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第4話 / 全14話
弱点を突かれた。
近付いてこなければ冷却することができない──。
「ハハッ! どうした、氷使い! 自慢の冷気も、届かなければただのそよ風だな!」
薄暗い廃ビルのコンクリート床に、乾いた笑い声が響く。
俺の視線の先、十メートルほど離れた位置に立つ男──金属を自在に操る異能者が、不敵な笑みを浮かべていた。男の周囲には、ちぎれた鉄パイプの破片や、どこからか集めてきたらしいボルトやナットが、重力を無視してふわふわと浮遊している。
対する俺の手元には、さっきコンビニで買ったばかりの、二リットルのペットボトル。中身はただのミネラルウォーターだ。
俺の異能『瞬間冷凍』。
一見すれば最強に見えるこのチート能力には、あまりにも致命的な制約がいくつか存在していた。
その最たるものが「射程」だ。
俺が熱を奪い、物体を凍らせることができるのは、俺の身体を中心とした半径わずか一メートル以内の空間だけ。
それより一センチでも外側にあるものは、どれだけ強く念じようとも、一滴の水すら凍らせることはできない。
つまり、遠距離から飛び道具で一方的に攻撃されると、俺には手も足も出ないのだ。
「死ねよ、フリーター!」
男が腕を振るう。
空中に浮いていた金属のボルトが、凄まじい風切り音を立てて弾丸のように射出された。
音速に近い速度で迫る金属塊。
(弾丸そのものを凍らせるか!?)
一瞬、そんな考えが脳裏をよぎったが、俺はすぐにそれを却下した。
そんなことをしても意味がない。物理法則は無慈悲だ。どれだけ冷気で包み込もうが、物体の持つ運動エネルギー──すなわち慣性は消えない。マイナス三十五度のキンキンに冷えたボルトが、そのままの速度で俺の額に風穴を開けるだけだ。凍った弾丸だろうが、当たれば人は死ぬ。
「おおおおっ!」
俺は全力で横に飛び退いた。
直後、俺がいた場所のコンクリート床にボルトが突き刺さり、激しい火花と破片が飛び散る。頬をかすめた衝撃波だけで、皮膚がピリピリと痛んだ。
「おっと、避けるか。じゃあ、これはどうだ?」
男がにやりと笑い、今度は五本のボルトを同時に浮かび上がらせる。
まともに避けていては、すぐに追い詰められてハチの巣にされる。
近づくこともできず、飛び道具も防げない。
だが、俺にはこの頭がある。
あの冷凍庫での地獄の二十八時間を生き延びた、泥臭い生存本能がある。
「物理法則に従うってんなら……利用してやるよ!」
俺は走りながら、持っていたペットボトルのキャップを歯で噛みちぎって吐き捨てた。
そして、迫り来る五条の死線に対し、ボトルの中の水を前方へと勢いよくぶち撒いた。
空中に扇状に広がる、無数の水滴。
水滴が、俺の身体から一メートル以内のデッドラインに進入したその瞬間──。
「凍れッ!」
右手に意識を集中し、胸の奥にある『冷気のリソース』を強引に引きずり出す。
瞬間、手のひらから目に見えない極冷の波動が放たれた。
物理の基本だ。水は熱伝導率が高く、さらに空中に散布されて表面積が劇的に増大している。これなら、最小限の冷気で最大の効果を発揮できる。
ピキキキキキキキキッ!!!
鼓膜を刺すような鋭い凍結音が響く。
空中に飛び散っていた無数の水滴が一瞬にして連結し、俺の目の前に、薄く、しかし極めて密度の高い『氷の防壁』が形成された。
直後、射出された五本のボルトが、その氷の壁に激突する。
ギィィィン!!!
