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第9話 / 全14話
夜景を見下ろすタワーマンションの最上階。
ガラス越しに広がる無数の光の海を背に、俺は木目の美しい白木のカウンターで仕込みが施された極上の寿司を口へと運んだ。
熟成されたマグロの大トロが、舌の上で芳醇な脂とともに一瞬で解けていく。
「……美味いな。やっぱり本物は違うぜ」
思わず口元から満足げな吐息が漏れた。
ボロアパートに住んでいた頃、夏の盛りに親友のタカシと突いたあの安っぽい魚鍋の味なんて、もう思い出せもしない。いや、思い出そうとも思わない。
あの泥臭い漁港での生活や、ぬるい水を冷凍させて喜んでいた貧乏な自分は完全に過去のものだ。今の俺は、闇配信の熱狂が生んだ時の人であり、巨万の富を手にした成功者なのだから。
鳴神響との公式ファイトを制した夜、俺の口座に振り込まれた金額は、ファイトマネーと投げ銭を合わせて数億円に上っていた。
一度の勝利で人生が激変する。この全能感こそが、俺が求めていた世界の頂の空気だ。
(射程が短かろうが、媒体を壊されようが……俺の『瞬間冷凍』とこの頭脳があれば勝てる。どんな奴が来ようと、俺の成り上がりの踏み台にしてやるだけだ)
冷えた最高級のスパークリングワインを飲み干し、二貫目のウニに手を伸ばそうとしたその時、テーブルの上に置かれた端末がブブッと短く震えた。
プロモーターからの直通回線だ。
「やあ、ケイジ君。祝杯の最中にすまないね」
ホログラムで浮かび上がったプロモーターの顔は、相変わらず胡散臭い笑みを浮かべていた。
「何の用だ? 次の試合のファイトマネーなら、提示された額で契約書にサインしたはずだぞ」
「ふふ、金の話じゃないんだよ。君の次の対戦カードについて、どうしても見てもらいたいものがあってね」
プロモーターは細い指を鳴らし、端末に一つのデータを転送してきた。
画面に表示されたのは、重厚な漆黒のコスチュームを身に纏った男のプロファイルだ。
『コードネーム:アブソリュート』
ヴァルター・クライス。
公式ファイトの頂点に君臨し続ける、無敗の絶対王者。
その威圧的な佇まいは、画面越しであっても異彩を放っていた。
「これが……俺の次の相手か」
「そうだ。そしてね、今夜これから、公式アリーナで彼のエキシビションマッチが急遽開催されることになったんだ。しかも、対戦相手は君もよく知る男だよ」
画面が切り替わり、見覚えのある大柄な男の姿が映し出された。
全身に火傷の痕を残し、復権を誓うような鋭い眼光を放つ男──豪徳寺レオン。
「レオン……? あの熱波野郎か。俺にヒートショックで甲冑を砕かれて沈んだ奴が、もう復帰したのか」
「元王者の面目にかけて、ヴァルターに挑む特別マッチさ。ヴァルターの戦いを特等席で観戦できるよう、アリーナのVIPルームを用意しておいた。君とヴァルターのタイトルマッチは三日後だ。相手のデータを集めるには絶好の機会だろう?」
プロモーターの言葉に、俺は口元を不敵に歪めた。
「ふん、わざわざ出向く必要もない気はするが……まあいい。王者のタマがどれほどのものか、特等席で見物してやるよ」
ワイングラスをテーブルに置き、俺は仕立てのいい高級ジャケットを羽織った。
三日後に控えた絶対王者との決戦。
無敗の王者だろうが関係ない。俺の『瞬間冷凍』の餌食にして、更なる高みへと駆け上がってやる。
そう自分に言い聞かせながら、俺はナイトシーンの光が眩しいタワーマンションを後にした。
公式ファイトアリーナのVIPルーム。防音ガラスで仕切られたプライベートルームから見下ろす巨大リングは、普段自分が立っている時とはまるで違った熱気を孕んでいた。
アリーナの中央に立つ二人。
一人は、以前俺がヒートショックで沈めた熱波使い、豪徳寺レオン。激闘の傷は癒えたようだが、その全身からは俺に敗れた屈辱を晴らそうとする荒々しい威圧感が渦巻いていた。
そしてもう一人──漆黒のコートを纏い、リングの中央で微動だにせず佇む男、ヴァルター・クライス。
「……あいつが、無敗の王者か」
腕を組み、革張りの椅子に深く腰掛けながら俺は呟いた。
ヴァルターからは、殺気も気負いも一切感じられない。ただそこに「存在している」だけで、アリーナ全体の空気を支配しているかのような圧倒的な異彩。
ゴングの重厚な音が響き渡ると同時に、レオンが咆哮した。
「失った名声は、貴様を喰らって取り戻すッ! 燃え尽きろォッ、ヴァルター!!」
