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第11話 / 全14話
送迎車が地下のVIP待機エリアに滑り込み、静かにドアが開いた。
重苦しい冷気が車外から流れ込んでくる。コンクリートの壁の向こうからは、すでにアリーナを埋め尽くした数万人の観客が発する地鳴りのような歓声が、床を震わせて伝わっていた。
俺は乾いた喉を鳴らし、足元のおぼつかなさを必死で押し殺しながら車を降りた。
通路の壁に設置された巨大モニターには、闇配信のカウントダウンと世界中から集まる天文学的な賭け金の数字が目まぐるしく躍っている。
『いよいよ開幕! 無敗の絶対王者ヴァルター・クライス vs 破竹の勢いで成り上がった氷使いケイジ!』
『成金フリーターの快進撃もここまでか!? 王者の圧勝に全財産賭けたぞ!』
『撃破してきた弱点攻略は王者にも通じるのか!?』
コメントの嵐を目にするたび、胃の奥が雑巾を絞られるように痛む。
答えなんて出ていないのだ。
丸ふた晩、寝ずにデータを貪り尽くしても、俺の射程一メートルの『瞬間冷凍』であの怪物の懐に飛び込む方法は一つも浮かばなかった。ただ死地へ足を踏み入れるだけの、愚かな生贄。それが今の俺だった。
「……ふむ。死人のような顔をしているね、チャレンジャー」
静かな、だが嫌に通り易い声が通路の静寂を切り裂いた。
ハッと息を呑んで視線を向けると、選手用ラウンジの壁に背を預けた一人の男が立っていた。
ヴァルター・クライス。
絶対領域のアブソリュート──公式ファイトの頂点に君臨し続ける、正真正銘の無敗の王者だ。
高級な仕立ての漆黒のスーツを隙なく着こなし、その眼光は凍りついた湖面のように冷たく、一切の感情を宿していない。激戦を目前に控えているというのに、汗ひとつかいておらず、呼吸すら整いすぎている。
「ヴァルター……」
俺の口から、掠れた声が漏れた。
握り締めた右手が、無意識のうちにガタガタと震え出す。それをごまかすようにポケットへ突っ込み、俺は強がり気味に睨み返した。
「わざわざお出迎えかよ。王者様も、俺の成り上がりにビビって控え室でじっとしていられなかったのか?」
「強がりか、あるいは己の無知ゆえの妄言か」
ヴァルターは表情一つ変えず、静かに歩み寄ってきた。
足音すら聞こえないほど洗練された足取り。彼が一歩足を踏み出すごとに、周囲の空気が密度を増し、俺の皮膚に鋭い針で刺されたかのような圧迫感が押し寄せてくる。
「君の過去の試合動画を見たよ。なかなか知恵が回るようだ。環境を利用し、媒介を作り出し、届かぬ間合いを力ずくで埋める……実に見事な泥臭さだ」
「……褒めても何も出ねえぞ」
「褒めてなどいない」
ヴァルターは俺の数メートル手前で足を止め、薄く血の気の失せた唇を歪めた。
「所詮は格下の雑魚を相手にした浅知恵に過ぎない。氷をいくら作ろうと、媒介をいかに増やそうと……届かぬ氷などただの冷や水だ。君のその身の丈に合わぬ成金のプライドごと、リングの上で砕け散る運命にある」
「なんだと……!?」
「君が得たその富も、タワーマンションの暮らしも、高級な料理の味も……すべては幻影だ。本物の『絶対』を前にして、君に残されるのは無様な死の恐怖だけだよ」
怒りで視界が真っ赤に染まりかけた。
だが、ヴァルターの眼差しには、嘲笑すら含まれていなかった。ただ路傍の虫を観察するような、圧倒的な無関心と冷酷さ。それが何よりも俺の誇りを傷つけ、脳奥の集中力をズタズタに掻き乱した。
ボロアパートで凍えていた過去を捨て、手に入れた数億の価値。