硬質な金属音が廃ビルに響き渡る。
氷の壁は蜘蛛の巣状のヒビが入ると同時に、一瞬で粉々に砕け散った。だが、ボルトの運動エネルギーは完全に相殺され、すべての弾丸が足元へと力なく転がった。
「なっ……なんだと!?」
金属使いの男が驚愕の声を上げる。
防いだ。だが、俺に喜んでいる余裕は微塵もなかった。
「はっ……はぁ、はぁ……!」
肩が激しく上下する。
今の一撃を防ぐだけで、俺の胸の奥にある『冷気リソース』──いわばマジックパワーのようなエネルギーが、ごっそりと削り取られたのが分かった。
感覚としては、全体の三割近くを一度に消費してしまった。
瞬間冷凍という芸当は、想像以上にリソースの消耗が激しい。もしこれをあと二、三回繰り返せば、俺は冷気切れを起こし、ただの無力な人間に戻ってしまうだろう。
おまけに、即席で作った氷の盾は、一度の攻撃を防ぐのが限界だ。
「ちっ、小賢しい真似を……! だが、そんな薄っぺらい氷の盾、何回も持つわけねえよな!」
男が苛立ちをあらわにしながら、さらに多くの金属破片を背後に浮かび上がらせる。
その数は十、いや二十。
まともに正面から受け止めれば、今度こそリソースが底を突く。
弱点を突かれた。近付いてこなければ冷却することができない。
射程一メートルの絶対的な壁。
冷気のリソースの限界。
この圧倒的な不利を覆すには、ただ正面から凍らせるだけではダメだ。
俺は砕け散った氷の破片が転がる床を見つめ、必死に頭を回転させ始めた。
この制約だらけの『瞬間冷凍』で、あの化け物を仕留めるための、泥臭い勝利の法則を組み立てるために──。
「氷を操る能力者、か。上等だ。お前がどんなに強力な氷の壁を作ろうが、手数が違えば防ぎきれねえんだよ!」
男は勝ち誇った顔で、浮かび上がらせたボルトや鉄パイプの破片をゆっくりと回転させる。
「距離を保ったまま、じわじわとなぶり殺しにしてやる。その自慢の氷、どこまで持つかな?」
(やっぱりそうだ。こいつ、俺のことを『氷を作り出す能力者』だと思い込んでる)
俺は内心でほくそ笑んだ。
敵の誤認は、俺にとって最大の武器になる。
俺の能力の本質は、氷の生成ではない。対象の『熱を奪う』ことだ。
そして、一瞬で凍らせる『瞬間冷凍』だけが俺のカードじゃない。じわじわと温度を下げ、凍った状態を維持する『持続冷却』。これなら、リソースの消費は瞬間冷凍の何十分の一、いや何百分の一に抑えられる。
問題は、どうやって十メートル先にいる敵に冷気を届けるかだ。
俺の射程は半径一メートル。
直接冷気を飛ばすことはできない。
俺は素早く周囲を見回した。
薄暗い廃ビルの天井、そして壁。
そこには、錆び付いたスプリンクラーの配管や、露出した古い水道管が這うように設置されていた。
(……使えるな)
物理の基本だ。コンクリートの熱伝導率は低いが、金属や水は極めて熱を伝えやすい。
さらに、物体の密度が低ければ低いほど、あるいは体積が小さければ小さいほど、凍らせるために必要な冷気エネルギーは少なくて済む。
つまり、広大な氷の塊を作るのではなく、目に見えないほど『極薄の氷の膜』を床に張るだけなら、ほんの僅かなリソースで実現可能なはずだ。
「おいおい、そんなに怯えて動けなくなっちまったか?」
男が挑発するように、浮遊するボルトを一本、俺の足元に向けて射出した。
床のコンクリートが激しく削れ、破片が飛び散る。
俺はわざとらしく悲鳴を上げ、背後の壁際へと無様に逃げ惑うフリをした。
背中のすぐ後ろには、露出した太い水道配管がある。
「ここが、お前の墓場だ!」
男が両手を広げ、一斉に金属片を放とうとした瞬間──。
俺は背後の水道管に、そっと右手を触れさせた。
(射程一メートル以内──ロックオン)
俺は胸の奥の冷気リソースを、針の先ほどに尖らせて意識する。
狙うのは、配管そのものではない。その内部を満たしている、わずかな錆水だ。
「……凍れ」
ピキィッ!
