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第3話 / 全14話
目が覚めた。
やはり、暗闇だった。
「……あれ?」
声が出た。喉が痛くない。
さっきまで死にかけていたはずだ。体温を奪われ、指先の感覚もなくなり、肺に冷たい空気が入ってこなくなって、確かに意識を手放した。
なのに、今はどうだ。
指を曲げてみる。動く。
足の指を動かしてみる。こちらも問題なく動く。
起き上がってみると、体が驚くほど軽い。
「生き、てる……?」
自分の体をあちこち触ってみる。
確かに冷たい。氷点下三十五度の冷気は周囲に満ちている。だが、さっきのように骨の芯まで凍みるような、あの暴力的な寒さを感じない。
むしろ、冷たいプールに浸かっているような、どこか心地よさすら感じる涼しさだった。
「どうなってんだ……?」
ポケットからスマホを取り出す。
画面をタップすると、バックライトが暗闇を照らし出した。
時刻は、午後八時。
「八時? 閉め出されたのは昼過ぎだったよな……じゃあ、数時間しか経ってないのか?」
そう思って、日付に目をやった。
そして、俺の思考は完全にフリーズした。
「は? 二十四、時間……?」
一日が経過していた。
いや、正確には二十八時間ほど経っている。
俺は、氷点下三十五度の冷凍施設の中で、丸一日以上も眠りこけていたのだ。
普通ならとっくにカチコチの冷凍マグロになっているはずだ。それなのに、俺は風邪一つひいていない。鼻水すら出ていない。
「嘘だろ……?」
画面のアンテナ表示を見る。
相変わらず圏外だ。だが、受信できなかった分の着信履歴の通知が、アンテナが戻れば届くはずの状態でたまっている。画面上部には不在着信のアイコン。
『着信あり:タカシ(昨日 18:30)』
『着信あり:タカシ(本日 12:15)』
親友からの心配そうな電話の履歴。だが、それだけだ。
警察に捜索願いが出されている様子もない。そりゃそうだ。ただの気まぐれなフリーターが一日連絡がつかないくらいで、大騒ぎになるはずがない。
「とにかく、ここから出ないと」
スマホのライトを頼りに歩き出す。
不思議なことに、暗闇への恐怖は薄れていた。体が寒さを拒絶していないせいか、妙に冷静だった。
昨日ぶつかった金属の棚をすり抜け、まっすぐ入口の方向へと向かう。
重厚な扉が見えてきた。
恐る恐る手をかけ、押し出す。
ギィ……。
呆気ないほど簡単に、扉は開いた。
「……開いた」
拍子抜けした。
安全対策の非常脱出レバーが内側にあったのか、あるいはただ鍵がかかっていなかっただけなのか。
扉の隙間から、薄暗い通路へと滑り出る。
そこは冷凍施設の廊下だった。
「おい、誰かいないか……?」
声を潜めて呼びかけるが、返事はない。
照明は消えており、静まり返っている。
そういえば、昨日は大きな音がして急に真っ暗になった。
俺はてっきり、停電か何かのトラブルで閉じ込められたのだと思い込んでいた。
だが、周りを見渡してみても、特に機材が壊れている様子はない。
「もしかして……」
ただ従業員が仕事を終えて、照明を消して帰っただけじゃないのか?