回らない寿司の味、高層階から見下ろす夜景、万人の称賛──俺が必死で掴み取ったすべての『成功』が、目の前の男の一言で価値のないゴミ屑のように否定されていく。
「……黙れ」
「命が惜しければ、今すぐ棄権することだ。王座の重みに耐えかねた惨めな挑戦者としてな」
ヴァルターはそれだけ言い残すと、一瞥もくれずにリングへと続く入場ゲートへと歩み去っていった。
「くそっ……クソがッ……!!」
俺は壁を拳で激しく打ち据えた。
恐怖と怒りが混ざり合い、呼吸が乱れる。頭の中が真っ白になり、これまで培ってきた土壇場の鋭い思考が、ただのパニックによって掻き消されていく。
『両者、入場ッッ!!』
アリーナ全体を震わせる実況の叫び声が響いた。
鳴り止まない歓声、閃光のようなフラッシュの嵐。
逃げ場はない。
俺は乾いた唇を噛み切り、血の味を噛み締めながら、光の溢れる巨大リングへと足を踏み入れた。
四方を頑丈なワイヤーフェンスで囲まれた、円形の公式アリーナ。
対角線上に立つヴァルターは、すでに直立不動の姿勢で俺を見つめている。その周囲の空間だけが、まるで目に見えない密閉容器のように揺らめいて見えた。
手足が冷たい。頭が冷えるのではなく、生きた心地がしない恐怖で身体が固まっていく。
勝てるロジックなど何一つない。弱点も、攻略の鍵も、何ひとつ掴めていないのだ。
『闇配信のオッズは王者ヴァルターが九割以上を占めている! 果たして奇跡の氷使いケイジは、この絶望的な絶対領域を打ち破ることができるのか──対戦開始のゴングですッ!!』
カーンッ……!!
乾いた金属音がアリーナに甲高く響き渡った。
命を賭けた死闘の火蓋が、いま切って落とされた。
ゴングが鳴り響いた瞬間、俺は乱れた思考を無理やり打ち消し、前へと強く踏み出した。
恐怖で竦みそうになる脚に全神経を集中させる。考えるな。攻略法が分からないなら、まずは動いて手繰り寄せるしかない。
「ハァッ!」
俺は姿勢を低く落とし、右手をリングの床面へと勢いよく叩きつけた。
公式ファイトアリーナの床は、直前の清掃や演出の余波で、微量の結露と水分を孕んでいる。鳴神を破った時と同じロジックだ。床に薄く広がる水分を導線とし、冷気の波動を一直線にヴァルターの足元へ叩きつける!
ピキキキキキッ!
白い氷結のラインが、爆風のような速度でコンクリートの床を駆け抜けた。
一瞬でヴァルターのつま先まで到達し、その両足を一気に凍りつかせ──。
そう、思った直後だった。
パリンッッッ!
ヴァルターの体から半径三メートルほどの位置に達した瞬間、這い進んでいた氷の筋が、まるで目に見えない巨大な鉄槌に叩き潰されたかのように弾け飛んだ。
砕けた氷屑は、周囲に散らばる暇すら与えられず、一瞬で超高密度の圧力に揉み潰されて微粒子となり、空気中に蒸発するように消えてなくなった。
「……なに!?」
俺は目を見開いた。
冷気が伝わる途中のコンクリート床そのものが、まるでシュレッダーに掛けられた紙屑のように、綺麗に円状に押し潰されて粉砕されているのだ。
「言ったはずだ」
ヴァルターは片手をポケットに突っ込んだまま、一歩も動かずに俺を見下ろしていた。
その周囲の空気が、真夏の陽炎のようにゆらゆらと不自然に歪んでいる。
「冷気を伝える足場や媒介、あるいは物理的な攻撃……それらすべては、私の周囲に展開された高密度の力場の前に一瞬で分解され、消滅する」
「くそっ……『空間の歪み』の正体はこれかよ……!」
俺は弾かれるように立ち上がり、胸の奥からさらに冷気のリソースを絞り出した。
伝導がダメなら、氷の壁を作って盾にし、それを押し立てて強引に一メートル以内へ間合いを詰める!