配管の内部で、水が一瞬にして凍りつく。
水は氷に変わる際、その体積を約十一パーセント膨張させる。密閉された鉄パイプの中で急激な体積変化が起きれば、どうなるか。
──バキィィィン!!!
金属が引き裂かれる凄まじい破壊音とともに、劣化した配管が破裂した。
内部に溜まっていた水が、激しい勢いで周囲に噴き出す。
「な、なんだ!? 狙いが外れて配管を壊しただと!?」
男が驚いて一瞬、攻撃の手を止めた。
噴き出した水は、傾斜した廃ビルの床を伝い、男の足元へと向かって急速に広がっていく。
「ハハッ! パニックになって自爆したか! 水を増やして、また盾でも作る気かよ!」
男は俺の行動を「自暴自棄の防御策」と捉え、嘲笑した。
その油断こそが、俺の狙いだ。
俺は床に広がった水たまりに、そっと靴の先を浸した。
俺の足元から、敵の足元まで、水は一本の太い導線のように繋がっている。
(瞬間冷凍は使わない。極限まで出力を絞れ……。ただ、冷たさを『維持』して伝導させるんだ)
俺は右足のつま先から、微弱な、しかし確実な冷気を床の水膜へと流し込んだ。
水は優れた熱伝導体だ。
コンクリートの熱を奪うのではなく、その表面を流れる水膜の熱だけを、ピンポイントで奪っていく。
リソースの消費は、驚くほど緩やかだ。スマホのバッテリーが数パーセント減る程度の感覚で、冷気の波が水の中を伝わっていく。
ピキ……ピキピキ……。
薄暗い廃ビルの中、男の目には見えない速度で、水膜の表面が凍りついていく。
それは厚さわずか数ミリ、いや、一ミリにも満たない『極薄の氷の膜』。
コンクリートのざらざらとした摩擦を完全に消失させ、絶対的な滑りやすさだけを提供する、死のスケートリンク。
「さあ、お遊びは終わりだ。ハチの巣にしてやるよ、氷使い!」
男が一歩、前へと踏み出そうとした。
トラップは、完全に張り巡らされた。
「おっと──!?」
男の余裕に満ちた表情が、一瞬にして驚愕へと塗り替えられた。
踏み出した右足が、何の手応えもなく滑る。
彼が踏み抜いたのは、コンクリートの摩擦が完全に消失した、厚さわずか一ミリにも満たない氷の死界だ。
「なっ、うわあああ!?」
激しく腕を振り回し、体勢を立て直そうとする男。だが、摩擦ゼロの氷の上では、その足掻きさえも無駄な運動エネルギーへと変換されるだけだった。
スリップした勢いのまま、男の体が前方に大きく傾ぐ。
金属を操る集中力が途切れたのだろう。男の背後に浮遊していた無数のボルトや鉄パイプが、ガラガラと音を立てて床に落下した。
そして、滑った慣性のまま、男の体は弾かれたように前方へと突っ込んできた。
真っ直ぐ、俺の元へと。
「しまっ──」
「よう。お待ちしてたぜ」
俺は一歩も動かず、突っ込んでくる男を正面から見据えた。
男の顔が、俺の眼前に迫る。
距離、八十センチ。
俺の絶対領域──半径一メートルのデッドラインの内側へ、自ら飛び込んできたのだ。
「この、ガキがぁッ!」
男が苦し紛れに、右拳を俺の顔面に向けて突き出してきた。
だが、遅い。
「残りのエネルギー、全部持ってけ!」
俺は胸の奥に残っていた、約七割の冷気リソースを、一切の躊躇なく一気に爆発させた。
狙うのは、男の体そのものではない。人間の体を一瞬で凍らせるには、膨大なエネルギーが必要だ。そんなことをすれば、こちらのリソースが先に尽きる。
だから、俺が狙ったのは『水』だ。
男の靴底、ズボンの裾、そして先ほど破裂した配管から浴びたであろう、衣服に付着した大量の水分。
さらには、男が踏みしめている床の水たまり。
「──凍れッッ!!」
キィィィィィィィン!!!
