です。殿下は何も悪くはありません」
「どうして我が国を標的にしたのでしょう」
「殿下はこの国をどう思っておられますか?」
逆に問われてしまったものの、返答には困る。
「私は城の周辺しか知りません。花がたくさん咲いていて、空が広くて、空気が美味しくて、素敵な場所です」
「そうです。この国は自然豊かなのです。隣国の者には、それが羨ましかったのでしょう」
だから、暴虐に及んだ、ということなのだろうか。この国を奪いたかったのだろうか。私には理解できない。
「ですから、殿下はこの国を『愛おしい』と思う心を忘れないでいてください」
ローレンスは私の手をそっと握る。私にはこの豊かな自然が当たり前なので、特別だとは思っていなかった。でも、ローレンスが言うならそうなのだろう。
「分かりました」
ローレンスが私を守ってくれているように、きっと、私がこの自然を守り抜いてみせよう。誓いにも似た感情が沸いてきて、口を結ぶ。すると、ローレンスはにこやかに笑ってくれたのだ。
私にそれができるなら、この人の笑顔も守り抜いてみせよう。自分ではローレンスにほとんど微笑みかけはしないのに、笑顔が温かいものだと理解してしまっていた。
ずっと、いつまでもローレンスと共にこの国で生きていけると思っていたのに。世界が私を、この国を放っておいてはくれなかった。
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