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第12話 / 全14話
メリメリ、と耳障りな骨の軋み音が俺の頭蓋の内で反響する。
視界が赤黒く濁り、口の中に溜まった生暖かい血の味が喉を焼いた。
(息が……吸えねえ……ッ!)
目に見えない巨大な圧迫感が、全方位から俺の身体を叩き潰している。
肺は押し潰され、肋骨の一本一本が悲鳴を上げ、皮膚の毛細血管が次々と弾けて皮膚の下で赤黒い内出血の斑点を広げていく。
ヴァルター・クライス。リングの中央で優雅に指先を向ける無敗の絶対王者。あいつはただの一歩も動くことなく、俺の命を物理的にすり潰し、ゴミのように処理しようとしていた。
脳裏の奥底から、あの不吉な暗闇がぐにゃりと鎌首をもたげる。
氷点下三十五度の巨大冷凍施設。閉ざされた分厚い金属扉の前で、凍りつく指先を擦り合わせながら絶望に震えていたあの二十八時間。
あの時と同じだ。全身の感覚が冷たく痺れ、死の足音が耳元でささやいている。
だが──。
(……ふざけ……んな……ッ!)
暗闇の底から湧き上がってきたのは、恐怖ではなかった。
胃の底を焼けつくすような、ドロドロとした狂暴な激怒だ。
俺は死にもの狂いで成り上がったんだ。
泥水をすすり、安魚の鍋で寒さを凌ぐ惨めなフリーター生活から、己の命を闇配信のリングに晒してここまで上り詰めただろ。
手に入れた億単位の金。都心の夜景を見下ろすタワーマンション。回らない高級寿司。万人の称賛と羨望。
それら全てを掴み取って、ようやく「人間」としての人生が始まったばかりなんだ。
それを──ここで、あいつの足元で、無惨な肉塊に変えられて全てを失うだと?
あの暗いボロアパートへ戻るどころか、このアリーナの床で惨めに野たれ死ねだと!?
「ふざけるな……ふざけんなよぉぉぉッッ!!!」
喉の粘膜が引き裂かれ、血みどろの咆哮が俺の口から爆発した。
ドクンッ!! と、心臓が肋骨を破らんばかりに暴れ打つ。
全身の毛細血管が一斉に破裂し、顔面から首筋にかけての皮膚に、ブチブチと青黒い血管の網目が恐ろしい密度で浮き上がった。
視界を染める血の赤が、激怒の熱によって焼き尽くされていく。恐怖の限界を超えた俺の脳内では、生存本能というタガが完全に吹き飛んでいた。
誰が死ぬか。誰が負けるか。
俺から富を、地位を、命を奪おうとする奴は、神だろうが王者だろうが全員ブチ殺してやる!!
(寄こせ……熱を寄こせッ! この世の全てから熱を奪い尽くせッッ!!)
俺は自分自身の体内に残された「冷気リソース」の限界枠を、爪を立てて強引に食い破った。
普段なら能力の反作用で脳が焼き切れるのを恐れ、無意識に設けていた安全装置。それを自らの手で粉砕し、体内の奥底に潜む「絶対的な欠損」を解き放つ。
その瞬間、俺の全身から発せられる気配が一変した。
バリバリバリバリッッッ!!!
俺が突伏していたコンクリートの床が一瞬で白く変色し、まるで悲鳴を上げるように激しい亀裂を走らせた。
だが、それは単に「氷が張る」ような現象ではない。
俺の肉体を中心とした半径一メートルの空間から、あらゆる熱エネルギーが、まるで巨大なブラックホールに吸い込まれるように超高速度で消失を開始したのだ。
空気の分子運動が急速に死滅していく。
アリーナを照らす強烈な照明の熱すらも奪われ、俺の周囲の光が不自然に屈曲し、視界が歪み始める。
「ぬ……!?」
俺を見下ろしていたヴァルターの眉が、初めて僅かにピクリと動いた。
あいつの顔から、余裕に満ちた冷笑が消えかかる。
俺は血走った眼球でヴァルターを睨みつけ、ギチギチと歯を噛み締めながら、押し潰された体幹を強引に起こし始めた。
骨が軋み、肉が引きちぎれる激痛。だが、そんなものは今の俺にとってどうでもよかった。
殺してやる。この手で、あいつの全てを凍てつかせて殺してやる。
発狂した俺の全身から浮き出た血管が凄まじい脈動を打ち、アリーナの温度を絶望的な速度で叩き落とし始めていた。
「足掻いたところで、結果は変わらん」
ヴァルターの冷徹な声が、重圧の底に沈む俺の頭上へ届いた。
奴は持ち上げた右手にさらに力を込め、嘲笑うかのように指先を捻り上げる。
「氷の壁を作ろうが、足場を凍らせようが関係ない。高磁場によって圧縮された空間力場は、熱も衝撃も、お前のような不発の異能も全て叩き潰す。王者の領域に届く術など、この世のどこにも存在しないのだ」
さらに強まる不可視の圧迫。
俺の肋骨がみしりと音を立てて歪み、血が口から溢れ出た。
だが──俺の体内で解き放たれた「熱の奪取」は、もはや誰にも止められない。
ドクンッ!! ドクンッ!!