俺は自分の周囲に分厚い氷の壁を即座に生成し、それを全身で押し出すようにしてヴァルターへ向かって突進した。
「喰らいつきやがれッ!」
数メートル。たった数メートルの距離。
だが、その「数メートル」が、地獄のように遠かった。
氷の壁がヴァルターの力場に接触した瞬間──。
ズゴォォォンッ!!
激しい空間の軋み音とともに、分厚く硬化させたはずの氷壁が、まるで豆腐のように脆く内側へと押し潰され、目にも留まらぬ速度で砕け散った。
破壊された氷壁の隙間から溢れ出た凄まじい衝撃波の圧力が、俺の身体を正面から叩きつける。
「ぐはっ……!?」
俺はリングの床を無様に転がり、数メートル後方へと激しく叩きつけられた。
受け身すら満足に取れず、背中と肋骨に鈍い激痛が走る。
頭上の巨大モニターには、恐ろしいスピードで闇配信のコメントが流れ込んでいた。
『おいおいおい! 氷使いの攻撃が届く前に消えたぞ!?』
『何だあの透明な壁!? 氷壁が一瞬で粉々に砕け散ったんだが!』
『射程1mの氷使いが近寄ることすらできないwww』
『冷気も氷も媒介も全部分解されるとか完全詰みじゃねーか!』
『成金フリーター、王者相手に手も足も出ず終了www』
観客席からの歓声が一転して、嘲笑と落胆の混ざり合った大騒音へと変わっていく。
誰もが、俺の敗北を……いや、一方的な手詰まりを確信していた。
「無駄な足掻きだな」
ヴァルターは冷ややかな瞳で、地面に這いつくばる俺を見下ろした。
「君の『瞬間冷凍』は、対象に触れるか、あるいは冷気を伝える媒介があって初めて成立する。だが……この絶対領域においては、冷気も、氷も、床という媒介すらも留まることを許されない。君がどれほど知恵を絞ろうと、私に届くルートそのものが最初から存在しないのだよ」
「ガハッ……ハァ……ハァ……」
胸を強く打ちつけられ、呼吸が浅く乱れる。
悔しいが、ヴァルターの言葉は残酷なほど正論だった。
射程わずか一メートル。
それが俺の異能の最大の弱点であり、致命的な限界。
これまでは周囲の環境を利用し、水やヒートショックを駆使して強引にその一メートルの間合いを形作ってきた。だが、目の前の怪物は、その「間合いを作るためのすべての現象」を、近づく前に力場で叩き潰して消滅させてしまう。
ルートがない。
近づく術がない。
冷気を届かせるための媒介すら、触れる前に粉々に破砕される。
「くそ……っ……!」
俺は膝をガタガタと震わせながら、どうにか立ち上がろうともがいた。
だが、ヴァルターとの間に横たわるのは、どんな知恵も届かない圧倒的で完璧な「絶望」だった。
「──終わりだ、成金のヒーロー君」
ヴァルターが静かに右手を持ち上げ、指先を俺に向けて軽く捻った。
その直後──俺の周囲の「空気」そのものが、一瞬で超高密度の鉄塊へと変貌したかのような凄まじい重圧が襲いかかってきた。
ガッ……ッ!?
「ぐはあっッッ!?」
目に見える攻撃など何もない。弾丸も、炎も、刃もない。
だというのに、目に見えない巨大な両手が俺の体を外側から全方位で力任せに押し潰すような、狂暴な圧迫力が全身を襲った。
メリメリメリッ……!
