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第10話 / 全14話
タワーマンションの広大なリビング。壁一面を覆う巨大な高精細モニターに、青白い光が妖しく明滅していた。
画面に映し出されているのは、絶対王者ヴァルター・クライスの過去の戦闘記録、そして昨日俺がVIPルームのモニター越しに目撃した、豪徳寺レオンの惨殺シーンだ。
「再生。速度は〇・〇一倍……フレーム単位で送れ」
俺の掠れた声に反応し、AIアシスタントが映像を極限まで引き延ばしてスロー再生する。
高熱の炎を全身に纏い、猛然と突き進むレオン。その数メートル手前で、ヴァルターは微動だにせず、ただポケットに手を突っ込んだまま静かに視線を向けた。
直後──何の予兆もなく、レオンの纏う炎が一瞬で掻き消える。
次のコマでは、超熱伝導金属の甲冑を装着したレオンの巨体が、目に見えない巨大な万力で押し潰されたように「く」の字に折れ曲がっていた。
血飛沫すら噴き出す隙を与えず、一瞬で肉塊へと変貌した悲惨な光景。
「停止。熱源データと空気振動ログを重ねろ」
モニターの端に、幾重もの波形グラフがポップアップする。
俺は赤く血走った目を擦りながら、穴があくほど画面を睨みつけた。
(……おかしい。異常すぎる……!)
熱エネルギーの移動、一切なし。
空気の粗密による音波や衝撃波の波形、一切検出されず。
電磁波の急激なスパイクも、真空状態の発生を示す気圧の変化すらも見当たらない。
「クソッ、何で何も映ってねえんだよッ!?」
俺は乱暴に髪をかきむしり、手元にあった端末をテーブルへ叩きつけた。
衝撃波や熱ならば、空気という媒体を介する以上、必ず物理的な痕跡が残る。
鳴神の音波攻撃だって、空気を歪める衝撃波として俺の直感で捉えることができたし、地下配管を破裂させて水を撒くという対抗策(ロジック)を組み立てることができた。
だが、ヴァルターの攻撃にはそれがない。
何も構えず、何のエネルギー放射も測定されず、ただ「そこに立ち入った者が内側から押し潰される」。
まるで空間そのものが、ヴァルターの意思一つで命を噛み砕く歯車に変形したかのようだ。
「物理現象のはずだ……奇跡だの神の力だの、そんな抽象的なモンで人が死ぬわけねえだろ……!」
俺は冷えた声を漏らし、サイドテーブルの上に並べられた豪華な折詰に手を伸ばした。
都内有数の高級鮨店から出前させた、一折数万円もする極上の江戸前寿司。熟成された本マグロのトロ、ウニ、アナゴ。
昨日の昼までは、これを口に運ぶたびに「俺は勝ち組だ」という全能感に酔いしれていた。
だが、口の中に放り込んだマグロの脂は、ただのヌルりとした嫌な固形物にしか感じられなかった。
噛んでも、噛んでも、味がしない。まるで湿った砂を噛み砕いているかのようだ。
喉を通すことすらできず、俺は紙ナプキンに寿司を吐き捨て、喉を濡らすためにスパークリングワインのグラスを煽った。
かつては最高のご馳走だった黄金色の泡が、今は酸っぱい毒液のように胃を焼く。
射程、わずか一メートル。
それが俺の『瞬間冷凍』の絶対的な限界だ。
敵を凍らせるには、どうしてもその一メートルの距離まで踏み込むか、あるいは水や金属といった媒介を伝わせて冷気を送り込むしかない。
だが──ヴァルターの「絶対領域」は、その間合いに踏み込むことすら許さない。
近づいた瞬間に肉体を内側から押し潰され、レオンのように肉塊にされて終わる。
媒体を伝わせようにも、敵の周囲の空間そのものが攻撃であり防御なのだとしたら、冷気すら届かずに消滅させられるのではないか?