体内の奥底から脈打つ極冷の波動が、全身の血管を暴走させていく。
俺の皮膚は青白く透け、その下で浮き出た血管が怒張し、まるで全身を這う紫の刺青のように膨れ上がっていた。
意識が途切れかけるほどの劇物のような激痛。だが、頭の中は恐ろしいほどに冴え渡っていた。
(氷……? 誰が氷を作ってるなんて言った……?)
そうだ。俺の能力の本質は、氷を生み出す魔法のようなものじゃない。
対象から「熱」という物理エネルギーを根こそぎ強奪し、不可逆の極低温へ叩き落とす──物理法則そのものへの介入、「急速冷却」だ!
バリバリバリッ、と大気を引き裂くような苛烈な音が周囲を覆う。
俺を中心とした半径一メートルの空間。そこに含まれる空気、コンクリートの微粒子、舞い散る水分、そしてリングに散らばっていた金属の破片までもが、絶対零度近くの極限領域へと一気に叩き落とされた。
その瞬間──世界が変変貌した。
ピキィィィィンッッッ!!!
空間を切り裂く、聞いたこともない高音の破壊音が響き渡る。
俺の周囲で極低温に達した物質群が、相次いで物質の相転移を起こし──『超伝導状態』へと突入したのだ。
電気抵抗が完全にゼロとなった超伝導体。
それが何を引き起こすか。
ヴァルターの異能の正体──周囲に展開された超高密度の「高磁場操作(空間力場)」。
物理世界において、超伝導体と強力な磁場が遭遇した時に生じる絶対的な物理現象──『量子ピン止め効果』と『完全ダイアマグネティズム(反磁性)』の相克が、このリングの上で強制的に発生した。
ズバアアンッッッ!!!
「な……ッ!?」
ヴァルターの余裕に満ちた顔が、初めて驚愕に歪んだ。
俺を全方位から押し潰していた不可視の空間圧迫が、俺の周囲の超伝導物質と衝突した瞬間、強力な磁界の力線が固定され、互いに強烈な物理的反発力を生み出して一気に破裂したのだ。
俺の身体を締め付けていた重圧が、嘘のように霧散する。
弾け飛んだ空間力場の衝撃波がアリーナの天井を揺らし、照明のライトが激しく明滅した。
頭上の巨大モニターには、事態を理解できずにパニックを起こす闇配信のコメントが爆発的に流れる。
『えッ!? なにが起きた!?』
『ヴァルターの空間圧迫が弾けたぞ!?』
『何だ今の音!? 氷が弾けたんじゃない……空気が爆発した!?』
「バカな……! 私の空間力場が……干渉され、押し返されただと!?」
ヴァルターが信じられないものを見る目で、己の右手と俺を見つめる。
「氷使いが……足掻いたところで何ができるというのだ! 物理攻撃も熱も遮断する私の絶対防壁に、なぜ接触できる!?」
「ハ……ハハッ……!」
俺は血の混じった唾液を床に吐き捨て、膝を突いた状態からゆっくりと立ち上がった。
身体中で血管がブチブチと悲鳴を上げている。皮下の毛細血管が限界を超えて破裂し、皮膚からじんわりと血が滲み出していた。体がバラバラに引き裂かれそうな激痛。
だが、俺の口元は、狂気に満ちた笑みを刻んでいた。
「勘違い……すんじゃねえぞ、王者様よ……」
俺は血走った両目でヴァルターを射抜き、喉を破らんばかりの音量で咆哮した。
「俺の能力は……氷を作るだけの生ぬるい異能じゃねえ! 『急速冷却』……熱を奪い尽くす理屈(力)だ!!」
「なに……!?」
「氷なんてものはなぁ! 熱を奪った結果として残る『ゴミ』に過ぎねえんだよッ! 俺の本質は……物理法則そのものを狂わせる極冷の熱奪取だ!!」
俺は限界を超えて解放した冷気リソースを、さらに深く、自らの肉体を削りながら注ぎ込んだ。
ピキピキピキキキキキッッッ!!!
俺の全身から立ち上る白煙が、もはや煙ではなく青白い光の奔流となって吹き荒れる。
周囲の超伝導領域が爆発的に拡大し、ヴァルターが張っていた絶対防壁(高磁場)と真っ向からぶつかり合い、空間そのものをきしませる絶大な反作用を引き起こした。
「くっ……何という磁界の乱れ……! 私の力場が、固定され……弾き返されているだと!?」
ヴァルターの額に、初めて冷や汗が滲む。
絶対無敵を誇っていた王者の防壁が、超伝導の物理的ピン止め効果によって、内側からバリバリと音を立てて亀裂を深めていく。
「死にたくねえから……成り上がったんだよッ!」
血反吐を撒き散らしながら、俺は前へ一歩踏み出した。
超伝導の物理反発力が俺の全身を押し包み、ヴァルターの不可侵の領域を強引にこじ開けていく。
激痛で視界が真っ赤に染まる。全身の肉が千切れそうなほどの負担。
だが──俺は絶対に、この冷却をやめない!