レオンの全身から、俺と戦った時を遥かに凌駕する爆炎のような灼熱の熱風が吹き荒れた。アリーナのコンクリート床が熱で赤く染まり、空気そのものがドロドロに歪む。
かつて俺の氷の壁を一瞬で蒸発させた激熱の奔流が、壁となってヴァルターへと襲いかかる。
だが──ヴァルターは脚一歩すら動かさなかった。
彼がただ、右手の指先をかすかに空中で揺らした、その瞬間のことだった。
「──え?」
俺の口から、無意識に間抜けな声が漏れた。
レオンが放った数千度の熱風の嵐が、ヴァルターの数メートル手前で、まるで最初から存在しなかったかのように『消失』した。
相殺されたのではない。吹き飛ばされたのでもない。激しい熱気も、揺らぐ空気の歪みすらも、境界線でスパッと切り取られたかのように一瞬で影も形もなく消え失せたのだ。
「なっ……!? 俺の熱波が……消えた……!?」
レオン自身も何が起きたのか理解できず、目を見開いて硬直する。だが、勢いそのままに赤熱化した拳を突き出し、ヴァルターへと突進した。
「死ねぇぇぇッ!」
ヴァルターは、突進してくるレオンを前にしても、身構えすらしない。
ただ、冷徹な一瞥を向けただけだ。
直後、目に見える攻撃も、衝撃波も、冷気も存在しないまま──レオンの巨体が、空中でおかしな屈曲を見せた。
メリ、と不気味な音がVIPルームのモニター越しにも鮮明に聞こえた。
レオンの右腕が、次いで胸部が、何かに叩かれたわけでもなく、まるで内側から空間そのものを押し潰されたかのように、不可解な角度でぐにゃりと歪んだのだ。
「ガあぁぁっ……!? ぐ……あ……ッ!?」
血飛沫すら上がらない。
ただ、レオンの全身の骨と筋肉が内部から急激に圧迫され、断末魔を上げる暇すら与えられずにコンクリートの床へと崩れ落ちた。
「試合終了ぉぉぉッ! 勝者、アブソリュート、ヴァルター・クライスぅぅぅッ!!」
実況の狂乱した叫び声と、会場を揺らす怒号のような歓声が巻き起こる。
わずか数秒の出来事だった。公式ランカーであるレオンが、一歩も近づくことすらできず、手も足も出ずに瞬殺された。
「……おい……なんだ今のは……?」
俺は立ち上がり、ガラス窓に顔を近づけてリングを凝視した。
額から、ツーッと冷たい汗が落ちていく。
頭の中で、これまで培ってきた物理のロジックを必死に回転させる。
熱の伝導か? 気化熱か? 空間の膨張か? あるいは気圧の変化による圧殺か?
……ダメだ。何一つとして当てはまらない。
熱波が一瞬で消え去った原理も、レオンの身体が内部から崩壊した現象も、俺の知る物理法則の範疇を完全に超絶していた。
王者が使った異能の「仕組み」すら、俺には理解することすらできない。
リング中央で歓声を浴びながら、ヴァルターがゆっくりと視線を上げ、俺のいるVIPルームへとその冷徹な双眸を向けた。
遠く離れたガラス越しであるはずなのに、心臓を直接握り潰されたかのような悪寒が走る。
「……ハッ……冗談だろ……」
俺は震える右手を強く握り締めたが、掌の冷気が虚しく揺れるだけだった。
成金としての全能感も、勝利の余韻も、一瞬で吹き飛んでいた。
絶対王者、ヴァルター・クライス。
あいつは──次元が違う。
これまでの敵のように「弱点を突いて物理で逆転する」という甘い思考すら通用しないかもしれないという、底知れない恐怖が俺の全身を支配していた。
静まり返ったアリーナのリング上で、ヴァルターは歓声に一瞬たりとも表情を変えることなく、ただ悠然と背を向けて退場口へと歩き出した。
打ち捨てられたレオンの巨体が、大慌てで駆けつけた医療班によって搬送されていく。
VIPルームの防音ガラス越しにその凄惨な光景を見下ろしながら、俺はただ立ち尽くしていた。
「……なんなんだよ、ありゃ……」
ぽつりと漏れた声は、情けないほどに掠れていた。
今まで俺が戦ってきた相手──ヒートブロウの熱風も、ソニックブラストの音波も、どれほど厄介であろうと「物理の法則」に則っていた。だからこそ、冷気の伝導やヒートショックといった理屈を捏ね上げ、土壇場の知恵で逆転することができた。
だが、今目の前で起きた現象には、俺の知る物理現象のどれ一つとして当てはまらない。
熱風が消えた。体が勝手に歪んだ。
攻撃の軌道も、エネルギーの伝播も、何も見えない。理屈そのものが破綻している。
王者のやってのけたことがあまりに高度すぎて、俺にはその手口の「基礎」すら理解できていないのだ。
(射程一メートルの俺が……あんな化け物にどうやって近づけっていうんだ……?)