(手詰まりだ……完全に、解法がない……)
視界が歪み、急激な目眩が俺を襲った。
ふと見渡した自室。
手に入れたばかりの都心の超高層タワーマンション。足元に広がる数百万ドルの夜景。仕立てのいいシルクの部屋着。
ボロアパートの極小部屋から抜け出し、命を賭けて掴み取ったこの富と名声が、今や俺を押し潰す巨大な重石となってのしかかってくる。
かつて漁港の安アパートで凍えていた頃は、失うものなんて自分の惨めな命くらいだった。
だが今は違う。億単位の金、万人の称賛、回らない寿司、この贅沢な暮らし──すべてを手に入れてしまったからこそ、それらを失うことが、死ぬことが、失心するほど恐ろしい。
かつて巨大冷凍施設に閉じ込められ、体温を奪われて感覚が消えていったあの日の死の暗闇。
あの絶対的な絶望と恐怖が、贅沢なリビングの影からぬっと顔を出し、俺の喉元を締め上げてくる。
この成功の象徴であるはずの広い部屋が、今では逃げ場のない冷酷な拷問部屋にしか見えなかった。
「……ハッ、笑わせるなよ」
俺は震える声で呟き、両手で顔を覆った。
「こんなところで……終わってたまるかよ……」
画面の中で静かに佇む無敗の絶対王者。その影に向かって、俺は血の滲むような焦燥感を燃やしながら、再び終わりの見えない映像分析へと没頭していった。
試合まで、あと二日。
俺は一瞬たりとも眩暈のするような眠りに落ちることなく、狂気じみた作業を続けていた。
無数のデータウィンドウが空中に浮かび上がり、タワーマンションの広大なリビングを青白い光で埋め尽くしている。
「仮説パターン四十七……『指向性を持つ極小の透過衝撃波』」
俺はかすれきった声で呟き、キーボードを叩いた。
音波使いの鳴神のように、空気を振動させて相手を打撃するタイプか。もしそうなら、衝撃波が通過する直前に空気密度の変化や波形の歪みがどこかに発生しているはずだ。
だが、シミュレーションソフトが導き出した回答は無情にも赤く点滅した。
【適合率:三・二%。条件不成立。空気振動による衝撃波の痕跡は検出されません】
「じゃあ……仮説四十八だ! 『局所的な超高電磁場による微粒子破壊』……!」
【適合率:一・五%。金属反応、過剰な熱分解現象ともに不成立】
「クソがッ……なら『気圧の急激な減圧・加圧』はどうだ!? 空間の空気を一瞬で真空にして、その圧力差で内部から破砕させてるんじゃねえのか!?」
【適合率:四・八%。密閉空間における気流の乱れが観測されず。不成立】
弾き出されるのは、冷酷な「不成立」の文字ばかりだ。
物理現象として理屈が通るはずのあらゆる可能性を仮説として打ち立て、シミュレーション空間に俺とヴァルターの3Dモデルを配置して突撃させる。
だが──結果は全て同じだった。
画面の中の俺のモデルは、ヴァルターの半径五メートル以内に足を踏み入れた瞬間、何一つ手出しできないまま、不可解な「空間の歪み」によって全身の骨格を破砕され、ぐにゃりと押し潰されて床に転がる。
一度たりとも、俺の『瞬間冷凍』の有効射程──半径一メートル以内に足を踏み入れることすらできない。
全敗。全滅。死亡確率、九十九・九%。
「あ……あぁ……ッ」
喉から絞り出すような情けない声が漏れた。
指先に冷気を集中させ、掌に小さな氷の塊を作り出してみる。
シャリ、と冷たい音を立てて出来上がった氷は、この暑い夏場の室内空気によって、ものの数秒で表面からドロドロと溶け落ちていく。
冷気は、勝手に空間を飛んでいかない。
足元の水、敵の着ている金属の甲冑、濡れた床──何らかの『媒介』が存在しなければ、俺の冷気は相手のもとへ届きすらしない。
だが、ヴァルターのあの正体不明の力は、近づく媒介そのものを、俺の身体ごと内側から粉砕してしまうのだ。
氷の壁を作って防ぐ? 意味がない。壁ごと押し潰されるだけだ。
床を伝わせて凍らせる? 届く前に床ごと空間を粉砕されたら終わりだ。
水をもらって遠距離から導線を作る? 鳴神の時のように都合よく水が湧くわけもなく、そもそも水流ごと万力で潰されれば冷気の伝達など遮断される。
詰み(チェックメイト)だ。