大きな音は、どこかのシャッターが閉まった音か、あるいは冷凍機の動作音だったのだろう。
つまり、俺はただの「消灯」を「世界が滅びるレベルのトラブル」と勘違いし、勝手にパニックになって気絶していただけということになる。
「恥ずかしすぎる……」
顔がカッと熱くなる。
もし誰かに見つかったら、「不法侵入した挙句、勝手にビビって一日中冷凍庫で寝ていた男」として一生の恥を晒すことになる。それだけは絶対に避けたい。
俺は泥棒のように足音を潜め、建物の出口へと向かった。
終業時間を過ぎているため、当然ながら人影はない。
通用口のロックは内側からなら簡単に解除できた。
ガチャリと静かな音を立てて、俺は夜の屋外へと足を踏み出した。
生温い夜風が、全身を包み込む。
「……助かった」
誰もいない静かな港。
遠くで波の音が聞こえる。
自分が本当に生きて戻ってきたのだという実感が、じわじわと湧いてきた。
たった一度の過ち。
それは、九死に一生を得るという結末で、誰にも知られることなく幕を閉じたのだ。
俺は誰にも気づかれないように、足早に港を後にした。
いつもの日常へと、戻るために。
「暑っっっっつ……」
翌日の昼。太陽は容赦なく照りつけ、アスファルトから陽炎が立ち上っていた。
俺は頭を抱えながら、ギラギラと輝く太陽を睨みつける。
昨夜、あの冷凍施設からこっそりと脱出した後、俺は這うようにしてボロアパートへと帰り着いた。
そして、そのまま泥のように眠った。
丸一日以上も氷点下三十五度の極寒に晒されていたのだ。目が覚めたら高熱を出して寝込んでいるか、最悪の場合、体に重大な後遺症が残っているのではないかと怯えていた。
だが、驚くべきことに、俺の体は至って健康だった。
喉の痛みもなければ、鼻水すら出ていない。手足の指も、凍傷どころか血色が良すぎるくらいだ。何事もなかったかのように、いつもの日常がそこにあった。
警察や救急車が騒ぎ立てている様子もない。俺が冷凍庫に閉じ込められていたことなど、世界中の誰も知らないのだ。
しかし、問題はこの暴力的な暑さだった。
「なんだよこれ……昨日より暑くないか?」
さっきまで、死ぬほど凍えていたのだ。正確には昨夜までだが、体感としてはついさっきのことのように思える。
氷点下三十五度の極寒から、一気に三十五度を超える猛暑へ。
その温度差、実に七十度。
急激な環境の変化に、自律神経が悲鳴を上げているのだろうか。相対的な温度差のせいで、いつも以上に暑さが体にまとわりついてくるように感じられた。
全身から滝のように汗が噴き出し、喉がカラカラに渇いていく。
「水……水をくれ……」
耐えかねた俺は、近くのコンビニへと転がり込んだ。
自動ドアが開くと、冷房の風が吹き抜ける。普段なら「涼しい」と喜ぶところだが、今の俺にとっては、どこか生ぬくく感じられた。あの冷凍施設の、肌を刺すような鋭い冷気が、頭の片隅で妙に恋しくなっている自分に気づく。
俺はふらふらと飲料コーナーへ向かい、冷蔵棚から一番冷えていそうなペットボトルの水を掴み取った。
レジで手早く会計を済ませ、店を出る。
一歩外へ踏み出した瞬間、再びねっとりとした熱気が全身を包み込んだ。
「早く帰ろう……」
俺は足早に歩き、自分の住む木造アパートへと戻った。
築四十年のボロアパート。エアコンも冷蔵庫もない、文明から取り残された俺の城だ。
二階の角部屋にある自室のドアを開けると、中にはさらに濃厚な熱気がこもっていた。窓を開けても、入ってくるのはぬるい風だけだ。室温は優に三十八度を超えているだろう。
「ただいま、我が地獄……」
俺は床にへたり込み、買ってきたペットボトルの水をテーブルに置いた。
じっとりとした汗が額を伝う。
「冷たい水……早く、キンキンに冷えたやつを……」
喉の渇きは限界だった。俺は慌ててペットボトルを掴み、キャップをひねる。
そして、一気に口に含んだ。
「──ぬるっ!」
思わず顔をしかめた。
コンビニからアパートまでの、ほんの数分の道のり。そしてこの部屋の凄まじい室温のせいで、冷たかったはずの水はすっかりぬるま湯のようになっていた。
喉を通り抜ける生ぬるい液体は、渇きを癒すどころか、かえって不快感を倍増させる。
「あっちいいいい~。キンキンに冷えた水が飲みてえなあ。俺もなあ」
俺は天井を仰ぎ、声を大にして叫んだ。