手の平に、じっとりと嫌な汗が滲み出す。
一メートル以内に引きずり込めば勝てる──そう信じ切っていた俺の傲慢が、音を立てて崩れ去っていく。間合いに踏み込むどころか、数メートル離れた位置から視線を向けられただけで、肉体を内部から潰されて終わる。
本気でヤバい。
次元が違うとか、格が違うとか、そんな生易しい言葉じゃ収まらない。あれは、人類の文脈から外れた異物だ。
パチ、パチ、パチ、と軽い手拍子の音が部屋に響いた。
「素晴らしい集中力だね、ケイジ君。あれほど真剣に王者の戦いを見つめる挑戦者は久々だよ」
背後の自動ドアが滑らかに開き、プロモーターの男が優雅な歩調で入ってきた。
その顔には、相変わらず視聴率と金を計算し尽くした胡散臭い笑みが張り付いている。
「……プロモーター。あいつの能力はなんだ。どんな仕掛けになってやがる」
俺は振り返りもせず、ガラス越しに暗いリングを見下ろしたまま低く問いただした。
「ふふ、それを解き明かすのも挑戦者の仕事だよ。だがね、君にはあまり長考している時間はない」
プロモーターは胸ポケットから上等な懐中時計を取り出し、チラリと視線を落とした。
「ヴァルター・クライスとのタイトルマッチは、今から三日後の夜。このアリーナのメインイベントとして開催される。すでに闇配信の事前賭け金は過去最高額を更新しているよ」
「……三日……だと?」
背筋に、氷を直接叩きつけられたかのような寒気が走った。
たったの三日。
原理すら理解できていない怪物との命がけの死線が、目と鼻の先に迫っている。
「君がこのまま王者の噛ませ犬となって惨めに破れ去るのか、それとも再び奇跡を起こして真の頂点に立つのか……世界中が固唾をのんで見守っている。健闘を祈っているよ、成金のヒーロー君」
プロモーターは肩をすくめると、満足そうにVIPルームを去っていった。
静寂が戻った室内で、俺はガタガタと震える自分の右腕を左手で強く押さえつけた。
三日後。
その言葉が、頭の中で不吉な鐘の音のように鳴り響き続ける。
アリーナを後にし、逃げるようにタワーマンションの自室へと戻った。
ガラス越しに広がる都心の眩い夜景。先ほどまで喉を鳴らして楽しんでいた最高級のスパークリングワインと、仕込みの施された江戸前寿司。
だが、今の俺にはそれら全てが、自分を狂わせる毒薬に見えた。
ボロアパートを抜け出し、手に入れた数億円の富。万人の称賛。誰もが羨む成功者の暮らし。
それら全てが、わずか三日後にあのアリーナの床で、俺の肉体とともにぐにゃりと押し潰されて消滅する──そんな鮮明な死のイメージが、頭から離れない。
「くそっ……! クソがッ……!!」
俺は高級な木製テーブルを拳で激しく叩きつけた。
グラスが大きく揺れ、極上のワインがテーブルクロスに赤いシミを作っていく。
失いたくない。
この金も、この地位も、この贅沢な暮らしも……何より、自分の命すらも。
一度本物の成功を知ってしまった俺には、もう泥水をすするような過去に戻ることも、無様に負けて死ぬことも許されないのだ。
「何なんだ……あいつは何をした……! 理由がない現象なんて存在するはずがないッ!」
俺は狂ったように端末を操作し、VIPルームのカメラが捉えていたヴァルターとレオンの短い映像を召喚した。
スロー再生、拡大、熱源センサー、空気振動の解析データ──プロモーターから送られてきたあらゆるログを画面上に並べ立てる。
ヴァルターが指を動かした瞬間の、微小な空間の揺らぎ。
熱風が消え去った境界線の歪み。
そして、レオンの巨体が圧縮された瞬間のベクトル。
「絶対になんらかの物理法則が働いているはずだ……。空間か? 体温か? 気圧か? それとも……」
画面を擦り切れるほど見つめ直し、血の走った目で画面をスクロールさせる。
射程わずか一メートルの『瞬間冷凍』しか持たない俺が、あの不可解極まる絶対王者を相手に生き残るための、たった一つの糸口。
タワマンの冷え切った部屋の中で、俺は死へのカウントダウンに怯えながら、暗闇の中の藁をも掴むような模索を狂おしく開始した。
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