「バカな……! 氷使いが、何をしている……!?」
ヴァルターの優雅な面容が、今度こそ完全に崩れ去った。
奴が周囲に展開していた不可視の超高密度力場──いかなる熱も衝撃も物理攻撃すらも叩き潰してきた絶対の防御壁が、超伝導状態となった空気と金属片の反磁性によって、物理的にひび割れ、砕け散っていく。
力場と超伝導体が接触した箇所から発生する凄まじい量子ピン止め効果が、ヴァルターの磁場そのものを「固定」し、逆に奴の空間支配を内側から崩壊させていた。
「あり得ない……! 単なる氷の生成ではないというのか……!? 物理法則を歪めて磁場に干渉するなど……!」
「言ったはずだぜ……王者様よぉッ!!」
俺は破裂した皮膚から血を吹き出させながら、力任せにまた一歩を踏み出させた。
ズドンッ!!
足を着いた瞬間、アリーナのコンクリート床が超伝導の磁気反発力によって豪快に爆ぜ飛ぶ。
体が、熱い。いや、体内の熱は根こそぎ奪い尽くされているはずなのに、過剰な負荷と激痛によって全身の神経が焼き切れるような灼熱感を錯覚していた。
皮下血管はことごとく限界を迎え、全身から噴き出す血で仕立てのいいジャケットは黒く濡れそぼっている。
骨がミシミシと嫌な音を立てて軋み、内臓がねじ切れ、肉体が今すぐにでもバラバラに四散して爆発しそうなほどの激痛。
だが──だからどうした!
死への恐怖と、失うことへの焦燥を突き抜けた俺の頭の中には、ただ一つ、「目の前の化け物を引きずり下ろす」という狂気的な生存本能だけが渦巻いていた。
(止めるな……絶対に冷却(これ)を緩めるんじゃねえッ!)
体内の欠損(リソース)をさらに力任せに引きちぎり、周囲のあらゆる熱エネルギーを喰らい尽くす。
俺の体を中心とした半径一メートルの絶対領域が、絶対零度の極冷と超伝導の嵐となって、ヴァルターの絶対領域を力任せに押し潰しながら侵食していく。
頭上の巨大モニターには、狂乱を超えてもはや恐慌状態に陥った闇配信のコメントが、処理しきれない速度で画面を埋め尽くしていた。
『うそだろおいおいおいおいッ!?』
『ヴァルターの絶対防壁が……押し込まれてる!??』
『ケイジの全身から血が噴き出してるぞ!? なんだあのバケモノみたいな姿は!』
『「氷じゃなくて冷却だ」ってマ!? 物理法則で王者の磁場を殺してんのか!?』
『行けぇぇぇぇ成り上がりッ! そのままあの気取った奴の顔面叩き割れぇぇぇッッ!!』
観客たちの悲鳴と大歓声が、地鳴りのような咆哮となってアリーナ全体を震わせる。
「調子に乗るな……泥濡れの成り上がり者がぁッッ!!」
窮地に追い詰められたヴァルターが、かつて見せたことのない激昂の表情で叫び、両手を強く突き出した。
奴の周囲の空間がぐにゃりと歪み、残された全高磁場が圧縮され、壁となって俺の進路を阻もうと押し寄せてくる。
だが──遅い!
「奪い尽くせぇぇぇッ!! 『極冷超伝導(アブソリュート・ゼロ)』ッッ!!」
俺の咆哮とともに、解き放たれた冷却の波動が最高潮に達した。
ヴァルターが放った渾身の磁場圧縮が、俺の纏う超伝導領域と真っ向から衝突。
物理的な反発力と量子固定の嵐が激突し、アリーナ中央の空間そのものが爆発的な衝撃音とともに叩き割られた。
ドガアアァァァァンッッッ!!!
衝撃波が全方位へ吹き荒れ、アリーナの分厚い強化ガラスがことごとく粉々に弾け飛ぶ。
「なっ……がはっ……!?」
自慢の力場を破砕された物理反作用を受け、ヴァルターの口から苦しげな吐血が漏れた。
奴の完全無欠だった防壁が、完全に霧散する。
そして──。
「ハァ……ハァ……ッ!」
血反吐を撒き散らし、全身の肉体を悲鳴させながら、俺の足が踏み込んだ。
ザッ。
その一歩。
俺の身体を中心とした半径一メートル──俺の『瞬間冷凍』が絶対的な牙を剥く殺戮領域(間合い)の中に、ついに無敗の絶対王者ヴァルター・クライスが完全に収まった。
「しまっ──」
青ざめるヴァルター。
俺は血で染まった右腕を、全身の骨が砕け散るのも厭わず、解き放たれた極冷の威容とともに直進させた。
届く。
この右手で、王者の喉元を直接凍てつかせる死の間合いへ──!
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