鼓膜が引き裂かれるほどの、凄まじい大音響が廃ビルに響き渡った。
俺の右手から放たれた極冷の波動が、男の衣服と足元の水分を瞬時に捉える。
一瞬だった。
男の靴とズボンの裾が、床に広がっていた水たまりごと、完全にカチカチの氷の塊へと変貌した。
ただ凍っただけではない。それは床のコンクリートと分子レベルで強固に結合し、男の肉体を地面へ完全に縫い付けたのだ。
「ぐっ!? あ、足が……動かねえ!?」
男が必死に足を引っ張ろうとするが、ビクともしない。強引に動かそうとすれば、骨が折れるか肉が引きちぎれるかの二択だ。
完全に動きを封じられた男は、なおも諦めず、床に落ちた鉄パイプを手元に引き寄せようとした。
「ふざけるな……! こんな至近距離なら、鉄パイプ一本でお前の頭を叩き割れるんだよ!」
男の意志に呼応し、一本の太い鉄パイプが勢いよく浮き上がり、俺の頭上へと振り下ろされようとする。
だが、その鉄パイプもまた、俺の射程一メートル以内に存在していた。
「無駄だ。物理の基本、その二を教えてやるよ」
俺は冷酷に言い放ち、迫り来る鉄パイプに向けて、右手のひらをかざした。
残された最後の冷気リソース、その一滴までも絞り出す。
「金属ってのはな……極限まで冷やすと、ガラスみたいに脆くなるんだよ。──『低温脆性』って言うんだがな」
ピキィッ……!
鉄パイプの表面が、一瞬で真っ白な霜に覆われた。
マイナス百数十度、いや、絶対零度に近い超低温。鉄の分子構造が急激に収縮し、その靭性を完全に失っていく。
「砕けろ」
俺は、凍りついた鉄パイプに向けて、デコピンをするように軽く指先を弾いた。
パキィン!!!
小気味よい、澄んだ音が響く。
かつては頑丈極まりなかったはずの鉄パイプが、まるで薄いガラス細工のように、粉々の破片となって虚空へと散っていった。
キラキラと光る鉄の破片が、男の目の前で静かに床へと降り注ぐ。
「嘘、だろ……? 俺の、鉄が……」
男は、自分の武器が文字通り「粉砕」された光景を前に、完全に戦意を喪失した。
足元はコンクリートと一体化して動けず、操るべき金属もすべて失った。
目の前に立つのは、息を荒くしながらも、不敵な笑みを崩さない一人のフリーター。
「バ、バケモノが……」
男の口から、引きつった悲鳴が漏れた。
「はぁ、はぁ……。勝負あり、だな」
俺は額の汗を拭いながら、ふっと息を吐き出した。
胸の奥の冷気リソースは、今や完全に空っぽだ。スマホのバッテリーで言えば、残り一パーセントの赤表示。今ここで襲われたら、もう何も凍らせることはできない。
だが、勝った。
能力の射程はわずか一メートル。リソースの限界もある。
それでも、物理法則を理解し、環境を利用し、頭脳をフル回転させれば、これほどの異能者を完封することすら可能なのだ。
じわじわと、胸の奥から確信に満ちた熱い感情が湧き上がってくる。
「制約だらけの瞬間冷凍……。だけど、これがあれば、本当に何でも解決できるじゃないか」
砕け散った鉄の結晶が床で静かに輝く中、俺は自分の右手を握りしめ、その無限の可能性に、静かに口元を歪めた。
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