あの冷凍庫の、すべてを瞬時に凍らせるような、容赦のない冷たさ。
あれが今、この手元にあればいいのに。
俺はペットボトルを握りしめ、心の中で強く、強く願った。
その瞬間、握りしめていた右手のひらに、ゾクッとするような奇妙な感覚が走った。
静電気のような微弱な刺激。それが指先から手のひら、そして腕へと駆け抜けていく。
同時に、プラスチックの薄い壁越しに、劇的な変化が伝わってきた。
「……冷た、い?」
思わず声が漏れた。
さっきまで体温と部屋の熱気ですっかり生ぬるくなっていたペットボトルが、急速に熱を失っていく。いや、熱を奪われているのだ。
じんわりと汗ばんでいた手のひらが、みるみるうちに冷やされていく。
俺は慌ててボトルを目の前に掲げた。
信じられないことに、透明なボトルの表面に、うっすらと白い結露が生じ始めていた。それだけではない。触れている指先が、まるで氷を直接触っているかのようにジンジンと痺れ始めている。
「おいおい、マジかよ……」
ゴクリ、と唾を飲み込む。
ただの気のせいじゃない。ペットボトルの中の水が、明らかに「キンキンに冷えた」状態へと変貌を遂げていた。冷蔵庫で何時間も冷やし続けたかのような、完璧な冷たさ。
喉の渇きも忘れ、俺は呆然とボトルを見つめた。
あの冷凍施設で過ごした二十四時間。凍死することなく、健康なまま生還した肉体。
点と点がつながるような、奇妙な予感が頭をよぎる。
もし、俺の体に何かが起きているのだとしたら。
あの極寒の闇の中で、俺が何か常識外れの力を手に入れていたのだとしたら──。
「……凍れ」
確信を求めるように、俺はボトルを両手で包み込み、強く念じた。
あのマイナス三十五度の、すべてを凍りつかせる絶対的な冷気をイメージする。
ピキ。
静かな部屋に、小さく、だが明瞭な凍結音が響いた。
それが合図だった。
ボトルの底から、白い結晶が急速に立ち上っていく。
ピキピキ、ピキピキピキピキ!
結晶は意志を持つ生き物のように、らせんを描きながら水の中を駆け上がっていった。
水面へと達した瞬間、ボトル全体が激しく震える。
一瞬だった。
ほんの一秒か、二秒。
俺が目を開けて見届ける間すらないほどの刹那の間に、ボトルの中の液体は完全に光を失い、真っ白な氷の塊へと姿を変えていた。
「うおっ!?」
あまりの冷たさに、俺は悲鳴を上げてペットボトルを放り出した。
畳の上に転がったボトルは、鈍い、重々しい音を立てた。
恐る恐る拾い上げてみると、ボトルはカチコチに凍りついており、指で押してもびくともしない。表面にはびっしりと霜が降り、部屋の熱気に触れてうっすらと白い煙のような冷気を吹き出している。
完全に、凍っている。
コンビニで買った、ただのミネラルウォーターが。
エアコンも冷蔵庫もない、この灼熱のボロアパートの真ん中で、一瞬にしてカチカチの氷山へと変貌したのだ。
「嘘だろ……」
俺は自分の両手を見つめた。
赤みがかかった、ごく普通の、少し荒れた二十代の男の手だ。
しかし、その手のひらからは、今もなお、微かにひんやりとした心地よい冷気が立ち上っている。
熱を奪う力。
あらゆるものを瞬時に氷結させる力。
「もしかして、俺、チート覚醒した?」
ぽつりと呟いた言葉が、静かな部屋に響く。
間違いない。これは夢でも幻覚でもない。
あの冷凍施設での「たった一度の過ち」は、俺を死に追いやるトラップなどではなかった。
俺に、この世界を生き抜くための、圧倒的な力を授けるための儀式だったのだ。
じわじわと、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
エアコンもない、冷蔵庫もない、金もない。
そんな底辺の生活を送っていた俺の手に、今、世界を揺るがすほどの異能が握られている。
俺は不敵な笑みを浮かべ、もう一度、凍りついたペットボトルを手に取った。
冷たい。だが、今の俺にとっては、この冷たさこそが何よりも愛おしく、そして頼もしい相棒のように思えた。
「瞬間冷凍……。これがあれば、何でもできるんじゃないか?」
灼熱の部屋の中で、俺の新しい人生が、今、静かに、しかし劇的に幕を開けようとしていた。
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