嫌な音が肉体の中から響く。
肋骨が軋み、みぞおちが激しく跳ね上がり、肺の中に残っていたわずかな空気が口から一気に吐き出された。
呼吸ができない。息を吸おうとしても、胸郭が外側から目に見えない力場でガチガチに固定され、一ミリたりとも広げることが許されないのだ。
「が、は……ッ、カハッ……!」
視界が急速に赤く染まり、ついで真っ暗に暗転していく。
内臓がぐちゃりと潰されるような激痛。全身の毛穴から嫌な冷や汗が吹き出し、血管が破裂せんばかりに頭汁が脈動する。
(なんだ……これは……!? 離れた場所から……俺の体を……直接押し潰してやがる……!?)
手も足も出ない。
近づくことも、防ぐことも、受け止めることすらできない。
ヴァルターは数メートル離れた位置で、ただ優雅に指先を向けているだけだ。それだけで、俺の肉体はなす術もなく内側から破壊されかけている。
そして──この肺が圧迫され、酸素を奪われ、全身の感覚が痺れ苛まれていく激しい窒息感と激痛は。
俺の脳裏の奥底に眠っていた、もっとも禍々しく、もっとも忌々しい記憶を鮮明に呼び覚ました。
(──寒い……苦しい……誰か……誰か開けてくれッ……!)
あの事故の日。巨大冷凍施設の中に置き去りにされ、分厚い扉の前に崩れ落ちた時の記憶。
皮膚の感覚が奪われ、指先が凍りつき、肺が冷気で焼け落ちるように痛んで呼吸が止まっていった、あの絶望。
真っ暗な闇の中で、己の命が氷のように儚く砕け散っていくのをただ待つしかなかった、地獄の苦しみ。
いま、アリーナの眩い照明と数万人の大歓声の中で、あの時の「死の再演」が起きていた。
(嫌だ……! 嫌だ嫌だ嫌だッ!!)
恐怖で体中の毛穴が逆立ち、心が悲鳴を上げる。
せっかくあの地獄から生き延びたんだ。
異能を手に入れ、闇配信で大金を稼ぎ、億単位の賞金を掴み取り、都心のタワーマンションで誰もが羨む贅沢を手に入れたんだ。
回らない高級寿司を食い、うまい酒を飲み、勝ち組として成り上がったはずだったのに──。
何が成金だ。何が氷使いだ。
結局俺は、あの冷凍庫で怯えて死にかけていた、無力でちっぽけなフリーターのままじゃないか!
「ガハッ……ッ!!」
口から鮮血が噴き出し、凍りついたアリーナのコンクリート床へ激しく叩きつけられた。
膝をつき、両手で床を擦りながら、俺は血の混じった唾液を吐き散らした。
体が動かない。指先一本動かすことすら、身体を包み込む不可視の空間圧迫によって阻まれている。
頭上の巨大モニターには、狂乱する闇配信のコメントと、俺の無惨な姿を嘲笑う言葉が津波となって溢れかえっていた。
『ぎゃあああッ! ヴァルターの遠隔圧迫出たぁぁぁッ!』
『ケイジ血吐いて倒れたぞ!? マジで何もできてねえ!』
『射程1mの氷使い、近づくこともできずに遠距離から潰されて草www』
『完全な地縛霊状態www これが絶対王者の壁かよ!』
『成り上がりフリーターの命、ここで完全終了のお知らせwww』
歓声と嘲笑が耳の奥でグチャグチャに混ざり合い、遠のいていく。
画面越しに見る世界も、アリーナの観客も、プロモーターの胡散臭い顔も、すべてが俺の無様な敗北を今か今かと待ち望んでいた。
「呆気ないものだな」
ヴァルターの冷酷な声が、頭上から降り注ぐ。
「君の誇るその異能も、土壇場の浅知恵も……王者の前ではただの戯れ言に過ぎなかった。さあ、そのまま己の無力を噛み締めながら、砕け散るがいい」
ヴァルターの右手が、さらに深く握り締められる。
それに呼応して、俺を包み込む空間力場が、逃げ場のない死の檻となってさらに収縮を開始した。
骨が鳴る。肉が悲鳴を上げる。
目の前が真っ白に染まり、強烈な絶望と死の恐怖が、俺の意識を闇の底へと引きずり込もうとしていた。
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