完全に、手詰まりだった。
どれほど知恵を絞ろうと、どのような環境を利用しようと、前提となる「相手の異能の正体」が解明できない以上、物理トリックの組み立てようがない。
その時、壁の通信モニターがピコンと抜けけた電子音を鳴らし、勝手にホログラム映像を展開した。
『やあ、ケイジ君! 調子はどうだい?』
浮かび上がったのは、仕立てのいいスーツを着たプロモーターの、能天気で不快極まりない笑顔だった。
『素晴らしいニュースだよ! 明後日のヴァルター戦、公式アリーナの指定席チケットは発売開始からわずか三秒で完売だ! 闇配信の事前賭け金額も、すでに過去の最高記録を大幅に更新して数億ドル規模に膨れ上がっている!』
プロモーターは画面の向こうで上等な葉巻をくゆらせ、満足そうに目を細めた。
『世間は君の新しい「奇跡」に熱狂しているよ。あの絶対王者ヴァルターを相手に、成り上がりの一攫千金男がどうやって一メートル以内に近づき、凍らせるのか……みんな首を長くして待っている。期待に応えてくれよ、我がアリーナの新しいスター?』
「……プロモーター」
俺はデスクの端を指が血を噴き出すほど強く握り締め、低く濁った声で呟いた。
「お前……あいつの能力の正体を知ってて隠してんのか……?」
『おや、まさか。私はただの興行主だよ。ファイターの能力の秘密を解き明かすのは、挑戦者自身の仕事だ』
プロモーターは芝居がかった動作で肩をすくめてみせた。
『それに……理由のわからない怪物に、持たざる者が知恵と執念で立ち向かう。それこそが視聴者が金を払ってでも見たい「エンターテインメント」だろう? 健闘を祈っているよ。死なない程度に、最高のショーを見せてくれたまえ』
プツン、と通信が切れた。
部屋に再び静寂が戻る。
「……殺すぞ……ッ!!」
俺は激昂のままに手元にあった重厚なガラス製のアッシュトレイを掴み、通信モニターに向かって思い切り投げつけた。
ガシャアンッッ!!
派手な破砕音が響き渡り、液晶画面が蜘蛛の巣状に亀裂を走らせてブラックアウトする。
荒い息を吐き出しながら、俺は胸を激しく上下させた。
プロモーターを殴り殺したところで、何の解決にもならないことくらい分かっている。
だが、世界中が俺を「最高の見せ物」として消費し、勝ち目のない処刑台へ送り込もうとしている現実に、吐き気が止まらなかった。
投げ銭の数字も、ファイトマネーの億の金も、死んでしまえばただの電子データだ。
何一つ、あの世へ持っていくことはできない。
不意に、額からポタリと冷や汗が落ち、手元のキーボードを濡らした。
画面には依然として、無表情でこちらを見下ろす絶対王者ヴァルターの顔写真と、無数の「不成立」を示す赤文字が整然と並んでいる。
どんな仮説を立ててもゼロ。
どんなシミュレーションを重ねても全敗。
あと二日。
時間の砂時計が刻一刻と削られていく中で、俺の脳内は完全な暗闇と手詰まりの焦燥感に塗りつぶされていた。
決戦前夜。
部屋を支配する静寂の中、タワーマンションの広大な窓の外には、地上の宝石箱をひっくり返したような都心の夜景が広がっていた。
だが、どれほど眩い光の海を見下ろそうと、俺の胸に去来するのは冷え切った虚無感と、胃の奥を焼き尽くすような吐き気だけだった。
「……くそッ……」
血走った目をしばたき、俺はソファに深く倒れ込んだ。
視界の端で、薄暗い部屋の天井が歪んで見える。まるふた晩、一秒たりとも目を閉じずにヴァルターのデータを貪り続けた限界が、思考能力をすり潰していた。
出された結論はゼロ。
何度計算をやり直しても、どのシミュレーションを通しても、答えは変わらない。
射程一メートルの俺が間合いに踏み込む前に、理由のわからない「空間の歪み」によって肉体を破砕され、無様に死ぬ。ただそれだけの未来が、冷酷な確定事項として俺の目の前に突きつけられていた。
静まり返った室内で、耳鳴りだけが甲高く響く。
その不快な音に重なるように、俺の脳裏に忘れていたはずの「記憶」が不吉な黒い影となって蘇ってきた。
(──寒い……暗い……誰か、開けてくれ……!)
巨大冷凍施設の中。誤って閉じ込められ、厚い金属扉を叩き続けたあの日の記憶。
指先の感覚が失われ、皮膚の表面が痛みに痺れ、全身の熱が徐々に、確実に奪われていったあの恐怖。意識が落ちる直前、全身の毛穴から冷や汗が吹き出し、自分の命が氷のように砕け散っていく感覚。
あの時感じた絶望的な「死の足音」が、今、この最高級タワーマンションの豪華なリビングで、再び俺の喉元を締め上げている。
いや──あの時以上の、生々しい死の恐怖だ。
ボロアパートで泥水をすすっていた頃なら、失うものは己のちっぽけな命一つだけだった。
だが今の俺には、億単位の富がある。万人の歓声がある。最高級の寿司やスパークリングワイン、仕立てのいい服、誰もが見上げるこのタワーマンションの暮らしがある。
成り上がり、本物の「成功」の味を知ってしまったからこそ──それら全てを失い、あのアリーナの床で肉塊となって死ぬことが、失心しそうなほど恐ろしい。
「……死にたく、ねえ……!」
掠れた声が口から漏れた。
気がつけば、自分の右手がガタガタと激しく震えていた。
かつて無数の強敵を凍らせてきたこの右手が、恐怖のために歯止めが利かないほど震えている。俺は左手で右腕を力任せに掴み、必死にその震えを抑え込もうとした。爪が肉に食い込み、血が滲むほどの力で締め上げても、恐怖の冷え込みは体幹から消え去ってくれない。
何一つ攻略の糸口を掴めていない。
弱点も、攻撃の理屈も、万に一つの逆転のロジックすら浮かばない。
このままあのアリーナへ向かえば、俺を待っているのは死だ。
「何か……何かあるはずだろ……! 物理法則からは逃げられねえはずだ……!」
虚ろな目で破砕したモニターの破片を見つめ、声にならない叫びを上げる。
だが、暗闇から返ってくる答えは何もなかった。無情な時間の経過だけが、俺を死刑台へと着実に押し進めていく。
焦燥と恐怖に苛まれ、暗い部屋で一人、膝を抱えて震えているうちに──東の空がゆっくりと白み始めていた。
夜明けだ。
俺の絶望など意に介さず、太陽が容赦なく都会のビル群を照らし出していく。
手元で小さく震えた端末が、液晶画面に一通の機械的な通知を表示した。
【大会運営より:公式ファイトアリーナ行きのエスコート車両が、マンション一階ロータリーに到着いたしました。速やかにご乗車ください】
決戦の朝が、訪れてしまった。
俺は乾いた唇を噛み締め、ゆっくりと立ち上がった。
膝が笑い、足元が酷くおぼつかない。姿見に映る自分の顔は、頬がこけ、目の周りに濃い隈が浮かび上がり、まるで死人のようだった。
弱点も解明できず、対策も何一つ立てられないまま、俺は無敗の絶対王者が待つ死地へと向かわなければならない。
仕立てのいいジャケットに袖を通し、俺は冷え切ったタワーマンションの自室を後にした。
エントランスを抜けると、朝の澄んだ空気の中に、漆黒の重厚な高級送迎車が静かにエンジン音を響かせて待機していた。
ドライバーが恭しく後部座席のドアを開ける。
その黒々とした車内の暗がりが、まるで俺を飲み込む棺桶の入り口のように見えた。
俺は震える足で一歩を踏み出し、静かに車内へと身を沈めた。ドアが重々しい音を立てて閉まり、車は公式ファイトアリーナを目指して、滑らかに走り出した。
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